内田樹さんが中高生に伝えたい、ポストコロナ期の仕事について
記事:晶文社
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最初に仕事の話をします。これから仕事はどうなるかということです。
中学生高校生にとって喫緊の問題は、「これからどういう専門分野の知識技術を身につけて、先行きどういう仕事に就いたらいいか?」ということです。政治がどうなるとか、経済がどうなるとか、人口減少がどうなるとかいう大きな話をするより先に、順序としてはより身近な就職の話から始めましょう(でも、ほんとうを言うと、就職の話をきちんとするためには、未来のほとんどすべての領域についてある程度たしかな予測を立てておかないといけないんです)。
みなさんの多くはこれから受験を控えているわけですけれど、どんな専門領域に進学「したい」のかという「好き/嫌い」とは別に、どんな専門領域に進学したら「食える/食えない」ということを考えていると思います。もちろん「好きなことをして食える」のが一番だけれど、果たして、「食える仕事」って何でしょう?
僕からのアドバイスは簡単です。みなさんは「好きなこと」をすればいい。「したい」勉強をして、「したい」技術を身につけて、「したい」職業に就けばよい。
それで食えるか食えないのかなんてことは後で心配すればいいことです。だいたい「したいこと」をしていれば、人生間違いはないです。少なくとも、「したいこと」をしていれば、それで先行き「食えなく」ても、誰を恨むということもありません。逆に、「したくない」けれども、「これなら食える」と思って、ある専門なり職業なりを選んだ場合、やってみたら「食えなかった」ときに文句を持ってゆく先がありません。
ですから、みなさんはまず「好き/嫌い」のレベルで、専攻する分野や、就く仕事を決めてください。それでいいんです。でも、それとは別に「食える仕事と食えない仕事」についても一つの知識として頭の片隅に置いておいて欲しいと思います。たいせつなのは「いまは食える仕事」だと思われているけれど、みなさんが大人になる頃には「食えなくなる仕事」があるということです。「あまり気が進まないけど、これなら食えそうだから」というような動機で選んだ仕事が「食えない仕事」になってしまった場合はほんとうに悔やんでも悔やみきれない。ですから、それについてまずお話しします。
コロナウィルスのパンデミックで大規模な社会変動が起きる前、今年(2020年)のはじめまでは、AIの導入で雇用はどう変わるかということがずっとメディアでは議論されていました。日本のメディアはあまりそういう話をしたがりませんでしたけれど、アメリカのメディアは「執拗に」というくらいこの話題を繰り返し報道していました。
僕が読んだ限りで、AI導入による雇用消失についての最も控えめな数字は14%でした。もう少し危機的な数字では38%。それだけの職業がこの世から消えるということです。コンサルティング会社のマッキンゼーの試算では「アメリカ国内で人間が賃金を得ている仕事のほぼ半分が既存の技術で自律化できる」のだそうです。
もちろん、だからと言って、雇用の50%がそのまま消えるわけではありません。先端技術を導入するより低賃金労働者に手作業でやらせた方が安い仕事はそのまま人間が担うことになります。その仕事を代行できるマシンを設計して、稼働させて、メンテナンスするよりも人間を使う方が安い仕事って……なんでしょう。僕はいまふっと「奴隷制時代のアメリカ南部の綿摘み労働」を想像してしまいました。
それから、さきほど「日本のメディアでは雇用消失の話はあまり好まれない」と書きましたけれど、これはたぶんマスメディアで働く人たち(全国紙の記者とか民放テレビの制作スタッフとか広告代理店の営業とか)が、「これから食えなくなる職業」のリストのけっこう上の方に出てくるからです。最新の統計では、民放テレビは感染症の影響で大幅な収益減となっています。スポンサーである企業の収益も落ちていますから、民放テレビの人件費・制作費はさらに大幅な圧縮が予測されます。誰だって、「私の職業がもうすぐなくなるようですけれど、そのプロセスと、それをもたらした歴史的文脈について詳細をレポートします」というような話はあまりしたくないですからね。別に読者・視聴者の眼から事実を隠しているというようなとげとげした話ではなくて、「なんか、気が滅入るから、報道する気がしない」だけだと思います。
だから、新聞・テレビ・広告代理店を就職先に考えている人は立ち止まって一考した方がいいと思います。そして、よく考えてくださいね。いいですか、一般人がこの業界について知っている情報はこの業界経由でしか伝えられないということを。メディアにとって不利な情報をメディアは伝えません。
