イギリスの「国民食」から読み解く、移民と階級社会 『フィッシュ・アンド・チップスの歴史』
記事:創元社
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一時期イギリスで生活したことがあると人に話すと、時折「食べものが美味しくないと言いますから大変だったでしょう?」などと同情と揶揄がまじった質問を受けることがある。別段イギリスの食文化を擁護する義理はないのだが、自身の経験と感覚には正直でありたいと思い、毎度「そんなことはなかった」と答えている。それで済まない場合は、逆にこう聞くことにしている。「ローストビーフやサンドウィッチはお嫌いですか?」。近代以降、日本の食生活に組み込まれ、長年愛好されてきたイギリス伝来の料理は少なくない。このことからでも、日英の味覚には地続きの部分があると言えるのではないか、といった趣旨のことを話してみる。
だが、なかにはそれで引き下がってくれない強情な相手もいて、あるとき「そういうものも日本で食べた方がおいしいでしょ?」と食い下がられた。こうなると実は先方はイギリスなどに興味はなく、他国の食文化を否定することで、何らかの優越感を得ることが目的なのだと分かるのだが、そのときはこう続けてみた。「ロンドンで食べる飲茶やカレーは日本よりおいしいと思いますし、ジャマイカとかレバノンとか日本ではなかなか出会えない地域の料理も食べられますから、食は豊かですよ」。すると相手は次のように反論したのである。「でも、それって移民の食べもので、別にイギリス料理じゃないですよね?」。
この発言には「移民」という外来の要素と明確に区分されうる純粋無垢な「イギリス」(あるいは「日本」)の食文化が存在するという発想(というより願望)が透けて見える。しかし、そんなものを想定することが果たして可能なのだろうか?
今日のイギリスの食について、グローバル化の産物としてイギリスにもたらされた異国の食材や調理技法、そして移民たちの文化的・経済的・社会的貢献を抜きに語ることなどできない。本書『フィッシュ・アンド・チップスの歴史』の著者パニコス・パナイーならそう答えるだろう。そもそも食文化を国籍やエスニシティといった単位で区分するという発想自体、外来の食文化の流入に対するナショナリスティックな反作用として比較的最近、後付け的に生み出されたものである、とも。イギリスのレスターにあるデ・モントフォート大学で教鞭を取るパナイーは、ドイツ系をはじめイギリスに渡ってきた数多くの移民の歴史、イギリスにおける人種差別主義、第一次世界大戦史と幅広い分野に及ぶ研究を行っている。近年は移民と食文化の関係に焦点を当てた歴史研究に力を入れ、本書中でも言及される『スパイシング・アップ・ブリテン』(二〇〇八年)では、ドイツ系、イタリア系、ギリシア系、中国系、インド系といったさまざまな移民集団がイギリスの食習慣に与えてきた影響と、それぞれの移民集団がイギリス社会に「適応」していくなかでその食文化を変容させてきた過程を詳しく考察している。
本書においてもパナイーは、フィッシュ・アンド・チップスという特定の料理の起源と発展、そしてそれがイギリス社会で「国民食」として広範な人気を獲得していく経緯を辿りながら、やはりイギリスの食文化に対するさまざまな移民集団の貢献と、かれらが――場合によっては数世代にわたる時間をかけて――「ホスト社会」で地歩を築き、社会上昇を果たしてきた歴史を詳述している。パナイーによれば、フィッシュ・アンド・チップスの「フィッシュ」の部分、すなわちタラやカレイといった白身魚の衣揚げはユダヤ移民の食文化に由来する。他方、拍子木型に切ったジャガイモを油で揚げた「チップス」については、決定的な証拠はないとしながらも、フランスから伝わってきた可能性が濃厚であると論じている。また二〇世紀以降、イギリスの労働者の食生活を支えたフィッシュ・アンド・チップスを売る「持ち帰り料理店」のオーナーたちには、イタリア、キプロス、中国などの出身者が多かったという。つまり、今日ではイギリス料理を代表するだけでなく、イギリス自体をも表象するナショナル・アイコンにまでなったフィッシュ・アンド・チップスという料理の歴史は、イギリスにおける移民史と決して切り離せないのである。
こうしたことはイギリスに限った話ではないだろう。たとえば、ニューヨークの食文化を東欧系ユダヤ移民がもたらしたベーグルなしに、ベルリンのナイトライフをトルコ移民が発明したケバブサンドなしに考えることはできないはずだ。そしてこれは、日本で長らく「国民食」として親しまれてきたラーメンの歴史(特に即席麵の誕生)を、中国大陸や台湾の出身者たちの存在抜きに語ることは不可能であり、餃子の普及の歴史を辿ろうとすれば「満州」への移民と引揚げの問題に遡らねばならないのと同じことである。
しばしば「3F(フード、ファッション、フェスティバル)」と揶揄されるように、移民の食文化への関心がうわべだけの多文化礼賛にとどまり、返って現実の差別や格差を隠蔽してしまうとの指摘もある。しかし、パナイーが最終章の末尾で示唆しているように、フードスタディーズにはナショナリズムや排外主義が依拠しているステレオタイプ自体を「解体」させる潜在力もあるはずだ。本書の刊行が呼び水となり(そして食欲を喚起し)、既存の先入観や偏見を食い破る刺激的な食文化研究がもっと巷に溢れるようになればと願ってやまない。