疎外された「子ども」の歴史 「日系アメリカ人強制収容」早わかり
記事:白水社
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戦争がカリフォルニアから私たちを追い立てた。この砂漠の湖に今日さざなみは立たない。
(ネイジ・オザワ)
第二次世界大戦中に行われた日系アメリカ人の強制収容は、アメリカ史における、外国人同然シティズンシップ構築、そしてそのことがもたらした結果の究極の事例である。アメリカ合衆国政府は、日系アメリカ人から公式に市民権を剝奪したことはないが、実質的にシティズンシップを無効化したのである。ただ一つの理由は人種の違いであった。アメリカに暮らすすべての日系人と日本人は、人種ゆえにアメリカに対して不忠実であると、政府は決めてかかった。そして、12万人の日系人を太平洋岸から立ち退かせ、内陸部の10カ所の収容所に移したのである。その3分の2はアメリカ市民であった。1942年3月、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン各州西部の電信柱に、「外国人、非外国人を問わず、すべての日系人」の立ち退きを命じる軍の命令が貼られた。「非外国人」とは、8万人の日系アメリカ人はアメリカ市民であるという事実を消し去ろうとするレトリックであった。今日では、この行為はレイシャル・プロファイリングと呼ばれるが、1942年当時、「ジャップは所詮ジャップだ」と言われたのである。[…]
強制収容は「ジャップは所詮ジャップである」という、単純な人種主義に基づくものであった。しかし、戦時転住局(War Relocation Authonity=略称WRA)による収容所運営のなかで、そのような人種論理は複雑なものとなった。戦時転住局の職員は、すべての日系人がその人種ゆえにアメリカに不忠誠であるとは考えていなかったのである。戦時転住局の政策は、慈悲深い同化の一種であった。文化的同化を日系アメリカ人の忠誠心を測る指標とするとともに、文化的同化を通じて忠誠心を涵養しようとしたのである。
こうした文化と忠誠心の混同は、アメリカ史において新しい現象ではなかった。たとえば第一次世界大戦中、戦時ナショナリズムの圧力下で、ドイツ系アメリカ人はアメリカ合衆国への忠誠を証明するため母語や宗教・文化的慣習を捨てるよう求められた(先述のアール・ウォーレンの「コーカシアン」の忠誠に対する先入観は、ヨーロッパ系アメリカ人のエスノレイシャルなアイデンティティが、戦争経験による同化を経たものであること、構築されたものであるという歴史を無視していた)。そして、第二次世界大戦中には、日系人も同様に同化を強要されたのであるが、シティズンシップの無効化と強制収容というまったく異なる状況に置かれてのことであったのである。
戦時転住局は、内務省のもとに設置された文民機関である。初代局長ミルトン・アイゼンハワー、後任のディロン・マイヤーはともにニューディールリベラルであり、農務省の出身であった。アメリカからすべての日系人を排除しようとした、あからさまな人種差別主義者やネイティヴィストと異なり、戦時転住局のリベラル派は、自分たちは人種差別主義者ではないと考えていた。そればかりか、戦時転住局の責任者であったニューディール派は、戦争下の不幸な出来事を積極的な社会的善へと転じる機会と捉えていたのである。大規模な社会工学の可能性を楽観的に信じており、収容所を「計画されたコミュニティ」や「アメリカ化プロジェクト」として思い描いた。そして、収容所における民主的自治、学校、労働、そのほかの娯楽活動を通じて、日系人の同化を促進できると考えたのである。日系人強制収容所とナチスの収容所を比べ、戦時転住局の関係者は、「コミュニティ建設」は、アメリカの民主政治を「皮肉にも証明」すると信じていた。しかし、何より皮肉であったのは、戦時転住局の同化主義こそが、忠誠登録質問票、隔離、市民権放棄という、強制収容におけるもっとも悲惨な経験と火種をもたらしたのである。
