違うって面白い。――横浜(koko):「外国につながる」ではひとくくりにできない中高生の作品集
記事:明石書店
記事:明石書店
「横浜」と書いて「KOKO」と無理やり読ませるようになっているこのタイトルの「KOKO」とは、「此処」に住む「個々」の視点という意味が含まれる。
この写真集には、2016年から2020年までの「横浜インターナショナルユースフォトプロジェクト」という、様々な国につながる10代のための表現活動としての写真プロジェクトで生まれた作品が収められている。
制作は昨年のコロナ禍の中で始まった。過去のプロジェクト参加者で、現在、大学生や高校生の有志達と、外国人支援者や図書館司書、本業界に携わるおとな達が、企画の段階から意見を出し合った。
編集委員となった若者達との最初の企画会議で、どんな本にしたいかと思いを出し合った際、とてもポジティブな言葉ばかりが並んだ。そんなナイスな若者達を見てふと思った。多文化共生社会の構築を、なんとなくだが、外国につながる子どもというだけで担わなければいけないと感じているのではないだろうかと。
その数年前のプロジェクトで写真を撮っていた時の彼等は、もっと自由に表現していた。たった数年おとなに近づいただけで、彼らの自由の芽は摘まれてしまったのか。日本の教育に対しての脅威まで勝手に思いを巡らせたほどだ。
そこで、「みんなナイスなことばかり言うけど、この本は不特定多数の人が見るし、日本の社会に向かって言いたいことが言える機会として利用していいんだよ」と言ってみた。プロジェクトに参加した時、「あなたにしか撮れない写真とは」と問われたことを思い出してほしい。この本を通して、あなたにしか伝えられないことを伝えたらいいと。
そこから少しずつ本音が出はじめた。「会う人会う人に、どっから来たのかとか、日本語うまいねって言われるのがウザすぎる。」「いちいちそんなのに対応しなきゃいけないのって面倒だよね。」
でもいわゆる一般の日本人からしたら、そのような個人情報を知ることで、その後、その人に対して失礼がないように振る舞えるというのも事実だろう。ただ、言われる側にとっては、いつまでそんなことの繰り返しが起らなければいけないのかと思わずにいられない。彼らはただ、見た目の向こうにいる「人」に目を向けてほしいだけなのだ。これは、私自身も、20数年間日本の外で外国人として暮らした中で日常の出来事だったので、彼らがウザいという思いが身に染みた。
この本の最後に、編集にかかわった若者達のうち6名がエッセイを書いている。その中でプロジェクトに参加してきた数少ない「外国につながらない中高生」を代表するかのように、真梨乃さんが書いたことが、編集委員一同がこの本にかけた思いを表していると思ったので紹介したい。
写真は撮影者の顔が見えない分、より内面的な部分に目を向けられるのではないだろうか。この写真集を通して「相手を知る」とはどんなことなのかを考えるきっかけにしてもらえれば嬉しいと思う。
横浜(koko)の作品が生まれた「横浜インターナショナルユースフォトプロジェクト」は、2016年から様々な国につながる中高生(日本も1つの国として捉えるので、日本人の生徒も時々いる)を集め、8月の終わりから12月の上旬まで、月2回のペースで8回ワークショップを行い、1月の写真展に出す作品を一人2点ずつ制作する。
このプロジェクトを始めるきっかけになったのは、2015年に川崎で起こった中学1年生の殺害事件だった。殺人に関与したのが外国につながる10代の若者だったことを知った時、加害者となった彼らがそのままの姿でよしとされる居場所があったら、こんな事件は起こらなかったのではないかと思った。そして、外国人として長らく生き、犯罪被害者になった経験のある私にとってこの事件は、誰かの怒りが暴力となって弱者へ向けられる構図そのものとして映った。
