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不安を駆るための「コロナ散歩」 詩人・野村喜和夫の『花冠日乗』

記事:白水社

コロナ禍はつづくが、「最初の衝撃」は二度と訪れない──。だからこその貴重な記録! 野村喜和夫著『花冠日乗』(白水社刊)は、未知のウイルスと向き合った詩人の内的変化が、言葉のみならず、写真と音楽のイメージも伴いつつ綴られています。危機を生きた証を、刻むために。
コロナ禍はつづくが、「最初の衝撃」は二度と訪れない──。だからこその貴重な記録! 野村喜和夫著『花冠日乗』(白水社刊)は、未知のウイルスと向き合った詩人の内的変化が、言葉のみならず、写真と音楽のイメージも伴いつつ綴られています。危機を生きた証を、刻むために。

『花冠日乗』(白水社)P.73 写真:朝岡英輔
『花冠日乗』(白水社)P.73 写真:朝岡英輔

コロナが私を軟禁してしまったので
コロナが私を軟禁してしまったので
コロナが? ちがうような気もする
主語はコロナでも私でもなく、コロナをも私をも包み込む何か
を2乗して3倍のコロナの影に加えたもの
から私を引いた
【野村喜和夫『花冠日乗』所収「軟禁ラプソディ」より】

 (ピアノ曲「軟禁ラプソディ」をサウンドクラウドでフルバージョンで聴くことができます)

『花冠日乗』(白水社)P.76 音楽:小島ケイタニーラブ
『花冠日乗』(白水社)P.76 音楽:小島ケイタニーラブ

花冠日乗ノート──未知の読者のために

 東京における新型コロナウイルスの感染拡大が予感された2月下旬の頃だったろうか、「おまえはおまえの不安を駆れ」といった声が内心に響き始めたのは。不安を駆るために、ということはつまり駆って不安を紛らわすために、私は散歩を始めた。もともと散歩が好きで、というか、散歩は私の動く仕事場ともいうべきもので、詩作と切り離せない。家にじっとしているかぎり、私の場合何も詩的エクリチュールは始まらないので、とにかく散歩に出るのである。そういうふだんの散歩と区別するために、不安を駆るためのこの散歩を、「コロナ散歩」と名づけよう。政府・行政側からは、感染拡大防止のため不要不急の外出は避けるようにとすでに言われ始めていたので、まさにその不要不急の極みのような散歩だが、私にとっては緊急かつ必要欠くべからざる行為であった。

 コロナ散歩は、雨でも降らないかぎりほぼ毎日、午後遅くから夕刻にかけて行われた。私は世田谷区羽根木というところに住んでいるので、そこを起点に、時間にして2時間から3時間、世田谷区をメインに、しかし全方位的に歩く。毎日日替わりで、西へ進めば、町名でいえば松原から赤堤、経堂方面。南へ下れば、梅ケ丘から世田谷、駒沢、三軒茶屋方面。東へ進めば、下北沢から代沢、駒場(目黒区)、上原(渋谷区)方面。北へ上れば、大原から笹塚(渋谷区)、方南(中野区)、永福(杉並区)方面。目的地は定めない。例外的に駒沢オリンピック公園のドッグランや駒沢給水塔をめざしたりした日はあったが、原則、でたらめに行ってでたらめに折り返し、でたらめに戻ってくる。原則、電車やバスなどは利用しない。

 しかし、コロナ散歩といえども、あるいはコロナ散歩だからこそ、インスピレーションは降りてきて、詩のかけらが湧いた。そういうときには私は立ち止まり、手帳を開いてメモを取った。帰宅してパソコンに向かい、メモを元に詩作を始める。結局のところ、どうあっても散歩と詩作は私において一体である。周知のようにヴァレリーは散文を歩行に、詩を舞踊にたとえたが、そのようにダンスするところの詩の母胎は歩行なのである。

 今般のコロナパンデミックが世界史に大きな変化をもたらすのは間違いない。そういう時代にたまたま居合わせた詩人として、コロナ危機を生きた証を残したいと私は思った。といっても、無謬の俯瞰的立場から偉そうな情勢論を打つのも、また逆に、俗情と結託したようなベタな感想を垂れ流すのも、ひとしく詩人にふさわしくない。むしろ「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」と書いた賢治のひそみにならって、コロナ禍のなかをただおろおろ歩くだけで十分だ。

【「花冠日乗ノート──未知の読者のために」冒頭より】

『花冠日乗』(白水社)P. 138─139 写真:朝岡英輔
『花冠日乗』(白水社)P. 138─139 写真:朝岡英輔

野村喜和夫『花冠日乗』(白水社)目次
野村喜和夫『花冠日乗』(白水社)目次

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