同化主義的な考え方は、そもそもの人種主義的な前提からして誤っていた。戦時転住局は、日系人を、民主主義について教化される必要のある人種化された子どもとして見ていた。日系人を子ども扱いしたことは、アメリカ政府がフィリピンの植民地住民やアメリカ先住民を、まだ民主制下のシティズンシップを享受するには早い、保護するべき被後見者として見なしたことと同様であった。このような観点からは、日系アメリカ人のシティズンシップを無効にすることは同化計画に欠かせなかったのである。
フィリピンと先住民居留区同様に、戦時転住局の同化主義者は、伝統文化は自由主義的シティズンシップの妨げであると考えていた。具体的には母語の使用、親族構造に基づく上下関係、そのほかの文化的後進性の現れに批判的であった。日系人に対する文化的同化への圧力は、その忠誠心を問う考えと一体になっていた。リベラルは日系人の社会的地位を文化的に読み解き、日系人のなかでも特定の「タイプ」が不忠誠である傾向があると考えた。たとえば、アメリカ生まれでも教育は日本で受けた「帰米」や、「未同化者」や「ジャパニセイ」と呼ばれた仏教を信仰する二世である。
しかし、文化と忠誠心は常に混同されていたわけではなく、ときに方針の矛盾が露呈した。たとえば、戦時転住局は信仰の自由を公式方針に掲げていたが、当局は、天皇を崇拝する神道を信仰する者に対して疑念のまなざしを向けていた。運営責任者は、娯楽には非介入の立場をとり、日本式・アメリカ式の娯楽をともに認めた。しかし、仕事、学校、自治というシティズンシップの最重要領域については、戦時転住局の方針は明確に同化主義的であったのである。
慈悲深い同化の思想に染まった戦時転住局の関係者は、その本質的に強制的な性格を認識せず、日系人は改良計画に協力または歓迎すると考えた。そのほかのリベラルは、強制収容に大賛成とは言わないまでも、日系人が収容所内でアメリカ人性を証明することに期待した。たとえば、写真家アンセル・アダムスは「剝き出しのバラック生活における、最初の日々の、押し合いへし合いと埃まみれの混乱のなかで、日系人は民主的な内部社会を築き、称賛すべき個人的適応を示した」と記した。さらに、アダムスは、マンザナールの地形は民主制に適した地であるとして、「壮大な眺めと、太陽・風・土地の厳しい現実が、アメリカの広大さと機会を象徴するのだ」と述べている。
もちろん、過酷で荒涼としたマンザナールをはじめとする収容所を耐え抜いた日系人たちは、自分たちが自由を奪われていることを忘れたことはいっときもなかった。実のところ、戦時転住局の同化主義的なプログラムは収容所内での軋轢や衝突の原因であり、さまざまな事件は、人種主義的なパターナリズムの限界、そして民主的な収容所など不可能であることを示している。さらには、日本に対するナショナリズムを抱く者がいたことや、収容者のあいだでも忠誠心は分かれていたことを物語るのである。ここで言うナショナリズムとは、日本への政治的支持と、出身国への文化的親近感を示す文化ナショナリズムを指す。多くの日系人は、日本の軍国主義を自覚的に政治的に支持していたというよりは、文化ナショナリストであった。しかし、文化ナショナリズムはときに複雑であった。たとえば、天皇への敬意のように文化ナショナリズムも政治的側面を持ったからである。他方、日本を支持する場合も、それは人種的なプライドの表現やアメリカの人種差別への抵抗であり、必ずしも政治信条ではなかったのである。
強制収容された日系人のほとんどは戦時転住局による同化プログラムを心から信じていたわけではなく、学校や仕事の提供といった自分たちが望みに沿う部分だけを選択的に活用したのである。逆に、調査や家族相談など、得にならないと考えたプログラムに対しては無視や抵抗を示した。もっとも特筆すべきことは、多くは戦時転住局の「自治」戦略を拒絶した点である。収容所では区画ごとに選出された代表から成る「コミュニティ協議会」が自治を担うことになっていた。戦時転住局は、アメリカ市民のみで協議会を構成し、会議はすべて英語で行うという方針を立てたが、これは年長世代に対する侮辱と受け止められたのである。一部の収容所では選挙をボイコットした。コミュニティ協議会の委員を務めたのは、JACL関係者か、同化主義的傾向を持つ人びとだった。他の収容者は彼らを親政府派と批判し、政府との内通者や協力者であった人びと、あるいはそう疑われた人びとを「イヌ」と呼んで除け者にした。一方、一世は、戦時転住局が作った仕組みとは異なる指導体制や自治制度を築くことで権威を保とうとした。
