曖昧で漠然とした、認識しづらい差別と偏見――いま注目される差別概念マイクロアグレッションとは何か
記事:明石書店
記事:明石書店
差別と偏見を考える議論が盛んになっている。無意識のバイアスunconscious bias、認識の不正義epistemic injustice/feminist epistemology、ミクロな不平等micro inequality、暗黙の偏見implicit bias等の議論である。さらにマイクロアグレッションmicroaggressionがある。
デラルド・ウィン・スー(Derald Wing Sue)の『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション――人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』ではアメリカの日常生活から事例がたくさん紹介されていて、それらを体系的にマイクロアグレッションとして理論的に整序しながら、どのように対処すべきかについての実践への提案もなされている。
ティーチャーズカレッジ(教職大学院)で臨床心理学・多文化臨床論を講じる中国系アメリカ人としてのスーの体験も記されている。
著名な大学の学部長らに対する半日のダイバーシティ・トレーニングセッションに招かれた時のこと。会場に居並ぶ学部長や事務長の中に有色人種が一人もいない。しかもほとんどが男性であった。「環境に埋め込まれたマイクロアグレッション」だと指摘する。
「(有色人種の学生である)あなたはもしかしたら卒業できないかもしれないし、(有色人種の教員は)正規の職を得たり昇進したり出来ないかもしれない」「ここではあなたや、あなたのような人は歓迎されていない」「あなたがもしこの大学にいることにしたとしても、あなたの成功はたかがしれている」というメッセージをこの環境から感じたという。
さらに、アジア系アメリカ人へのマイクロアグレッションもまとめられている。
①よそもの扱いされること(「どこから来たの」「英語上手ですね」「なぜ訛ってないの」という善意の評価)、②知的能力の高さを出自に帰されること(アジア系は知的であるというステレオタイプに基づいて一定レベルの知性をもっていると思い込むこと)、③アジア系アメリカ人の女性がエキゾチックさを求められることや男性は性的意欲がない、弱々しいものとして見られること、④異人種間の違いを無意味なものとして扱われること(アジア系はみんなよく似ていると思い込むこと)、⑤文化的な価値観やコミュニケーションスタイルを問題があるものとして扱われること(アジアの文化的規範が沈黙を大事にする面があるのに学校や大学の授業では口頭で発表し、参加することを期待され、学業を成功させるために西洋の文化的規範に従うことを余儀なくされていると感じる)、⑥居ないものとされがちなこと(人種の問題がもっぱら黒人と白人のことだとされること)等である。
こうした現実がジェンダー、性的指向、人種についてたくさんあり、マイクロアグレッションとして体系的に把握されていく。本書からは、より曖昧で漠然としており、特定したり認識したりすることが難しくなってきている差別と偏見が見えてくる。隠されており、相手を無価値化し、屈辱的で、侮辱的なメッセージを繰り返し伝える、場合によっては善意のかたちをとって迫る様相も伝わってくる。
マイクロアグレッションには三つの主要な形態がある。
第一はマイクロアサルトmicroassaultである。かすかなものもあればあからさまなものもある。これは意識的かつ意図的な行為である。環境に埋め込まれたサインや言語、または行為によって、周縁化された人々に伝えられる人種、ジェンダー、性的指向に対する偏った態度や信念、行為がある。KKKのずきん、ナチスのカギ十字、オフィスにあるヌード写真、ニガー、ジャップ、ビッチという蔑称等が典型的である。明示的な軽蔑を含み、特定個人に狙いを定めて暴力的な言動を行い、攻撃的な環境をつくる。価値を貶める、避ける等の差別目的の行為がある。
第二はマイクロインサルトmicroinsultである。やりとりや環境に埋め込まれた形をとり、ステレオタイプや無礼さ、無神経さを伝えるコミュニケーションのことを指す。特定の人種、ジェンダー、性的指向、境遇、アイデンティティを侮辱するという特徴をもつ。かすかな無視のようなものとしても表現され、加害者の意識的な自覚は伴わないことが一般的である。気遣いのないコミュニケーションをとおして人種的出自や文化の価値を貶めることになる。女性の内科医が男性の患者から看護師と間違われる等の例が挙げられている。
第三はマイクロインバリデーションmicroinvalidationである。有色人種、女性、LGBTQといった特定のグループの人々の心の動きや感情、経験的なリアリティなどを無視したり、否定したり、無価値なものとして扱ったりすること。マイノリティの心理状態や考え方、感情、経験を排除、否定、無化、無価値化する行為である。差異を無視して平等な扱いをしていると言うこと等も該当する。
