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半藤一利さんと昭和史――のこす言葉『半藤一利 橋をつくる人』より

記事:平凡社

半藤一利氏
半藤一利氏

昭和史はなぜ面白いか

 会社を辞めて昭和史をやってやるぞ、という当初の決意と、いまの現実を見ると、理想どおりにいったとは思っていません。人間というのはなかなか一直線にはいかなくて、ずいぶん脱線してきたなあというところがありますね。でも振り返って「こんなはずじゃなかった」ということはありません。

 たとえば「愛」と「非攻・非戦」を唱えた墨子(ぼくし)は、安吾さんや伊藤正徳さんに並ぶ、わが“先生”ですから脇道とはいえません。いまの人にはほとんど知られていないけど、彼の思想は先の見えない混沌たる時代にこそ大切にしなければならない、と思っています。『墨子よみがえる』(2001年)には、神風特別攻撃隊や、八紘一宇のこと、米内光政の「魔性の歴史」や、チャップリンの『殺人狂時代』など、昭和史にふれた話がやたらに出てきます。とくにインパール作戦の菊兵団が守備していたミートキーナ(現ミッチーナー)が陥落して退却せざるをえなくなったときの話で、丸山豊さんが書いた『月白の道』から引用した一文のことは、いまでも忘れられません。

 「私はつくづくと、戦争にたいする一個の人間の非力を思った。じつに徹底して非力である。しかし私は思いかえすのであった。たしかに一個の人間は砂よりも微弱だが、けっして、永遠に非力であってはならない、と」

 そうなんです、われわれは永遠に非力であってはならないんです。心の中に平和の砦(とりで)を築かねばならない、それが最高の昭和史の教訓ではないか、と、墨子を書きながらも、昭和史からなかなか離れられない。

 そこまで昭和史にこだわっているのは、やはり面白いからです。他の時代とはまったく違う。戦争があって、敗けて、ゼロから日本を立て直す時代を一緒に生きたわけです、それを事実に基づいて書こうというのですから。

 たとえば幕末を書こうとすると、話を聞く人がいないのだから、相手は文献になります。というのは『幕末史』(2008年)でそれとなく調べるうちに、どうも事実は私たちが伝えられているような歴史とはずいぶん違っているな、と感じました。幕末史の文献はとりわけ、薩長が自分たちの正当性を飾るために作られたものです。それで敗けた側の記録がないのかといえば、ないわけじゃないんです。あっても活字になってなくて、みな原文のまま。だからぼくらには読めない、つまり公正な歴史でなくなる。安吾さんの教えそのもので、そういう意味では昭和史ほど面白くはないんです。

物書きから語り部に

 そうこうしているうちに、気がつくと書くだけでなく、昭和史の“語り部”になっていました。できるだけ易しい言葉で、昭和の歴史を後の世代に伝えよう、という仕事をずいぶんやるようになった。これはまったく予期していなかったことです。

 それまでに太平洋戦争や昭和史の本を書いてきて、それなりにけっこうな読者がいました。ということは、みなさん相当に歴史を知っているのだとばかり思い込んでいた。ですから以前は統帥権の問題なども、難しい専門用語を用いて書いてきました。しかし今の日本人は歴史を学んでいないんですね。

 30年ほど前になりますが、ある女子大の雇われ講師を3カ月ばかりやったとき、3年生を50人ぐらい教えたのですが、授業の最後に「戦争についての10の質問」というアンケートを出したんです。その冒頭で「太平洋戦争で日本と戦争したことがない国は? aドイツ bオーストラリア cアメリカ d旧ソ連」という質問をあげたところ、アメリカを選んだ人が13人いた。さすがにおったまげてよ。次の授業で、この13人に私をおちょくるためにアメリカに〇をつけたのかと聞くと、まじめに答えたのだという。なかで手を上げて質問をした子がいて「どっちが勝ったんですか」。そのときはほんとうに教壇でひっくり返りましたよ。もう彼女たちはもちろんいいお母さんになっているでしょう。これはねえ、日本の国はもう少し歴史をきちんと教えないと危ないぞと、そのとき思ったことは確かなんです。歴史が好きだとか、学ぼうとしているという人でなくても、基本として知っておくべきことはあると。

