1. じんぶん堂TOP
  2. 教養
  3. 私はコロナ禍をどう生きるか(上) 静かな声を残すために綴った『コロナ禍日記2020』

私はコロナ禍をどう生きるか(上) 静かな声を残すために綴った『コロナ禍日記2020』

記事:春秋社


 ゆえに、私は野田秀樹の意見書を読み、声を大にして叫ばねばならぬと感じた。
 演劇よ、死ね。家に籠ろう。私の妻と、妻のお腹にいる子どものために。観客ともども家にとどまり、感染拡大の可能性を少しでもよいから減らしてくれ。
 無論、ひとりでは冥府魔道を歩ませやしない。心もとないかもしれないが、私も同行しよう。泣くな。愚痴を吐くな。不平を漏らすな。小さな子どもひとり、助けたのだと思えば、生きた意味もあったじゃないか。個人主義など幻想だ。人間は、動物だ。遺伝子を、子孫を、種を、残すために生きているのだ。お前の演劇はくたばり、私の文章も斃れる。そのおかげで、ひとりの妊婦が助かり、そこからひとりの未来が生まれたのだ。それで、じゅうぶんじゃないか。立派だよ。ひょっとすると、その子どもは、多少なりともお前の芝居や私の文章のことを、遠い未来において、思い返してくれるかもしれない。いや、可能性が残せただけでもすてきなことである。お互い、表現に身を賭した意味はあったと言えるだろう。
 もちろん、すんなりと死ぬ必要はない。
 観客のいない舞台で、血反吐を零して忘れちまったセリフを練り直して叫び返そう。
 読者のいない版面に、たゆたう筆先で迷いのすべてを血混じりの墨で書き尽くそう。

(『コロナ禍日記2020』3月1日の日記より)

思考の変化を確認するもの、それが日記

  上記は拙著『コロナ禍日記2020』からの引用だが……(書いた当人が言うのもどうかと思うが)この内容を現在の私は否定する。「妊娠中の妻とお腹の子どもの無事を守るため、感染拡大の可能性があることはするな」という利己的な主張はまだしも(何しろ私の発言なので)理解したくなるが、「個人主義など幻想」とまで言い切るあたりは、あまりに近視眼的というか、結果的には自分で自分の立ち位置すら切り崩す行為にすらなりそうな気すらする。が、ゲラの段階で読み返して苦笑しながらも結果としてママイキにし、校了として世に送り出したのは、『コロナ禍日記2020』が日記だからだ。

 日記は、読者のために書かれる文章とは異なるものだと私は思っている。もちろん、古典の時代より脈々と受け継がれ育て上げられてきたこの国の日記文学の存在が教えるように、日記あるいは日記的な文章に対して、私たちには読者として介在する自由がある。が、読者として日記に触れられることと、日記が読者のために存在することは、決して同義ではない。

 例えば、漱石の日記には、「過去の漱石」しかいない。もちろん日記文中に他者は登場するが、それらは漱石の客観的な日常の記録のための素材でしかない。極端に主観的な主張や描写が削ぎ落とされ、時として過度にも思えるほどの客観性(五女ひな子がなくなった際の日記などには、まったく凄まじい筆致の客観がそこにはあり……かえって漱石の主観が色濃く文間に浮かび上がる文体になっている)で構成されている漱石の日記は、まず間違いなく、読者のためには書かれていない。昨日の事実を参照して明日の現実をより強く生きるためのメディアとして、つまり自分自身のために、漱石は日記を書いている。

 並べて語るのが不遜と知りつつ書いてしまうと、私も、漱石同様、私自身のために日記を書いている。読者のためではない。漱石ほどの作家ならば、自分の日記が後年パブリックなものになる可能性を察していたとは思うけれど、根幹の部分では漱石と同様に、私自身のために書いている。昨日の私がどれほど愚かだったかを知り、明日は少しでもマシな生き方ができるように……今日という一日を記録にした文章が、『コロナ禍日記2020』である。

 日記は人に読ませるためのものではない

  つまり、私にとっての日記は、私自身の過去の変化を確認し、現在と未来の私の生き方をさらに変化させるための道具ということになる。その意味において、私の日記は他者に読ませるものとしては存在していない。私もそのつもりで書いている。

 ではなぜ本というメディアを選び、私は私の日記を出版などしたのか。「人に読ませるものではない」と語るのであれば、静かに机の引き出しの奥に隠しておけばよさそうなものである。黙ってひとりで読み返せばよい。しかし、そうしなかった理由は……現代において数多く目にする「日記的なもの」への私なりの主張がそこにあるからかもしれない。

 昨今、ウェブを主な舞台として、コロナ禍中に限らず、多くの人々が「日々の記録」を公開している。私もいくつか目を通した。が、それらの醸し出す「個人の主張」を私はどうしても愛せなかった。特に政治や社会に対する(私からすれば)直情的にも見える批判は、そのほとんどが内省を欠いていた。怒りや不満を突発的に吐き出すためのツールとして日記を選ぶという人々がいるとするならば、私に彼らを制する権利などあるわけもないし、黙って放っておけばよい。が、そうした筆致は、日記の最善の効用、私の信じる日記の最大の利点である「自身の変化の糧」という素養を、むざむざ殺しているように感じられた。ぶち撒けた感情を後年批判的に、否定的に読み返せるのなら、感情の吐露を記しても問題はない。が、混乱と混迷と……そこから派生する疲弊と疑心に満ちたテキストを、瞬間的に書き捨てるだけならば、意味はない。そうしたものを私は日記と呼びたくなかった。

 ある意味では、その想いが、私に日記の公開という選択をさせたのかもしれない。『コロナ禍日記2020』を読み返すと、文中に「不平不満を連ねる他者の言葉」への嫌悪がいくつも登場する。身重の妻を案じるあまり、ネット空間を飛び交う呪詛すら忌避したい過去の私のエゴがそこにはある。身勝手な私の声を今、改めて読むことで、私はコロナ禍における私の精神性の未熟さを知る。視野が狭いなと反省するし、気恥ずかしさもある。でも、それが、日記の意義だと、私は信じている。

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