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ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス』――BLMと在日コリアンの現状をつなぐ視座

記事:明石書店

『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』(明石書店)
『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』(明石書店)

アメリカの人種問題についての理解

 本書の原書が出版され、そして日本語の翻訳書も出版されようとしている二〇二〇年は、世界にとって激動の年であった。年初に中国・武漢で流行した新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)は瞬く間に勢力圏を拡大し、一〇〇年に一度のパンデミックと呼ばれるに至った。特にアメリカは、トランプ大統領と共和党の感染症対策への消極的な姿勢(というよりときに積極的な妨害ですらあった)もあり、本稿を執筆している一一月に至るまで、膨大な数の感染者と死者を記録し続けている。

 こうした中で、五月にミネソタ州ミネアポリスにおいて、白人警官が黒人男性を違法な拘束により殺害する事件が起きた。これにより、二〇一三年より用いられてきた「ブラック・ライヴズ・マター」(BLM)をスローガンとする抗議運動が再び拡大したのである。

 このBLMに対する日本のメディアの報道には、冷笑的なもの、あるいは最大限よく言えば、「形式上の中立姿勢」を取ったもの(ようするに「どっちもどっち」論)が多く見られた。そうした姿勢の背後には、アメリカにおける黒人差別の深刻さへの無理解や、黒人を非理性的で野蛮な存在と見なすバイアスがあったように思われる。

 というのも、何十年も前に公民権法により人種差別が違法となったという点を根拠に、黒人差別は既にたいした問題ではなくなっていると捉え、それを前提に目下の抗議運動を論じる傾向が明らかに見られたからだ。しかし本書が実証研究を踏まえて緻密に論じたように、法に基づく人種的分離のような露骨な差別が姿を消したとしても、バイアスは様々な形で生き残り、黒人たちを苦しめている。刑事司法の場で、地域コミュニティで、教育の場で、そしてビジネスの場で、黒人たちは様々なバイアスに晒されてきたのである。

 こうした研究の知識があるかないかにかかわらず、黒人たちにとっては自分たちの暮らす社会、ことにそれを制御する公権力が自分たちを疎外し、そして命すら不当に奪っていくという実感があり、その不公正への怒りが運動の前提となっている。この前提への理解なしに、単に個人的な不満や、社会の構成員全てが等しく被っている不幸への不満を晴らすために差別問題を口実にしているとでも言わんばかりの低質な報道が、日本では盛んになされていたのである。

 「ブラック・ライヴズ・マター」をどう日本語に訳すかにはいまだ議論のあるところだが、「黒人の命は大切だ」「黒人の命も大切だ」などと訳されることが多い。どう訳すにせよ、この言葉は黒人の命が白人などの命と比べてあまりにも粗末に扱われているという認識に基づく、公正と公平を求める意思表示なのである。この言葉に対して「大事なのは黒人の命だけではない。オール・ライヴズ・マターだ」と返すのは、一見普遍的な倫理規範の再確認のように見せかけて、前提であるバイアスの存在を議論から除外しようという悪質な「まぜっ返し」でしかない。にもかかわらず、そうした白人至上主義者が好んで用いるレトリックに易々と引っかかった日本語メディアや日本人識者も多数見受けられた。

 もう一つ冷笑的な姿勢を支えていたのは、抗議運動を安易に「暴動」「略奪」などと同一視する認識であったように思われる。BLMの抗議運動の大多数は平和裡に行われたものであり、一部で排外主義団体や警察などとの衝突、ときには略奪があったにしても、BLMが総体として暴力によって特徴づけられていたとはとても言えない。しかし日本においては、その境界を無視し、黒人(とその支持者)たちによる暴力がアメリカ市民の平和を脅かしているかのような報道が多々見られた。

