「人種」「民族」は社会的に創られた概念 教育によって解体する
記事:明石書店
記事:明石書店
私は「黄色人種」だと思っていた。いつからそう思っていたのかはわからない。中学1年か2年生の頃、父親が見守る中、鎌倉の八幡宮への参道で、絵を売っていた外国人と話したのが「白人」との出会いだった。「白人の絵描きさん」と拙い習いたての英語で話したことが嬉しかった記憶が今でもある。
外国人に興味が強かったのか、中学高校時代にはオーストラリア人の同い年の「白人」の女の子と5年ほど文通をし、大学に入りフィリピンからの留学生のチューターをしたり、ソウル大学の男子学生と文通をしたりした記憶がある。何かの機会に「黒人」女性と話し、肌の色やプロポーションを見て「かっこいい、美しい」と思った。自分にはその時、「人種」の感覚はあまりなかったが、何かしらの区分はすでに出来上がっていたように思う。
大学3年の時、シアトルにホームステイに行き、「白人」コミュニティに身を置き、初めて自分が「アジア人」、より明確にいうならば「黄色人」であることを理解した。アメリカで移民の歴史に興味を持ち、日本人移民、日系人のことが学校教育でどのように教えられているか調べ始めた。そこで出て来た用語が「黄禍論」、イエローペリルであった。私は自分が「イエロー」なのだという感覚が強くなった。白、黒、黄色という思考の枠組みになんの疑いもなかった。
その後、大学を卒業し教職に就いた。日系人やアメリカ先住民の歴史や経験を追っていると、「人種差別」という言葉に何度も出会った。だんだんと、「人種」「民族」「先住民」といった言葉への気づきが高まった。ある時、学校に配属される英語のALT(Assistant Language Teacher)が、日系、アジア系が多いのが気になり、その理由を何かの研修の時に聞くと、「白人より肌の色が近い方が馴染みやすいし、黒人は人気がないから教育委員会が契約しない」とのことだった。衝撃だった。その「人種差別」の感覚に憤りを覚えた。
その頃から、「黒人」とくくる考え方に怒りを覚えるのならば、自分を「黄色人種」と認識する自分そのものも矛盾をしているような、モヤモヤした感覚が強くなって来た。では自分は何人種なのだ、と考えると、やはり「黄色人種」だった。
そのモヤモヤを吹き飛ばした本が、竹沢泰子編『人種概念の普遍性を問う―西洋的パラダイムを超えて』(人文書院、2005年)であった。「人種」は概念であり、生物学的な実体は存在しない―。ようやく、「人種」の本性をつかめた気分だった。勉強不足な自分、教育業界の遅れを恥じた。
一方で、メディアでは「黒人初の〇〇」「黒人差別」といった言葉が毎日ように使われる。「人種」はなくても、人々の日常や思考には存在する。日本の教科書、教師の言動、児童生徒の言動にも「人種」は現れる。教育活動を通してなんとかしたい、と強く思うようになった。それから15年が経ってしまった。この問題に関心を持つ仲間と出会い、少しずつ議論を重ねて来た。小学生、中学生、大学生に調査をすると大多数が、「人種」はあると認識し、「白黒黄」にとらわれていることがわかった。多文化共生を教える学校教育の現場から人をめぐる認識を変えていかないと、日本社会の認識は変えられないのではないか、とも考えた。
「どう教えるか」を示すことで、教師のアンテナに引っかかり、教育実践に反映させることができる。そこで、海外の先駆的な授業実践を紹介し、どう教えたら良いか、という授業プランを構想した。そして問題意識を児童生徒に授業を通して考えさせることとした。しかし、そこには正義を振りかざすだけでは授業は行えない現実があった。すでに日本の学校には外国にルーツを持ち、多様な外見の児童生徒が在籍している。「人種」差別問題に関わる当事者を前に、この問題を投げかかけるためには覚悟が必要であった。そうしたことを乗り越えて、実際の授業の様子や学習者の反応も本書に収めることとした。
新型コロナウイルス感染が広がると、世界各地で「人種」差別がおこった。時期を同じくしてアメリカではBlack Lives Matterの運動が展開された。日本では「黒人」差別問題として話題になったが、日本の社会にも関わる問題として強い反応は起こらなかった。「人種」について教育を通した改善を訴えるのは今しかない、という強い意思で、本書の原稿をまとめた。本書では、「人種化」というプロセスにも注目している。「人種化」は「人種」問題に疎い日本社会でも起こりうる。
新型コロナ感染の拡大により社会が疲弊する中でこそ、批判的思考力をもつ子どもの育成を願って。