こうしたマイクロアグレッションへの対応は難しい。
①曖昧さがある――マイクロアグレッションが起きたのかどうか断定できない、②応答しづらい――どう応答すればよいか分からない、③時間がない――応答できるようになる前に出来事が過ぎ去ってしまう、④否定する――厄介なことなので自分を偽って何も起きていないと信じ込もうとする、⑤行動への無力感が生起する――「どうせ、何も良いことはない」、⑥結果を恐れる――そんなことに反論、抵抗すると別の非難が待っているという思いが生起する等して苦慮する。
「自分が繊細すぎるのだろうか」「考えすぎだろうか」「相手には本当に悪意があったのだろうか」「相手の無知につけこむことになるのだろう」と思み込む、悩むこともある。
マイクロアグレッションに気づくと自責の念さえわくこともある。
さらに厄介なことがある。
相手にそのことを指摘した後で、謝罪がなされることがある。しかしよく見ると、その謝罪においてもマイクロアグレッション的なものが展開されるケースがある。「あなたを傷つけてしまったならごめんなさい」「気分を害したようなので謝ります」「どうやら誤解を招いたようでした」等である。
マイクロアグレッションによって相手を傷つけたことやそうした行為や発言をしてしまった自己が立ち現れてこない。加害が内省され、社会の問題に向き合おうとする謝罪ではない。そうではなく、傷つきやすい被害者が話題になっている。
あなたの感受性、考え方、さらにいえば脆弱性に由来する傷つきなので、その点について謝罪しますと言わんばかりなのである。「そういう意図ではなかった」「あなたを差別するとか悪気はないんです」等と言っている。自分の行動は脇に置き、相手の弱さを前景化させ、被害をそうしたものとして定義し、謝罪しているのでそれを受け取って欲しいと要請している。
よく似た言い方として、「被害を受けた当人がハラスメントだというのだからその限りで謝罪します」という言い方もある。自らの行為を否認はしていないが被害者に判断を委ねている。さらに「意に沿わないことで被害が生起するというのが最近のハラスメントの定義であり、被害者の主観的な感情によるということは理解している」とも分かったようなことを言う。物わかりのよい丁寧な加害者である。
マイクロアグレッションは「社会構造や制度の問題」としてわかりやすく現れるのではなく、個人間の日常的で微細なコミュニケーションのなかから立ち現れる。マイクロという言い方は、日常的行動のなかにこそ大きな重量感をもつ社会が埋め込まれ、立ち上がってくるという意味である。マイクロアグレッションを適切に定義し、言葉を与えていくことで語られていない社会が上昇してくる。
翻訳作業をとおして考えるべきだと思ったことは、日本におけるマイクロアグレッションの現実である。
一緒に訳していた在日コリアンのメンバーが話題にしていた。「留学生ですか?」「日本語うまいですね?」「日本に何年居るのですか?」と聞かれることが多い、と。マイクロインバリデーションそのものである。この瞬間、無化された感覚をもち、「他民族や他人種がいないものとされている」ようだとも言う。
さらに「私には本当に偏見などない。どうすればそれが相手にわかってもらえるだろうか」という質問をされることもあったという。
問題はマジョリティのもつ無自覚さである。スーは、そのことを見通して、マイクロアグレッションは加害者に対しても有害な影響を与えることを指摘する。加害者が現実に対する歪んだ感覚をもっていること、共感し、理解するためのある種の感情の欠如があること、異なる属性をもつ他者への不安の投影があること、多様な他者へと開かれた関係形成ができていかないこと等を指摘する。
こうして、マイクロアグレッションへの気づきをとおして支配と抑圧のマクロレベルのシステムが、加害者のミクロレベルの精神と行動、相互作用の様態にどのような影響を与えるかという点を浮かび上がらせている。
個人はどのようにして、なぜマイクロアグレッションを行うのか、なぜ加害者はマイクロアグレッション行為における自分の役割を認識することが難しいのか、微細な侮辱行為を行った人々にとってその負荷はどのようなものなのかが解説されている。マクロな暴力を支え、無知と善意をとおして偏見を強化していく加害者の心理社会的コスト(感情的、行動的、精神的、道徳的)についても扱っている。訳出しながら日本人男性で教授という地位にある私も加担しているかも知れないと気づく。
そんなことまで指摘するのかという反応それ自体がマイクロアグレッションとなるが、論争的な領域でもあるので、建設的な差別研究となるように、ひきつづきすでに出版されている原著第二版についても紹介していきたい。
本書ではマイクロアグレッションの解決にむけた「次の一歩」について対話をとおして歩み出す方策が提案されている。マイクロアグレッションの議論は、最初に紹介した差別の諸理論と共に、社会政策、社会運動にも必須の議論となるだろう。それらと相関して学術的な議論としても深めていくことが求められている。