柳田國男が使いにくいと文句を垂れた「明治時代の地図」の魅力 ITと手作業で『幕末明治大地図帳』に再編集
記事:平凡社
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この『幕末・明治歴史大地図帳』と題された本書は、明治17(1884)年から26(1983)年にかけて作られた『輯製二十万分一図』(以下、「輯製20万図」と記す)をベースに、あたらしく編集をした地図帳である。
「輯製(しゅうせい)」というのは、現在ではあまり使わない言葉だが、「編集によって作られた」という意味である。測量による地図は、すでに伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』が1821年に完成していたが、これは、地図の表題通り、「沿海」つまり海岸線を中心とした地図であり、そのほかには、主要な街道沿いの情報しかなかった。
当時の日本は、西南戦争で、武力では圧倒的であった幕府軍が、九州に地の利をもつ西郷軍に手を焼いたという経験から、軍事的にも、できるだけ正確な日本全図が必要とされていた。しかし、日本全体の様子を知るには、先の伊能図だけでは内陸部が分からない。
そこで、参謀本部陸軍部測量局(現在の防衛省に相当する兵部省の一部で、のちの国土地理院の前身の一つ)は、海岸線は伊能図をベースにしつつ、幕府によって作られた『天保国絵図』(1838年)や府県所蔵の地図資料、内務省地理局・地質調査所・海軍水路部などの資料を使って内陸部の情報を補い、日本全図、すなわち「輯製20万図」を製作した。この制作方法こそが、「輯製」なのである。
この手法によって、たったの9年間という短期間で、日本全体を表すものとしては最大の縮尺(当時)の地図が製作された。
柳田國男が、「地名の研究」(明治45年~昭和8年ごろに書かれた)の中で、「輯製二十万分一図には明治以後の新大字が、小判形の中に書き加えてあって、小円形の旧村名と重複したものが多く、旅行の際などにしばしば迷わされた」と「輯製20万図」へのクレームを書いている。この文章から、昭和初期まで実際にこの「輯製20万図」がよく使われていたことが分かる。柳田は、この地図を実用に使い、旅行の計画などを立てていたが、村の位置などが不正確であり、かつ新旧村名の重複などがあり、不便をしたのだろう。しかし、柳田が不便だと文句を垂れた「旧村名」の記載こそが、この地図の面白みである。明治期に作られた地図の本のタイトルに、あえて「幕末」と謳った由縁も、ここにある。
つまり、この地図が作られたのは、日本で市制町村制が確立される明治22(1889)年の直前であることが重要で、この市制町村制によって、7万余りあった村が、39の市と1万5000余りの町村に整理された。要するに行政地名の数が5分の1になった。この「輯製20万図」は、この市制町村制が施行される直前に大部分の図が作られた。そうだからこそ、明治に作られた地図とはいえ、まだ幕末の雰囲気を濃厚にもった日本の姿をうかがい知ることができるのだ。
今回の地図帳の制作にあたっては、「輯製20万図」について、まず1枚1枚の地図を色鉛筆をなめなめ詳細に読図し、図郭から再検討した。その成果をベースに、Adobe Illustratorで着彩。それと平行して、上記の検討の成果としてできた新しい図郭ごとの地図データをArc GIS(Geographic Information System)に読み込んで、索引をとるための補助線(グリッド)を地図上に引いた。この時点で、地図はたんなる図柄ではなく、位置情報をもったGISデータとなっている。そのグリッドを頼りに索引を一つひとつ手作業でExcel上に採取した上で、Pythonで書いたスクリプトで索引配列用の読み振りや整理・集計をした。全体のレイアウトはInDesignで行った。これは、強弁すれば、「輯製20万図」のデジタル・リマスター版を作ったとも言える。
これらの作業よって、オリジナルの「輯製20万図」にはなかった、現代風の地図帳としての新たな利便性を「輯製20万図」にあたえることができた。ただ、制作にかかった工数がかなり多くなってしまい、少々高価な本となったが、歴史に興味がある方は、ぜひとも一度手に取って、ご自分やご家族が生まれ育った場所を探してみてほしい。「ああ、そうだった!」とガテンのゆく発見があることを請け合う。