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カール・マルクス 交換を強いる「物神」の力

 一般に、マルクス主義は唯物史観(史的唯物論)だということになっている。それは、社会構成体の歴史は、生産力と生産関係という経済的土台の変化に規定され、最終的に、社会主義にいたるというような見方である。そして、この考えは、二〇世紀の末にほとんど消滅してしまった。では、今、なぜマルクスを読む必要があるのか。資本主義経済という現実を見るのに、マルクスの『資本論』が不可欠だからだ。
 私はマルクスを若い時から読み、今も読んでいる。たぶん、それは一度も「マルクス主義」(唯物史観)を信じなかったからだ。その理由は、宇野弘蔵の影響を受けたことにある。宇野は、唯物史観も社会主義もイデオロギーであるが、『資本論』は科学である、という。簡単にいうと、宇野は学生に、君たちは将来何をやっても構わないが、資本主義経済が決して避けることのできない欠陥をもつことだけは承知しておけ、というのだ。それは、産業資本が「労働力商品」という、必要だからといっても増やすこともできず、不必要だからといって減らすこともできない、特異な商品に依拠しているということである。

中枢部が精読

 戦後から六〇年代半ばまで、東大の法学部・経済学部では、宇野ないし宇野派の教授による『資本論』の読解が必須科目であった。つまり、日本の国家・資本の中枢に向かった人たちの多くが精読した。これは世界的に稀有(けう)な現象である。私自身は、経済学部に進んだものの、まもなく狭義の「経済学」への関心を失い、文学に向かった。しかし、『資本論』は「経済学」というより、それ以上の著作であった。
 マルクスの経済学というと、労働価値説、すなわち、各商品に「労働時間」が価値として内在するという考えだと説明されている。しかし、それは、アダム・スミスら国民経済学(古典派経済学)の考えにすぎない。剰余労働の搾取という考えさえ、リカード派社会主義者の見解である。マルクスがそれらを受け継いでいることは確かであるが、『資本論』は何よりも、その副題にあるように「国民経済学批判」なのだ。そして、そのことは、彼が生産に対して交換を重視したことに示される。交換は共同体と共同体の間で生じた。それは、見知らぬ不気味な相手に交換を強いる「力」なしにはありえない。マルクスは商品の価値を、物に付着した物神、つまり、一種の霊的な力だと考えた。貨幣や資本はそれが発展したものである。その意味で、資本主義経済は宗教的な世界である。宗教を小バカにしているような人たちが、この物神を心から信じているのだ。

科学的に把握

 もう一つ、私が学生の頃に震撼(しんかん)させられたマルクスの著作は、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』である。これは一八四八年の革命の中で、実現された普通選挙を通して、ナポレオンの甥(おい)であるという以外に何もなかった一人物が、大統領となりさらに皇帝になっていく過程を分析したものである。それは唯物史観などで説明できるものではない。マルクスが本書で示した透徹した分析は、今もって示唆的である。
 最初に私は、唯物史観・社会主義はイデオロギーだが『資本論』は科学だ、という宇野弘蔵の考えを述べた。私も基本的にそう考えていたのだが、二〇世紀の末に、考えが変わった。『資本論』は商品の交換から出発して、全体系に及ぶ。私はそれと同様に、ただし、別のタイプの交換から出発して、共同体、国家、宗教、社会主義などを科学的に把握することができると考えるようになった。私はそれを『世界史の構造』などの著書で示した。とはいえ、それは結局、マルクスが開示したことを受け継ぐものである。=朝日新聞2018年6月9日掲載