今あらためて『資本論』を読むために 「日本資本主義論争」早わかり
記事:白水社
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マルクスが捉えた資本主義社会は、西欧とりわけイギリスをその十全な発展のモデルとしたものであり、日本における資本主義の現状にそのまま当てはまるかは疑義が残ることに気づいた知識人たちがいた。彼らは、日本における資本主義を改めて考えた。彼らが考え出した日本資本主義の段階的発展の理論は、マルクス・レーニンに影響されつつも、日本独自の理論展開であった。彼らの考えは論争となった。日本社会は、どのような資本主義社会であり、どのような段階にあるのかをめぐって、1920年代から30年代にかけて論争が交わされたのである。それが日本資本主義論争である。その論争は、青年期の内田〔義彦:1913─89〕の思想形成にも大きな影響を与え、『経済学の生誕』の背景としても重要なものである。
日本資本主義論争は、講座派と労農派に分かれての、日本資本主義の特質の理解をめぐる論争である。講座派と呼ばれる立場は、日本の資本主義の現状には封建制(とくに地主)が色濃く残存しているが故に、まずはブルジョア革命をせねばならないとする。ブルジョア革命とは、フランス革命のように、資本主義の全面展開を可能にするための政治的・法的基礎(人権や私的所有権、営業の自由)を確立するものであった。その革命により、身分制から解放されて、職業選択・経済活動の自由が確立し、資本主義が発展する中から、資本家がますます豊かになる一方で、困窮した労働者[プロレタリアート]が大量に生じ、それが社会主義革命(プロレタリア革命)を起こすという立場である(二段階革命論)。それに対して、労農派と呼ばれる立場は、日本はすでに資本主義社会となっており、さらなるブルジョア革命ではなく、直接プロレタリア革命を目指すべきとの立場であった。
こうして、日本の資本主義とは何かについての論争は、単なる学術論争のみならず、政治的論争であったこともわかる。実際、この論争の背景には、世界各国の共産党・共産主義者の政治活動の指導に当たるソビエトのコミンテルンの意向があった。
日本共産党は1922年に設立されるが、1920年代中葉は、福本和夫(1894─1983)の福本イズムが共産党内で影響力を持った。福本イズムとは、世界資本主義は没落しつつあるのだから、そこに合流するために純粋な闘争のための前衛組織を分離し、のちに無産階級・労働者運動と結合するという運動理論である。ところが、1927年にコミンテルンはこの考えを否定し、日本の資本主義はまだ封建的要素が残っており、当面はブルジョア革命が必要というテーゼを発表した(27年テーゼ)。このテーゼは日本の共産主義者にも影響を与えることになった。さらに、学術面でも、服部之総(1901─56)は、それまでに有力であった明治維新はブルジョア革命であるとの説に反対し、明治維新は単純なブルジョア革命ではなく、外圧により促進された絶対王政による上からのブルジョア革命であったが故に、封建的土地制度が残存していると考えた。
1932年にはさらに、日本共産党の任務は、「社会主義革命に強行的に成長転化する傾向をもつブルジョア民主主義革命」とされ、具体的には、天皇制の打倒、地主的土地所有の廃止、帝国主義戦争反対などが打ち出された。32年テーゼと呼ばれ、影響力を持ったこの方針は、1931年に軍部が満洲事変を起こし、ソ連側で日本との戦争への懸念が浮上する中、暴走する軍部を擁する天皇制国家権力の打倒と帝国主義戦争反対がソ連側の中心課題となったことによると言われる。
このテーゼが打ち出されたのは、日本資本主義の学術的研究の金字塔であり、講座派研究の中心である一連の『日本資本主義発達史講座』の企画が進展している途上であった(講座派の名はそこから取られた)。その企画内で、32年テーゼについて議論が交わされた。このテーゼは、その講座から出てきた山田盛太郎(1897─1980)にも影響を及ぼした。
山田の『日本資本主義分析』は、1934年に刊行されたが、講座派の立場から日本資本主義を分析した代表作であり、名著として知られている。明治維新により、農民は解放されたのではなく、高率の小作料を取る地主に隷属を強いられ、あるいは、低賃金に苦しむ従属的賃金労働者となる。労働の現場では、封建制は色濃く残存していた。他方で、そこに基盤を置きつつ、近代産業が発展する。しかし、それは、軍事力強化を支える産業を構築するために、国家の支援により確立されたものである。その結果、大衆の消費力が弱いために、国外に市場を求めることとなり、植民地確保のための帝国主義的行動を日本は取る。こうして、山田は、日本資本主義の封建性が、いかに日本資本主義の発展と密接不可分であるか、そしてそこからいかにして帝国主義が生じるかを明らかにした。
日本資本主義の封建性を強調する山田ら講座派を批判したのが、労農派である。日本において近代的資本主義がすでに進展しているとの理解に立つのが労農派の立場であった。なかでも、山田『日本資本主義分析』を批判したものとして名高いのが、向坂逸郎(1897─1985)の1935年の論文「『日本資本主義分析』に於ける方法論」であった。向坂が山田を批判して論じるには、山田の立場では、明治30年─40年に、半封建的土地所有と、軍事的産業という組み合わせが出来上がり、それ以降現在に至るまでその図式が不変とされてしまい、その後の資本主義の発展を見逃している。そして、ロシアでも封建性が強いのに資本主義が発達したように、資本主義の法則はすべての国に当てはまるように展開するというレーニン説に言及する。レーニン説を是として、日本における資本主義の進展の事実を認めると同時に、レーニン説は山田と逆だとして、山田を批判する。ただ、1930年代後半からは、当局の弾圧により、一旦この論争には終止符が打たれた。しかし、山田の日本資本主義理解は図式的に過ぎており、資本主義の発展を見落としているとの批判は、戦後の論争にとっても重要であった。
【野原慎司『戦後経済学史の群像 日本資本主義はいかに捉えられたか』「第一章 内田義彦──近代化への妨げは何か」より】