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日常生活を崩壊させたコロナ禍、異界につながる「祭り」と類似性 『ポスト・コロナの文明論』

記事:明石書店

非日常世界の出現

 感染症の蔓延は、平穏なありふれた日常生活から、突然、人びとを非日常の世界へ投げ出した。今、世界中で起こっている現象は、まさしくこのような異常な世界の光景である。

 これまで、日常生活から非日常生活の転換は、祭りというかたちで設定されてきた。これは、祭りのどんちゃん騒ぎやオルギアで日常世界の憂さを発散させ、それを経て社会を再生させるための先人の知恵である。コロナ禍は、このルーティン化された非日常と異なり、突発的に人類に襲いかかってきたものであって、ましてや祭りとまったく異質なものに見える。しかし祭りの基本構造を分析すれば、奇妙な類似性が浮かび上がってくる。

異界が口を開けるとき

 祭りでは、日常世界であるミクロコスモス(小宇宙)と、非日常世界であるマクロコスモス(大宇宙、異界)というふたつの世界の境界線が消え、両方の行き来が可能となる。これが祭りのコスモロジーの特徴である。多くの場合、異界から妖怪(ハロウィーン)や超能力者(サンタクロース、神など)、悪魔などがミクロコスモスへ来訪するとされた。

ファスナハトの妖怪 : 死神 : クランプス
ファスナハトの妖怪 : 死神 : クランプス

 ヨーロッパの祭りの中で、洗練された現代風のそれでなく、祭りの原型ともいえる土着の聖ニコラウス祭、聖トーマス祭、カーニバル、冬の追い出し祭りなどでは、多くは仮面をかぶって仮装した怪物が登場してくる。とりわけ聖ニコラウス祭のクランプスという名の怪物が異彩を放つ。筆者はかつてオーストリアの山村で聖ニコラウス祭のフィールドワークをしたことがあるが、そこで登場してきたクランプスは、人びとを威嚇して制裁を与える役割をもつものであった。これは角を生やし、鞭をもって暴れまわり、恐ろしい形相をしており、原型は動物をベースにつくられている。

 日本にもクランプスに似たナマハゲが大晦日に登場する。日本における鬼の仮面の習俗は、秋田だけでなく青森、岩手のスネカ、山形のアマハゲ、鹿児島の甑島のトシドン、八重山群島のアカマタ・アオマタなどに広く分布している。しかし調べれば調べるほど、クランプスとナマハゲはあまりにも似ており、共通する祭りの構造に驚くよりほかはない。しかしナマハゲは威嚇だけではなく、豊饒を与える二面性をもっているので、同一ということはではない。

 祭りの結社は集団で、同一の仮面と衣装を着てパレードをすることが原則となっている。これも人間が動物に変身するという逆転した異界を創り出す演出である。腰に付けているのは鈴で、本来、この大型のものは放牧している牛の首に吊るし、歩くとゴロンゴロンと鳴るので、居場所がわかるという理由で付けられている。

 仮面の妖怪は、異界やあの世からあらわれ、人びとを威嚇する。そうして、人びとはデーモンがこの世の悪霊や罪、苦悩、病気を引き寄せ、異界へ連れ戻してくれることを願うのである。祭りの時空はその交換の場であって、仮面はそれを視覚化する装置であった。多くの場合、本来の祭りは異界を暗示する夜におこなわれてきた。

  ヨーロッパのクランプスもニコラウス祭では悪役で、とくに子供たちには恐れられる存在である。じつはクランプスは異教時代には、ナマハゲと同じく豊饒と制裁という両方の役割を担っていたが、キリスト化されて以降、聖ニコラウスが豊饒を与える役になり、クランプスは悪役に回ったという経緯があった。しかしクランプスは現代でも祭りに登場しているが、これは今荒れ狂っている新型コロナと二重写しになっていると考えられないであろうか。

キリスト教の祭りは、土着のアニミズム的な祭りと対になっている
キリスト教の祭りは、土着のアニミズム的な祭りと対になっている

 すなわちコロナは、目に見えない妖怪として、現代社会に対する制裁を与える役割を担って、異界から登場し、猛威を振るっていると解釈できる。しかも先人が考え出したクランプスより怖いのは、具体的な姿が見えないだけに、どこに潜んでいるかわからないことである。親しい身内が新型コロナに感染しているかもしれない。一層恐怖心をあおるのは、人びとが疑心暗鬼になって勝手にイメージを増幅してしまうことだ。

 街中や交通機関の中でも、神経をとがらせ、多くの不安とストレスに苛まれる。不安感は流言飛語を生みだし、それが次々と拡大する。たえず相手を中傷誹謗し、憎悪、差別、暴力が生み出されていく。不安や自己防衛、他者攻撃という人間の性が作用するからだ。

 危機に直面したときに考えること

 歴史は繰り返すというが、中世のペスト禍と670年くらいのタイムラグがあるにもかかわらず、当時と現代の人間行動のメカニズムを比較すると、奇妙なほどアナロジーがあることに驚かされる。中世後期には盤石と思えたキリスト教が揺らぎはじめ、死に直面した人びとは途方に暮れ、必死にそれから逃れるすべを見い出そうとした。かれらがそこで見たものはまさしく地獄絵そのものであった。

 現代文明も揺るぎないものと信じられてきたが、コロナはいとも簡単に日常生活が崩壊するものであることを知らしめた。そこで共通するのは、盤石と思えてきた文明が、じつは薄い地殻の上に打ち立てられていたものであって、容易に崩壊し、人間は奈落へ突き落されるという現実である。

 それは感染症だけの問題でない。近未来に予想されている巨大地震や大災害に対する備えと重なる部分がある。非日常の危機に直面したときに、それを想定した複合的な対策は、現代日本でも不可欠な課題であろう。危機は社会構造を破壊し、日常を異次元化する。その際、人びとは平穏な日々がいかに大切であるかを実感する。コロナは、現代の社会のあり方、人間の振る舞いを考えなおすきっかけとなった。異界と日常世界の意識は、ポスト・コロナの時代の出発点なのである。

(『ポスト・コロナの文明論』(第2章)から一部改変のうえ掲載)

 

 

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