広い意味において、収容所の日常生活では、日本的な文化と政治、アメリカ的な文化と政治が同居していた。余暇や娯楽は2つの文化にまたがり、生け花、ソックホップ〔20世紀半ばに流行した、靴を脱ぎ靴下で踊るダンスパーティ〕、囲碁大会、クリスマスツリーの切り出し、野球などが楽しまれた。ツールレイク収容所では、もっとも苦しい日々でも毎日野球が楽しまれていた。リンカーン大統領の誕生日、ワシントン大統領の誕生日、昭和天皇の誕生日はすべて重要であった。戦没将兵記念日には戦死したアメリカ人兵士を、天皇誕生日には日本人兵士を追悼した。無論、これらの行事の参加者は分かれていたが、両方を大事だと考え、どちらにも参加する者も一部にはいた。また、収容所を去る人びとには、送別会が各区画で開かれた。去る理由は、入隊、日本への帰国、シカゴへの転居、「不忠誠者」が隔離されたツールレイクへの転住とさまざまであった。こうしたパターンからは、単にアメリカのナショナリズムと日本のナショナリズムが共存していただけではなく、多くの収容者は政治そのものよりはエスニック集団としての団結を重視していたことがわかる。その一方で、立場の違いにかかわらず、政治色の強い収容者は「柵の上に座っている者(日和見主義者)」を批判した。親日派のナショナリストは、「やつらは、どちらが戦争に勝つか柵の上で様子を見ている。アメリカ人が勝てば、アメリカ人になる。日本が勝てば、日本人になる。そんなやつは、どんな国にとっても役立たずだ」と非難した。
もちろん、収容者が自ら組織化するには限界があった。第一に、戦時転住局は収容者と交渉する必要はなく、最終的には軍の力をもって言うことを聞かせることができたのである。第二に、収容者は、自分たちが民主的に決めたことであっても、それを守らせるための力を持たなかった。たとえば、アーカンソー州のローワー収容所では、陸軍のための迷彩素材を製造する近隣の工場で働くべきか話し合いがもたれた。投票の結果、収容所の食糧生産のためには働くが、軍を助けるような仕事はしないと決議された。しかし、にもかかわらず、多くの収容者は工場に職を求めたのであった。
この例は、政治と現実の生活に緊張関係があったことを物語る。収容所内では、戦争についての議論や政治論争がいたるところで行われていた。とりわけ、あれこれ口出しすることが日常であった、一世の男性は政論を好んだ。しかし、収容者たちが外部からのニュースや噂を知りたがったのは、政治状況の展開が自分たちの将来にとってどのような意味を持つのかという、生活に密接した現実的な関心からであった。多くの日系人は、終戦後は集団で日本に追放されるか、仮に強制的に日本に送られなかったとしても、憎悪の対象となっているアメリカで暮らし続けることは不可能だと考えていたのである。そしてこれらは日本とアメリカのどちらが勝利しようとも起きうるシナリオだった。同時に、多くの日系人はアメリカにとどまることを望んでいた。アメリカはいわば養父母であり、子どもにとっては生まれ育った母国であった。日系人たちはアメリカで生活を築いており、財産を犠牲にしたくはなかった。たしかに、日本に帰国するため、あるいは西部以外の地域に転住するために、戦争中に収容所を去った日系人もいた。しかし、ほとんどの日系人は終戦まで収容所にとどまることを望んだ。平和が訪れるまで待ち、選択肢を広げたかったのである。このような現実主義的な戦略にとって、2つのナショナリズム、2つの国への忠誠のバランスを保つことが必要だった。しかし、1943年の初頭に戦時転住局が、すべての成人に対してアメリカへの忠誠を確かめるために、長大な忠誠登録質問票への回答を求めたことで、その努力は危機に面することとなった。
【『「移民の国アメリカ」の境界 歴史のなかのシティズンシップ・人種・ナショナリズム』「第五章 第二次世界大戦中の日系アメリカ人強制収容と市民権放棄」より抜粋】
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