ノーベル経済学賞の「オークション理論」とは? 第一人者がわかりやすく解説
記事:筑摩書房
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日本人は「ものづくり」という言葉を好みます。この言葉から多くの人が想像するのは職人や技術者、町工場や工業地帯といった製造業に関する事柄ではないでしょうか。
確かにこれらはモノを作ることに関係しています。物理的に何かを製作する「理工的ものづくり」と言ってもよいでしょう。しかし、ものづくりは物理的なモノにしか適用できない概念ではありません。
この本はマーケットデザインという新しい経済学の分野について解説していきます。おそらくまだ多くの人にとってマーケットデザインとは聞き慣れない言葉でしょうが、これは「経済学的ものづくり」に関する学問分野なのです。
理工的ものづくりでは製品の開発や改良を行います。例えば機械を作ったり、穀物の品種改良をしたり、人間工学に基づく椅子を作製することは理工的ものづくりの典型です。
しかしモノがどんなに優れていても、それが有効活用できる人の手に渡らなかったら製品としての価値は生まれず、社会を豊かにすることはできません。
例えば、私は車の運転免許を持っていません。ですからどのように速くて美しい車であっても、それがフェラーリ・テスタロッサだろうがロールスロイス・シルバー・レイスだろうが、私が持っては宝の持ち腐れです。
ついでに言えば私はアルコールが体質的にだめです。美味しいお酒というものがよく分からず、たまにお土産に銘酒を貰うと申し訳なく思います。
さらに言うと、私はすぐに肩と腰が凝る体をしており、普通の椅子に長く座ると体が痛くなります。しかしそれゆえ、人間工学に基づき設計された椅子に座る心地よさを、しみじみと感じるのは得意です。
つまりモノが優れていることと、それが適切な持ち手のもとにあることは別次元の概念なわけです。
ではどうすればモノは適切な持ち手のもとに向かうのでしょうか。
市場でモノを流通させるというのはひとつのやり方です。モノを必要とする人が市場で定まる価格を支払い、それを手に入れるわけです。この仕組みはなかなか強力で、効率的なモノの配分を導くというのは多くの経済学の教科書が教える通りです。
しかし当たり前のことですが、私たちは何でもお金と交換するわけではありません。例えば臓器や人身の売買は、ほぼ全ての国で認められていません。また高校や大学など、学校に入学する権利が売られることも普通はありません。労働市場という言葉はありますが、 お金を払えば面接回数が減るような就職活動や、社内で課長や部長のポストを購入できるような企業もおそらくありません。
そうしたケースでは市場はそもそもお呼びでないわけです。
経済学ではよく「市場の失敗」という言葉が用いられます。例えば、公害が出るから政策で対応をとか、生活に困っている人がいるから公的扶助をといった文脈で、「市場の失敗」が理由だと言うようにです。
しかしこれはずいぶん乱暴な言葉の使い方です。なぜならその言い方の背後には、本来なら市場はうまくいくはずだという前提があるからです。そして言葉とは恐ろしいもので、そうした表現が、その根拠の無い前提に対してある種の実在感を与えてしまいます。
むろん本書はそのような前提を共有しません。市場に限らずあらゆる社会制度は基本的に、人々が生活で使う道具のようなものだからです。道具が万能でないのは当たり前です。 洗濯機に電子レンジの役割を期待したり、パソコンに掃除機の役割を求めたりするのは賢明でありません。
ではお金との交換で片付かない、あるいは片付けるべきでないようなケースで、モノや人材などをうまく配置するためにはどうすればよいのでしょうか。もう少しいうと、どのような「経済学的ものづくり」をすれば事態を改善できるのでしょうか。
本書で扱う問題の例をいくつか挙げてみましょう。
○腎移植マッチング(第一章)
腎臓病の患者と、その人に腎臓をあげたいドナーがいるが、免疫の相性が悪く移植ができない。しかしそのような患者とドナーがたくさんいるときには、患者とドナーを相性よく組み替えることで、多くの移植が可能になるかもしれない。ではどのように組み替えればよいか。
○学校選択マッチング(第二章)
ある地域にはいくつかの学区があり、それぞれの学区には、通学距離やいじめなどの理由で、別の学区の学校に進学を希望する生徒がいる。各学校には定員があるが、どうやって彼らの希望を満たしていけばよいか。
腎臓のドナーも学校への入学も、売ったり買ったりするものではありません。そこで腎移植マッチングでは患者とドナーを、学校選択マッチングでは学生と学校をそれぞれ組み合わせる問題として取り扱います。