誰かの怒りの犠牲になるなんてとんでもない話だ。どれだけ多くの人が今まで自分とは関係のない人の怒りのせいで犯罪被害者となったのか。そして、これからもどれだけの人に、他人の怒りが暴力となって襲いかかってくるのか。そんな思いを巡らせているうちにふと、暴力の加害者になる人達は、怒りの表現は暴力以外でも可能なことを知らないのだろうと思った。
そうであるなら、人は小さいうちからいろんな表現方法を身につけたほうがいい。誰もが、どんなことをきっかけに深い怒りを抱えることになるのかわからないのだから。今日は平和でも、明日どんな理不尽な経験をするかはわからないのだ。
爆発しそうな怒りを、絵、ダンス、音楽、詩、写真、執筆、スポーツ等、その人ができることで表現できると知っていれば、暴力を使う必要はない。
私にとって写真とは、自己肯定感の低かった私自身の内なる声を見出すことを手伝ってくれた恩人だ。嬉しい時も悲しい時も表現することを許してくれたのも写真だ。人生のどん底を経験した時も、そこから立ち上がるきっかけをつくり後押ししてくれたのも写真だった。今の私がいるのは写真と出会ったからだ。
アメリカの新聞社で専属フォトジャーナリストとなった時、写真はニュースを伝えるツールとなり、時には被写体となる人の思いを代弁するツールとなった。そしていろんな経験を重ねるうちに、写真に関する倫理と方法論を掘り下げ、写真家でない人も自分の思いをビジュアル化するツールとして用いることができるよう教える側になった。
2016年から2020年まで、約60人の中高生が参加した。表面上暴力的な子は誰もいなかったが、内に秘めているものまではわからない。だからプロジェクトのワークショップでは、いろいろなテーマで写真を撮らせては、その写真について本人が語ったり語らなかったりを繰り返す。そうやっているうちに、彼らの世界、特にどんな環境で暮らしているのか、どんな友達関係にあるのか、その子がきれいだと思うもの、嫌いだと思うもの等が写真から見えてくる中で、彼らの内なる声も聞こえてくる。
中高生のワークショップでは、時々とてもきれいな横浜の夜景を自慢げに見せてくれる子もいるが、「こういうのは同じ場所に行けば誰も撮れる」という評価しかされない。ワークショップでフォーカスするのは、参加者それぞれにしか撮れない写真だ。
「あなたにしか撮れない写真はどんなものだろう」と繰り返し問われる中、中高生達は自分らしさや、自分の住む世界を写真で見せてくれる。お父さんが台所で野菜を切っている写真は、何の変哲もない風景かもしれないが、かけがえのない存在を見る作者のまなざしが見て取れる。
黄色い花の写真の中で唯一ピントが合っているのは、一番後ろに半分隠れた小さな花だ。ワークショップでは友達の後ろから様子をうかがっているようだったその作者をよく表しているようだった。そうかと思えば、同じ作者の別の写真には、力強いドラゴンのような雲が写っていて、おとなしそうに見えたその子の本当の姿を垣間見せてもらえたようだった。
中学1~2年生の作品は面白い。意図せず彼等自身がよく写り込む。公園の池に反射している雲のすきまに鯉が隠れるように泳いでいたり、根から引っこ抜かれた花を見て「落ちても完璧」だと思っていたり、水に映る柵によりまるで鯉が檻に入れられたような様子も、思春期真っただ中にある彼等だから撮れた作品だ。
高校生になると、今度は言いたいことがはっきりしてくる。一羽だけで平気な顔をしていた鳩が自分と重なったという「影と一匹狼」、窓が写る「自由」という作品は、不自由を感じた自国から日本に戻った時、この窓の外にいつでも出て行ける自由が自分にはあるんだと思った時に撮ったものという。「ライト一つに100のジレンマ」は一つの光(進路)に向かって進む時のジレンマを語っていたり、鳥の糞が鳥の形をしていたり。
最後に収められたエッセイの一文を借りて終わりたい。
この写真集を通して、「違う」ということが社会に豊かさを与えることを感じてほしい。
違いは面白い。でも面白がるだけではなく、誰もが「違う」ことに自信をもってほしいと願う。「違う」ことが怒りへと変わらないように。