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片隅としての最先端――温又柔・木村友祐『私とあなたのあいだ~いま、この国で生きるということ』

記事:明石書店

『私とあなたのあいだ~いま、この国で生きるということ』(明石書店)
『私とあなたのあいだ~いま、この国で生きるということ』(明石書店)

「まっとう」(倫理)とは何か

 温氏と木村氏は二〇〇九年にすばる文学賞で同時に小説家デビューを果たし、つかず離れず、声をかけ合いながら、「文学を親にする兄妹」(18頁)のように共に歩んできたという。「今、この国」で起こっている現在進行形の無数の「おかしさ」を刻々と記録しながら、二人は様々な差別の問題について言葉を紡いでいく。性差別。国籍・民族差別。障害者差別。経済階級。そして人間と動物・自然の関係をめぐって……。

 それらが複合的に交差しかざるをえない厄介で複雑な現代社会を、あくまでも日常生活の感覚に根差しながら、自分の身体と言葉で引き受けていくこと。互いに励まされ、刺激され、時には互いの間に線を引きながら。そしてその先で――「政治的に正しく」あろうとするのではなく――「まっとう」(倫理的)であろうとすること。これは現代社会の最先端の実践であり、正確には、〈片隅としての最先端〉ではないか、と私は感じた。

 もちろん近年、複合差別や交差性ということが言われるようにはなった。しかし重要なのは、木村氏が言うように「一見、物分かりのいい観念的な理解と、体でその現実を生きている人の経験との、見えない落差・隙間にこそ、目を凝らし、耳を澄まさなければ」(37頁)ならない、ということだろう。事実、この誠実な往復書簡を読んでいると、二人が互いにとっての「他者」として立ち現れる光景が何度も何度も出てくる。

 複合差別≒交差性をこの身で、この日常で、自らの言葉で生きるとは、民族差別、性差別、障害者差別、種差別などを同時に考えればいいとか、それらを全部包摂すればいいとか、そういう話ではないだろう。個としての命の必然に従って、ある面では被害者の自分が別の面では加害者になったり、自分の内なる根深い差別的情動に気づいて、失語し、混乱し、沈黙をも強いられながら、自分の欲望を――内面化しえない他者性に貫かれて――生成変化させていくことであるだろう。そんなことを感じた。

「私」と「あなた」はどこで繋がるか

 それにしても、本書を「多数派民族の中の多数派男性」としてのこの私が読むとはどういうことなのか。そんなことをしきりに考えていた。マイノリティの人々が歴史的に積み重ねてきた知恵や生存技法に学んで、マジョリティである「私たち」がどのようにして生活や欲望を(盗用や搾取ではなく、またたんなる意識的反省でもないような形で)非差別的で非抑圧的なものに変えていけるのか、それもまた現代社会の重要課題ではないか……当初は、そんな風に本書を読んでいた。

 しかし途中から自分の読み方が変化していくのを感じた。温氏は、「純粋」な「日本語」や「台湾語」(閩南語)なんて存在するのだろうか、という疑問を繰り返し語る。思えば「多数派」そのもの、「純粋多数派」なんてものも存在しないのかもしれない。私自身の人生を振り返ってみても、それがどんなに微細なものであれ、幾つかのマイナー性が確かにあった。それを過剰に意味付けるつもりはない。「多数派こそが少数派なんだ」「加害者こそが被害者だ」という正当化は最低最悪の罠でしかない。ただ、それらの罠に自覚的であろうとし続ける限りで、一人の人間を多数派/少数派という二元論で切り取るのはあまりに粗雑なのだ、とは言える。

 とはいえもちろん、声高に「誰もがみんなマイノリティなんだ」と断定してしまえば、現に「多数派」が様々な特権をもち、構造的に少数者たちを排除している、という圧倒的な非対称性が見えなくなってしまう。それなら、どうすればいいのか。

 肝心なのは、やはり言葉の問題なのだろう。「日本人」「日本民族」「異性愛男性」等々の大きすぎる主語を不用意に用いるとき――たとえそれらの概念を批判する場合であっても――、どうしても「多数派=私たち」という枠組みが維持強化されてしまう。「誰でも」「みんな」という主語は、個々人の差異を塗り潰し、それによって同時に複合的な構造的非対称性をも見えなくさせてしまう。

 温氏の作品の中には「日本語」の中に「中国語」や「台湾語」が混在している。木村氏の作品の中には正しい「日本語」とされる「標準語」(事実上の「東京語」)の中に――「地方」の言葉としての「方言」(~弁)ではなく、マイナーな別言語体系としての――「南部語」や「津軽語」が取り込まれている。国家や民族と「自然に」一致する「国語」の存在を自明視するのはおかしいからだ。

 「多数派」の中にすら様々な線が引かれうる。無数の層の交錯がある。たとえいかなる意味でもマイノリティ属性を持たずとも、自分の中に小さな幾つものマイナー性を発見し、この私に固有のマイナーな欲望と言葉を他者たちへ向けて開きうるだろう。その時この私は、たんに無関心で無自覚なままのマジョリティではなく、多様な違和を抱えたquestioningなマジョリティへと生成変化しうるだろう。かけがえのないありふれた「あなた」の前に立ちながら、「あいだ」の声を紡ぐだろう。

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