これまでも科学技術の進歩によって旧時代のシステムやそれに依存していた職業が消えるということは何度もありました。でも、今回のAIによる雇用の再編は規模と速度において歴史上に類例を見ないものです。
19世紀にイギリスで蒸気機関車が発明されて、御者や馬具商が雇用を失ったときでも、蒸気機関車が日用の便に供されるまでには何十年かのタイムラグがありました。ですから、「オヤジの代までは馬具一本でいけたけれど、これからは靴とかバッグとかにも商品展開していかないとダメかも知れないなあ」というようなことを考える時間的余裕があった。今度はそういう余裕がありません。ある日、いきなり、一つの業界全体が消える。
AI導入で米国でまっさきに消える職業はトラック運転手だそうです。自動運転だと、365日24時間運転し続けられて、ご飯も食べないし、休憩もしないし、交通違反もしないんですから、人間が取って代わられるのは避けられない。トラック運転手は米国だけで200万人。その人たちが自動運転の導入にともなって、かなり短期間のうちに全員失業することになります。
200万人の失業者を「AIに代替されてなくなるような時代遅れの仕事を選んだ本人の自己責任だ」と言って済ませるわけにはゆきません。なんとかしないと大量の失業者が次々とさまざまな業界から出てきて、消費は冷え込み、市場は縮減し、税収は落ち、治安は悪化し、アメリカ社会そのものから活力が失われる……そんな事態を座視するわけにはゆきません。連邦政府か州政府が彼らの再雇用のための研修や訓練の機会を提供しなければなりません。そこで米国でも、まだ「机上の空論」の段階ですけれども、ベーシックインカム導入が語られ始めました。
ついでですから、ベーシックインカムの話もここでしておきましょう。ベーシックインカムはみなさんが「ポストコロナ期」を生きる上で、避けて通ることのできない事案になります。「君はベーシックインカムについてどう思う?」そう訊かれる日が遠からず来ます(もう来ているかも知れません)。そのときに自分の意見をきちんと述べられるようにしておいた方がいいです。別に僕の意見をそのまま請け売りしてくれと言っているわけじゃありません。僕からは基本的な情報の提供にとどめます。あとは自分で考えてください。
ベーシックインカム(basic income)というのは「最低限所得保障」のことです。政府がすべての国民に対して、健康で文化的な最低限度の生活を送るのに必要な現金を支給する制度です。いま、だいたいどこの国でも、生活困窮者に対しては、生活保護、失業保険、医療扶助、育児支援などいろいろな現金支給がありますけれど、ベーシックインカムがそれらと違うのは、こういうさまざまな既存の社会福祉制度をほぼ全廃して、全国民に等しく最低限度の生活に必要な額を支給する点です。
すごくシンプルな仕組みなんです。ですから、最大のメリットは制度設計に時間も手間もほとんどかからないこと。なにしろ年金とか失業保険とか生活保護とか、そういう制度が全部なくなるわけですから、それにかかわる仕事がなくなる。それまでその制度を維持管理するために雇用されていた人たちは失職してしまうわけですけれども(気の毒です)、行政コストのあまりかからない「小さな政府」は実現できます。
それからもう一つ、ベーシックインカムでは、「これこれこういう条件を満たしたものだけに支給する」という制限がなくなります。いまの社会福祉制度だと、受給者の側に「自分が困窮者であること」を挙証する責任があります。自分がいかに困窮しており、いかに生計を立てるだけの社会的能力を欠いているかを公的機関に向かって証明しなければならない。問題はここにあります。いまの制度は、その恩恵を受益することと引き換えに、受給者の側に屈辱感を覚え、恥じ入ることを要求しているのです。これは社会福祉制度の抱える本質的な倫理的欠陥だと僕は思っています。
ベーシックインカムは「受給者に屈辱感を与えない」という点でこれまでのどんな社会福祉制度よりもすぐれていると僕は思います。受給するために自分が困窮者であると名乗る必要も、証明する必要もないんですから。
もちろん、予測される欠陥はいくつもあります。全国民に生活資金を現金支給するんですから、ものすごくお金がかかります。米国で1人に年間1万ドルのベーシックインカムを支給すると、必要な金額は3兆ドルを超え、アメリカのGDPの6分の1がそこに吞み込まれてしまうそうです。
もう一つの懸念は、何もしなくても最低限度の生活は保障されているわけですから、一生ごろごろして仕事をしない人間が出てくるのではないかということです。実際に、英国には「アンダークラス」という社会階級が存在します。英国の社会福祉制度が生み出した「仕事をしない人たち」です。その話を少しします。ベーシックインカムについて考えるときに避けて通れない問題ですから。
