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私はコロナ禍をどう生きるか(下) 大きな声に抗うために綴った『コロナ禍日記2020』

記事:春秋社

大きな声に惑わされないための防護服としての日記

  言ってみれば、『コロナ禍日記2020』は、「妊娠中の妻をひたすら守ろうとする私」の心身を守るために、日々筆を走らせ書いた護符である。不安で磨り減っていく精神を防御するための、一日一回飲む薬であったかもしれない。

 職業柄、どうしても他人の言葉に触れねばならぬタイミングがある(これはどうしても避けられなかった。それをしてしまうと、いよいよ私は廃業しなければならなかったからだ)。だが、私が心底疲れてしまったのは、妻と未来の子どものために前向きになろうとする意思を挫かれそうになったのは、ネット上で出会う「大きな声」たちだった。

 特に好きになれなかったのはハッシュタグなどを用いて叫ばれる主張たち。一斉に同じ意見を社会に向けて発しようとするその姿勢にうっかり触れてしまう度に、私は疲弊した。なぜ自分の言葉で意見を言おうとしないのか、どうして簡単に他者の言葉に自分の思考を委ねてしまうのか、どうやって集団の主張に乗っかっただけの自分を肯定するのか……そうした疑問が胸を突いて湧き上がるにつれ、私は日記を書くことに注力できた。「大きな声」から身を守ろうとするために、自分自身の「静かな声」を大事にしようと思ったのかもしれない。

 大きな声にかき消される静かな声

  自分が徒党を組まず、ひとり黙々と「わかりにくい表現」を選んで生きているからだとは思うが、私はどうも数を頼みにした「大きな声」が苦手である。筆に主張を載せる生業をしているくせに「大きな声」を主導できるほどの力がない身分ゆえの僻みかもしれないが……ともあれ嫌いである。特にネットで展開される種類の「大きな声」を、私は拒む。理由はひとつで、その種の「大きな声」は、往々にして無数にある小さな声、「静かな声」を無視している、あるいは踏みにじろうとするからである。

 コロナ禍に世界が陥るよりだいぶ前のこと、私はある新聞社から取材を受けた。どのような流れでその会話が生まれたか忘れたが、途中、記者の方が「最近は、政権批判をやっても、どうも暖簾に腕押しというか……ネットではウケるんですが」と肩を落として語った光景を、とてもよく覚えている。仮に暖簾が現実的な大衆や実際的な世論というものを指しているのだとすれば、得心がいく。記者氏は「大きな声」に、ネット上で遭遇するそれらの叫びに、目を眩まされているだけなのだ。ウェブにおける言論空間は目立つし、従来の紙主導の出版メディアがなかなか出会えなかった「読者」がくっきり明瞭に見えるように感じられ、ついついそこに引っ張られそうになるが、ネット上の言葉は世論のすべてではないし、ウェブ上の言論が大衆を代弁しているわけでもない。それらで社会が動くこともあるけれど、動かないことだってある。

 いや、動かないことのほうが多いのかもしれない。だからこそ記者氏は「暖簾に腕押し」の諦観を得たのだろう。ネット上の「大きな声」は味方なのに、なぜ社会は動いてくれないんだ……という意識が記者氏の胸中に渦巻いていたとするならば、彼は完全に「大きな声」に幻惑され続けている。

 現実は、そうではない。Twitterで政権批判をするハッシュタグがどれほど流行しようとも次回の総選挙でも勝つのは自民党だろうし、マスコミが政府のコロナ対策をどれだけ批判しようともそれに扇動されて暴動や騒乱が巻き起こることはない。「大きな声」で見えにくくなっている「静かな声」たちは、今日も確かにそこにあり、元気に日々を過ごしているのである。私は作家として、編集者として、言葉に関わる生き方をする以上、「静かな声」を無視するような筆は振るいたくないと思っている。

静かな声を未来に残すための装置としての日記

 断っておくが、私は政治にあまり関心がない。無知であるという自覚すらある。したがって政治信条から特定の政治思想や主義主張を後押しするようなことはしないし、できない。だが、それでも近年、「静かな声」に対する弾圧……のようなものは、強く感じてしまう。

 本当に、ドナルド・トランプを支持する人々は差別的で貧しく知性が足りない白人男性たちなのだろうか? 安倍政権を支持していた人々は既得権益にすがるような保守的な老人たち、あるいは流されやすい自己主張しない若者たちなのだろうか? Brexitに賛成した人はグローバリゼーションの破壊者で、移民を快く思わないヨーロッパの〈先住民〉は極右主義者でネオナチの予備軍なのだろうか?  彼らを勝手に総括し、レッテルを貼り付ける行為が、はたして本当に健全な言論活動なのか、私には疑わしく思える。彼らが発していない「静かな声」を丁寧に拾い続ければ、きっと別の角度の見え方がするはずである。あるいはそうした「静かな声」に耳を傾ければ、二項対立に終止するのではない、新しい解決策が見いだせるのではないか……そうも考えている。

 私が『コロナ禍日記2020』で伝えたかった部分も、結局はそこなのだろう。「大きな声」は2020年という時代を、悪く言うだけかもしれない。だが「静かな声」は違う。苦労を感じつつも日常に感謝し、悲しいこともあれば嬉しいこともあり、懸命に日々を生きたと伝えたい……少なくとも、それが私の「静かな声」である。

 できればそうなってほしくないが……今後も「大きな声」と戦わねばならないと感じた日がくれば、私はまた筆を執るだろう。

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