組み合わせを専門的に扱う学問分野がマッチング理論です。この理論はデビッド・ゲールとロイド・シャプリーが1962年に発表した論文で始まった応用数学の一種です。数学と聞くと尻込みしてしまう方もいるでしょうが心配には及びません。
その論文のタイトルは『大学入学と結婚の安定性』という変わったもので、しかも文中に数式は一本も出てこないのです。
さすがにそれ以降のマッチング理論の研究では数式が多く使われます。しかし議論の骨子はほとんどの場合、ごく簡単な例で伝えることが可能です。本書では平易な例とストーリーを組み合わせてマッチング理論の本質に迫っていきます。
ちなみにシャプリーはマッチング理論とマーケットデザインへの貢献を称えられ、2012年にアルビン・ロスとノーベル経済学賞を共同受賞しました。腎移植も学校選択も従来の経済学には馴染みが無かった対象です。それがなぜ「マーケット」デザインでノーベ ル「経済学」賞なのかというと、これは市場のアイデアを援用して経済学的なものづくりを行ったからです(腎移植マッチングも学校選択マッチングも米国では既に実用化が済んでいます)。
もちろんマーケットデザインでは、お金で取引するいわゆる市場も扱います。しかし市場にも出来の良いものと悪いものがあり、高質な市場を巧妙に設計しようという点が、いわゆる通常の経済学とは異なります。
例えば本書では次のような問題を考察します。
○オークション(第三章)
政府が事業免許を売るとして、どうすれば有効活用できる業者に高値で買ってもらえるだろう。オークションで売るのは一案だが、オークション以外の選択肢と比べてそれはどう優れているのか。オークションの方式にも色々あるが、どの方式を用いればよいのだろうか。
一個の物を売るのはオークションの問題としては最も単純ですが、それでもベストな方式を探るのは容易でありません。例えば、一番高い値を付けた人にその金額を払ってもらうというごく普通の方式だと、できるだけ安く競り落としたいという入札者の戦略的な行動が交差して、思わぬ安値が付いてしまうかもしれません。
これが複数の物を売るとなると問題はさらに難しくなります。例えば机と椅子を売るとして、単独で売ればよいのか、セットで売ればよいのか、それとも両者の可能性を許容して売ればよいのでしょうか。しかしどうやって?
金額的なことを言えばオークション理論という知識の経済価値は莫大です。どの方式を使うかで売り上げに億・兆単位の違いが生じえます。例えば米国で1994年から行われた一連の周波数免許のオークションでは、ポール・ミルグロムらオークション理論の専門家が精巧なオークション方式をデザインしました。それにより上がった収益の総額は2012年4月まででおよそ780億ドルです。
経済学の祖と呼ばれる18世紀の経済学者アダム・スミスは主著『国富論』で、市場の価格調整機能を「見えざる手」と表現しました。市場をブラック・ボックスのように捉えたわけです。
マーケットデザインの研究において市場はブラック・ボックスではありません。建築家が建築学に基づき建物を設計するように、経済学者は経済学に基づき市場のルールを設計します。可視化された箱の中を私たちは覗きます。
こんにち急速に注目を集めるマーケットデザインは、先端理論として紹介されることが多くなってきました。たしかに先端的ではありますが、それは伝統の否定のうえに成り立つものではありません。むしろ伝統的な経済学の実用を推し進めた結果としてマーケットデザインは確立してきました。
マーケットデザインの「マーケット」から「市場原理主義」を危惧するのも、「デザイン」から「計画経済」を想起するのも、ともに正しくありません。この分野は、腎移植マ ッチングや学校選択マッチング、オークションのような社会的な仕組みを、一つひとつ地道に改良することを考えます。そうした地味な作業の連続が、社会を少しずつ住みよくしていくというのが私たちの基本姿勢です。
1870年代に現代経済学の礎を築いたレオン・ワルラスは、経済学を技術として活用することに深い関心を抱いていました。経済学の諸分野は大抵どれも役に立つのですが、マーケットデザインは役に立つことが分かりやすく、また使いやすいのが特徴です。
この本では、その中でも特に応用が目覚ましいマッチングとオークションを主に扱います。第一章と第二章がマッチングで、第三章がオークションに対応しています。オークシ ョンに強い関心がある方は第三章から読み進めるのも可能です。
それではこの経済学的技術の結晶を見ていきましょう。
【webちくまより転載】