 きっかけとなった『昭和史』(2004年)の語り下ろしは、「昭和史のことを何も知らない自分たちにわかるように、最初から喋ってほしい」という編集者の勧めもありました。学校の日本史の授業では、縄文時代から始まるでしょう、だから学年の終わりまでに昭和史に辿り着かないんですね。女子大での苦い記憶も蘇りました。

 読者層が広がりましたね。それまで自分が書いたものを読むのは、歴史好きであるとか、ノモンハンやレイテ沖海戦など、扱ったテーマに関心のある人ばかり。その意味では熱心な読者でしたが、せいぜいが1万人でした。が、『昭和史』は戦後篇(2006年)と合わせて80万部となり、今も読まれているんです。

通史をやって気づいたこと

 思いもかけず改めて一から昭和の歴史に取り組んでよかったのは、自分のなかでわからなかったこと、つまりどうしてここでこうなっちゃうのかな、というところが理解できたことです。ピンポイントでやってると見えないんですね。そういう意味では、昭和史という一つの流れを、大づかみだけれど丁寧に辿っていったことは、ものすごく勉強になりました。たとえば二・二六事件という一つの大きな事件、これだけを突っこんでやっているとたしかに面白いですよ。だけどやっぱり「部分」なんです、ピックアップしているだけです。ところが歴史の流れのなかで二・二六事件をとらえると、見方がまた違ってくる。そのなかで強く感じたのは、やはり昭和の中心には天皇があるということ。『昭和史』では表に出していませんが、今はそう実感しています。

 平成の天皇と昭和天皇がどう違うのかを考えていくと、歴代125代の天皇のうちでたった一人、子どものときから軍人として育てられ、大元帥陛下と天皇という二重性を負わされた、そういう存在は唯一、昭和天皇だけなんです。大正天皇もそういうことはありませんでしたし、明治天皇などはへんな話、宮中で女官に囲まれて育ち、維新だというので担がれましたが、自身は何もわからないで伊藤博文や山縣有朋や山本権兵衛ら、年齢も大きく違う周囲の人たちに操られていただけです。そういう意味では、昭和天皇だけが国家の二重性─つまり軍事国家と、憲法を大事にする立憲国家というものの二重性を負わされた。自身はある程度、憲法を大事に考える天皇であったと同時に、憲法とは関係ないところの軍事国家の大元帥でもあった、その二重性というものに、昭和史をきちんとやって気づきました。昭和史の基本にあるのは、憲法を大事にする立憲君主国家、もう一つは大元帥が統帥権をもつ軍事国家、その両方の長であった天皇が同一人格でまったく違うことをやったという点で、これはやはり昭和という時代の他にない特徴なんですね。

 平成時代の天皇がお代わりになった現在、日本の政府には戦前を懐かしむ人がいるようです。戦後レジームからの脱却といってますが、戦後レジームというのは、いま言った二重性を排除して憲法を大事にする平和国家の体制ということ。そこから脱却するということは、前に戻るということでしょう。自民党の主張する憲法案の一条は、天皇を元首とする。そして自衛隊を国防軍にするというのですから、軍隊を復活するんじゃないでしょうか。つまり、また戦前の昭和史に戻ろうとする流れがかなり強くなっている。それは私に言わせれば、とんでもない大間違いをもういっぺんやることであって、だから昭和史を知ってほしい、昭和がどういう時代であったかをみなさんに今いちど学び直してほしいんです。

「歴史に学べ」でなく「歴史を学べ」

 ただ私は正直、まだ間に合うと思っています。せっかく日本は戦後70余年、危うい面もあったが、戦争をしない、決して攻撃はしない国を築いてきたんです。平和は国民の努力によって支え、保つことができるんだと、日本人は70年かかって世界に示してきた。それを世界に広げるという積極的な役割を担うことができる、日本は世界で唯一の国です。「戦争がない」ことがいかに大事なことか。戦争は天から降ってくるものではありません。人が起こさないように努力しないといけません。墨子の教えではないけれど、戦争になるかもしれない芽が少しでも出たら、プチンプチンとそのつど摘み取って、つぶしてやろうという努力を永遠に続けないといけない。