 この点についても、本書で紹介された潜在的なバイアスの知見が理解を助けてくれるものである。黒人は理性のない類人猿のような存在と見なされやすく、その行動は暴力的なものと解釈されやすい。前述した、公権力による不公正な扱いの認識という前提すら共有していない日本の報道機関と視聴者にとっては、黒人たちがプラカードを掲げ平和的に訴える光景でさえ、野蛮な黒人たちが正当な理由もなく武装蜂起し、破壊や暴力を振りかざして市民を脅かすものと映ったのではないだろうか。

 以上のように、本書のテーマである潜在的なバイアスという概念は、現在のアメリカの最も重要な問題の一つである人種問題についての理解を、大きく助けてくれるものである。本翻訳書は、専門的な研究知見に裏打ちされつつ、一般人でも容易に理解できるようにこの問題を解説した貴重なものである。

日本における諸問題の理解

 アメリカにおけるバイアスを論じた本書は、日本国内の諸問題を理解する視座も与えてくれる。先に述べたように、黒人を野蛮や暴力と結びつけるようなバイアスは、日本においても存在している。このことは、アフリカにもルーツを持つスポーツ選手を扱うスポーツ新聞の記事が「野性味」「本能」といった見出しを掲げたり、マンガなどの創作物で描かれる黒人男性がしばしば屈強な身体と粗暴な人格の持ち主であったりすることなどからもうかがえる。日本は黒人に対するバイアスから逃れられている国というわけではなく、単に黒人の人口比率が小さく、日常生活において遭遇することが少ないために、問題が顕在化することが少ないだけなのである。

 さらに、黒人に対するバイアスを日本人も有しているということ以上に本書に普遍性をもたらしているのは、潜在的なバイアスは人間の基本的な情報処理メカニズムによって実装されているという事実である。どんな人々に対して、どのようなバイアスを、どの程度の強さで抱くかは、場所により、時代により、属する文化により異なるとしても、いずれにせよ我々は潜在的なバイアスから自由ではない。本稿の「はじめに」でも述べたように、本書は黒人に関する人種問題を中心的に扱っているとしても、他の様々な集団をめぐるバイアスの理解を助けてくれる。

 例えば刑事司法とコミュニティにおけるバイアスであるが、日本においては様々な主体が「不審な外国人」に注意するようにという呼びかけを頻繁に行っている。呼びかけの主体は、警察のような公的な組織の場合もあれば、民間の団体や個人の場合もある。このような呼びかけを行う人々と、それを受け止める人々が暗黙のうちに「不審者」として想定しているのは、西欧的な特徴を持つ白人よりも、東南アジア、中東、南米などの地域に由来する特徴を持つ人々ではなかろうか。「外国人」というカテゴリーと犯罪傾向とが繰り返し結びつけられることは、我々の心に潜在的なバイアスを植えつけていることだろう。「不審な外国人」として警察から職務質問を受けたり、近隣住民から通報されたりする外国人が「不審」に見えるのは、犯罪の徴候ゆえにではなく、単に風貌や言語などのせいかもしれない。

 また、それらの人々が罪を犯す確率が実際に日本人(と明らかに認識できる人々)より高いとして、その問題への対処のためには、貧困や差別的で劣悪な労働環境といった状況要因に目を向けることも不可欠である。しかし、日本人がもともと抱いてきた偏見やステレオタイプに基づいて、これらの「外国人」が遺伝的に、あるいは文化的に、日本人より劣った性質の持ち主であると解釈することは実に簡単に行えてしまうため、我々を根本的な問題解決から遠ざけてしまう。

 また日本において差別される「外国人」の中には、日本で生まれ、日本で育った、外見や言動では日本人と区別することが困難な人々もいる。歴史的な経緯もあって、コリアン(韓国・朝鮮人)において、そうした人々の比率は高い。そうした人々がしばしば自身の民族的ルーツが明らかにならないような姓名(「通名」)を用いるかどうかという選択を迫られていることや、そのことがアイデンティティに対して持つ複雑な影響などについても、黒人が履歴書を「漂白」することについて学んだ読者の方々は、より深く理解できるのではないかと思う。

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