『織田信長――戦国時代の「正義」を貫く』 戦国時代のあるべき姿を追究した信長の実像に迫る
記事:平凡社
記事:平凡社
日本の戦国時代は近年、黒田官兵衛、真田信繁、井伊直虎、明智光秀といった人物がNHKの大河ドラマでも取り上げられ、一般の人々からも注目を浴びています。なかでも、織田信長は、従来の秩序・規範を破壊し新たな時代を築いた「戦国時代の革命児」「時代の寵児」として圧倒的な人気を誇るといえるでしょう。
これに対して、本書『織田信長――戦国時代の「正義」を貫く』では、以下のような立場から、信長像の再構築を試みます。
信長の事績をみていくにあたって、まずは当時の時代背景を押さえたうえで、なぜその活動がおこなわれたのかを考えなければならないのである。ところが、これまでの「革命児」信長のイメージは、信長は時代の変革者であるということを前提に、その事績が革新的か、保守的かという評価ばかりがなされてきた。それがいま、歴史学研究においてもようやく、革新/保守というフィルターを外し、当時に生きた「同時代人」としての信長を描き出すことが求められるようになった。
こうした近年の信長像見直しの気運の高まりをうけて、本書では、戦国時代の日本において、信長がどのように生き、そして天下人になって活動したのか、あくまで「同時代人」としての姿を明らかにしていくことを目的に解き明かしていく。
『織田信長』はじめにより引用
信長の事績を見直すことで、どのような信長像が見えてくるのか、本書を引用しつつご紹介します。
信長が永禄10年(1567)11月から使い始めた「天下布武」印は、従来「武力によって国内を統一する意思を示したもの」で「信長の革新性を示す象徴」とされてきました。しかし、著者によれば、
美濃平定によって領国「平和」を遂げたいま、次の課題だった義昭のもとでの「天下再興」=室町幕府再興の実現に再び取り組む、という信長の意志を、「天下布武」という語句に表した
『織田信長』第2章より引用
ものであるとしています。さらにつづく「信長の上洛」についても、
改めて押さえておきたいのは、……義昭に供奉して「天下再興」に尽力するという態度を取っていることだ。つまり「信長の上洛」とは、一般にいわれるような信長による全国平定の一階梯ではなく、義昭がそれまでに進めてきた「天下再興」の実現であった。よって、信長の意志を示した「天下布武」とは、義昭のもと、室町幕府将軍足利氏が管轄する京都を中核とする中央領域の「平和」の維持を実現することと、室町幕府による統治と秩序を再構築することにあったといえる。
『織田信長』第2章より引用
ととらえ、「革新性」というフィルターを外した、将軍足利義昭を支える人物としての信長像を提示しています。
新兵器・火縄銃を用いた新しい戦法によって、武田勝頼率いる武田軍を破ったとされてきた長篠合戦については、
近年の研究成果によって、武田氏を始めとする戦国大名の軍隊は、……騎馬衆・弓衆・鉄砲隊といった兵種ごとの部隊が編制され、なおかつ鍛錬も積んでいた……さらに、武田氏は鉄砲を蔑ろにしていたわけでもなく、長篠合戦の戦場にも鉄砲衆が存在し……織田・徳川両軍とは緒戦で競合しあっていた。……
『織田信長』第4章より引用
ことを紹介し、鉄砲の使用が信長の先見性ではなく、この時代においては多くの戦国大名によって使用されてきたことを明確にしたうえで、
つまり、両軍の兵士の資質に差は生じようもない。そうなると、両者の勝敗を分けたのは、両軍の戦闘のあり方ではなく、兵力・物量の差にあったということになる。いまだ、この合戦を「軍事の天才」信長が編み出した新戦術による勝利という見方が蔓延っているが、やはり同時代の軍制の展開や長篠合戦の研究成果を踏まえつつ、そうした解釈からはもう“卒業”しなければならないだろう。
『織田信長』第4章より引用
と、ここでもフィルターを外すことを強調しています。
本書では、戦国時代において、どのように活動して天下人となっていったのか、そのプロセスを丁寧に辿りながら、当時の社会秩序に生きる、等身大の信長像を導き出します。
2020年以降の織田信長研究における新たなスタンダードとなる1冊として、ぜひお楽しみください。
文/進藤倫太郎(平凡社編集部)