 私は歴史というのは「人間学」だと思っています。歴史はくり返すとよく言いますが、単純にそうとは言えないんじゃないでしょうか。というのも、時代によって状況が異なるし、国際的な交流関係が昔と今とでは全然違うからです。ただし、歴史をつくっている人間というのは、いくら文明が進歩してもあまり変わらない。たとえ将棋でAIに負けたとしても、人間は同じ策謀をし、同じような状況で同じような判断をし、同じ過ちをします。いちばん大事なときに手前勝手な見込みのもとに判断をするから、いっぺん間違うと、次のときにまた判断を誤るんです。

 よく「歴史に学べ」と言います。歴史を教訓にしようとする言葉が流行りますが、そうじゃなくて、「歴史を学べ」のほうが今の日本人には正しいと思います。まずは知ること、そうして歴史を学んでいれば、あるとき突然、目が開けるんです。

 今は戦前と違って、いくらでも各国の人の交流があります。それにわれら悲惨な戦争体験のあるじいさんばあさんが元気なうちは、まだ大丈夫です。その先のことは、少し下の世代、さらに若い人たちの双肩にかかっていると思います。そのためにも、かつて橋の技師になることを諦めはしましたが、今を生きる人と昭和史のあいだに橋を架ける仕事を俺はしているんだ─なんて言うと、こじつけになるでしょうか。

人生の一字

 自分にとって幸せとは何か? そうですねえ、夜寝るとき、明日の朝に死んでいてもいいや、と思えることかな。寝床に入るとき、今晩、心臓麻痺でぽっくり逝ってもあまり後悔することねえな、ずいぶん面白い人生だったなと。

 戦争を戦って帰ってきながら、まったく語らず無言のままの人が大勢いました。小沢治三郎、栗田健男、宮崎繁三郎……逆にたくさん語った人もいた、あるいは噓を言ったり、弁解ばかりする人もいた。語らざる人はなぜ最後までこうも無口だったのか、それにはちゃんと理由がある。この人はどうして噓をつくのか、それも何かある。たくさん見てきて、やっぱり人間というのは実に面白いと思った。なにも講談や浪花節に出てくる加藤清正や豊臣秀吉がどうの、そんなことをやらなくても、生身の人間の方がよっぽど興味深い。そう思ったことが結果的に一筋につながった─何かを読んだからとかじゃなくて、それが今の“実感”ですね。私の昭和史は、それでしょう。

 一つだけ、30年来続けていることがあります。毎年8月1日から31日までの1カ月間、朝、寝間着のまま寝床の上に座って、「戦陣に死し職域に殉じ、非命に斃(たお)れたる者、およびその遺族に思いを致せば、五内(ごない)ために裂く」と、終戦の詔勅の一節を唱えます。戦陣に死し、は兵隊さん、職域に殉じ、というのは船員さんや職工さんたち、今は靖国神社に入っていますが、かつては入っていませんでした。非命に斃れたる者、というのは原爆や空襲、サイパン島や沖縄の戦いなどで亡くなった非戦闘員の戦没者すべて、その遺族のことを考えると内臓が裂けて砕けるようだ、という意味です。それを唱えて1分間、黙禱して起きます。平和への祈りです。

 人間は絶望しちゃいかんと思います。憲法はじきに変えられちゃうんだから、とか、投票に行っても同じだとか、あっさり決めてしまっちゃいかん。私たちにはまだまだ、うんと努力しないといけないことがあるんです。墨子の言葉(いや、柴又の寅さんの言葉?)をかりれば、平和を保持するために、奮闘努力すべし、なのです。

 自分の人生を漢字一字にたとえるとすると、「漕」ですね。艇(ボート)だけじゃなくて、昭和史も漕ぎつづけてきた。ゴールはなくても、飽きずに一所懸命に漕いできた。毎日毎日漕いでいると、あるとき突然ポーンとわかることがある、オールがすうーっと軽くなるように。だから、「続ける」ということ。決して諦めず、牛のようにうんうん押していくことです。長い人生、伊藤正徳さんの遺言を守ったわけじゃないけれど、あたしはまだやってるんだ。89歳で現役らしいからねえ(笑)。

(2019年刊平凡社のこす言葉シリーズ『半藤一利 橋をかける人』の終章「遅咲きの物書き、“歴史の語り部”となる」より転載)

本書のために書いてくださった半藤さん直筆の「のこす言葉」
本書のために書いてくださった半藤さん直筆の「のこす言葉」

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