第二次世界大戦後に政権を取った英国労働党は「ゆりかごから墓場まで」というスローガンを掲げて、手厚い社会福祉政策を採択しました。でも、この政策は当然ながら膨大な財政支出をもたらしました。その結果、1970年代になると、それに対する反動で、マーガレット・サッチャーが登場します。サッチャーは「自らを助けようという意欲のある者しか政府の支援を期待すべきではない」と述べて、社会福祉予算を大幅に削減しました。このサッチャーリズムが「アンダークラス」というそれまで存在しなかった階層を創り出しました。
それまで、困窮していた人たちは政府からの支援を、権利として、事務的かつ非情緒的に受けることができました。それに対して、サッチャーはいわば福祉制度に「情緒」を持ち込んだのです。困窮している人たちに、政府からの支援を求めるときに、「自分がこんな貧乏になったのは自己責任です。政治が悪いわけではありません」と誓言し、恥じ入ることを強いたのです。貧者たちは自尊心を棄てる代償として、現金支給を得たのです。
自分で自尊心を棄てた人たちに周囲の人間が敬意や親愛を示すわけがありません。サッチャー以後、福祉の受給者たちはそうして国民的な差別と蔑視の対象になりました。日本でも「福祉にただ乗りしている人」を罵倒する政治家や評論家がたくさんいますけれど、彼らはサッチャー主義を継承しているのです。
「アンダークラス」というのは、この「自己責任で貧乏になりました」とカミングアウトする代償に生活保護を受け、それによって国民的な差別と蔑視の対象となった階層のことです。彼らは労働していないので「労働者階級」でさえありません。そのさらに下に位置づけられる。その中には祖父母の代から孫の代まで、三代にわたって生活保護で暮らすというような人たちさえいるそうです。
サッチャー以後、英国の福祉制度は「敗者という名の無職者」に「金だけ与えて国畜として飼い続けた」とブレイディみかこさんは書いています。「国畜」ってすごい表現ですけれども、英国市民の実感としてはたぶんそれくらいに差別されているということなんでしょう。
困窮している人には住む家を与えますよ。仕事が見つからない人には半永久的に生活保護を出しますよ。子どもができたら人数分の補助金をあげますよ。の英国は、その福祉システムのもとで死ぬまで働かず、働けずに生かされる一族をクリエイトした。
ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』みすず書房、2017年
「働かずに生かされ」ているアンダークラスたちは都市の一角に集住しています。その環境で育った子どもたちには労働という概念そのものが欠落しています。周りに働いている人が誰もいないのだから、しかたがありません。毎朝決まった時間に寝て、決まった時間に起きるとか、朝起きたら顔を洗って歯を磨くとか、外に出るときは見苦しくない服を着るとか、人に会ったら挨拶をするとか、そういう基礎的な生活習慣そのものが身についていない子どもたちが集団的に生まれて来た。彼らには社会的上昇のチャンスはありません。ですから、アンダークラスを決して生み出さないような福祉制度を整備すること、これがベーシックインカム制度を論じるときに忘れてはならない論点です。それを抜かした制度論は結局空疎なものに終わるだろうと思います。
米国でも、コロナによる失業者救済のために、現金支給をする法案が連邦議会で議論されています。でも、いずれも条件づけがあり、継続的なものではありません。これはベーシックインカムとは言えません。それに、米国の人たちの議論を読んでいると、悪いけれど、福祉制度が人間の心にどういう影響を及ぼすかを考えている人はほとんどいません。金と費用対効果の話しかしていない。だから、仮に米国でベーシックインカムが導入されてもうまくゆかないと思います。「自己決定・自己責任」を重く見る米国人に「福祉制度の受益者に屈辱感を与えてはならない」という話の筋道を理解させるのは至難のわざだと思います。
ヨーロッパではドイツがベーシックインカムの実験を始めました。120人が毎月1200ユーロを受け取り、この120人と受け取っていない1380人のふるまいを3年間にわたって比較分析するのだそうです。支給された現金をどういうふうに「活用」するのかを見るだけでなく、どうやってアンダークラスを生み出さないのかも重要な研究テーマになっていると思います。ドイツ人がどういう結果を出してくるのかに僕は注目しています。
その他、コロナ・パンデミックで収入が途絶えたり、仕事そのものがなくなったりした市民のためにフランスでも、デンマークでも、スペインでも、スコットランドでも、制度の検討が始まっています。ベーシックインカムについて、僕はいささか期待するところがあるんですけれど、それはこの制度が「ランティエ(rentier)」復活のきっかけになるのではないかと思っているからです。
※後編へつづく。