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18世紀イギリス人の大陸欧州フィールドワーク ――音楽、社会、文化、そして人々

記事:春秋社

 およそ250年前の西暦1770年6月7日、ひとりのイギリス人がドーヴァー海峡を渡り、大陸ヨーロッパの地を踏んだ。12月24日にふたたびドーヴァーに戻るまで、実に6か月以上に及ぶフランスとイタリアを巡る長旅の始まりである。

 旅の目的は、今でいうフィールドワーク。当時イギリスにとって音楽の本場であったイタリアに赴き、当地に息づく音楽と音楽の歴史を自身の目と耳で調べにゆくことであった。

 これがちょっとした貴族の家柄の子息であれば物見遊山の蕩尽旅行、いわゆる「グランド・ツアー」となるところだが、1726年生まれのこの人物はこの時すでに44歳、しかもオックスフォード大学で「音楽博士」の称号を得るという異色の経歴まで持っていた。

 チャールズ・バーニー。18世紀の西洋音楽に関心があれば、この名前に出会った回数はおそらく一度や二度ではないだろう。逆に、クラシック音楽にそこそこ造詣が深くても、この名前に馴染みのない人も多いかもしれない。もともとはオルガン奏者として身を立てながら、持ち前の知識欲から音楽通史の執筆を企てたバーニーは、このフランス・イタリア旅行と2年後のドイツ方面への旅行(後述)を敢行して厖大な資料を収集し、その知見をもとに全四巻からなる浩瀚な『音楽史』を著した人物である。

フィールドワークの成果――音楽だけじゃない『音楽見聞録』

 『チャールズ・バーニー 音楽見聞録〈フランス・イタリア篇〉』は、その旅日記をまとめたものである。日ごとの足取りとともに、旺盛な知識欲と鋭い洞察力に裏打ちされた情景描写や考察から、現地のひとびととの人間味あふれるやりとりに至るまで、臨場感いっぱいに記されている。

 この旅行の主たる目的であった音楽については挙げればきりがなくなってしまうが、パリではオペラやコンセール・スピリテュエル。イタリアでは、過去数世紀にわたり輝かしい経歴の音楽家や作曲家を輩出してきたヴェネツィアやナポリの音楽院。かつてロンドンのオペラ界に君臨し、いまやボローニャに隠棲する伝説のカストラート(変声期前に去勢した男性歌手)、ファリネッリ。ボローニャではほかにも、碩学マルティーニ神父や、おりしも父レオポルトとともにイタリアを訪れていた当時14歳のモーツァルトとも邂逅している。そしてなんといってもカトリックの総本山、ローマのヴァチカンの図書館に眠る貴重な史料の数々。さらにはミラノやフィレンツェでの史料さがしにフィレンツェやナポリでのオペラ鑑賞など。バーニーはイタリア各地に散らばる西洋音楽の源泉(ルーツ)を求め、いっぽうではあらゆる時代の音楽に関する資料や証言を掘り起こし、もういっぽうでは目の前で演奏される最新の音楽を味わいつくしたのであった。

 他方、当時を代表する思想家であるルソーやヴォルテールとの会見はもとより、法学者ベッカリーアや天文学者ボスコヴィッチ、高名な女医ラウラ・バッシなど当時のイタリアで高名だった学者との邂逅、ほかにもナポリのイギリス公使ウィリアム・ハミルトンと意気投合し、噴煙を上げるヴェズヴィオ山の火口ツアーに出かけるなど、幅広い教養をもったバーニーの博覧強記な側面も見逃せない。「グランド・ツアー」の定番であるルネサンス美術の鑑賞や古代の遺跡見物も彩りを添える。バーニーは興奮気味にフィレンツェのウフィツィやローマ各所の美術品の数々を列挙しているが、調べてみるとその多くが250年経った今でも変わらず展示されていることがわかって興味深い。

 そしてなんといっても乗合馬車での道中の様子や、運賃を巡るトラブル、宿泊先のまずい飯や不潔な寝具に、悪天候に見舞われた災難など、旅の臨場感あふれる描写も魅力的でたまらない。

「あなたは、ここに来るのが五十年遅すぎましたね。」

 フランス・イタリア旅行の2年後、バーニーは1772年の7月から11月にかけて、今度はドイツ方面にも足を伸ばす。フランス革命前、まだ「神聖ローマ帝国」がかろうじて命脈をたもち、ウィーンのハプスブルク家を筆頭に諸侯が宮廷音楽文化を競い合った名残をとどめていた頃合い。この旅行後に刊行された『チャールズ・バーニー 音楽見聞録〈ドイツ篇〉』もまた、同じく音楽史執筆のためのフィールドワークの記録には変わりがないが、その道行きは2年前のイタリア旅行の記録とは少々毛色の違ったものとなっている。

 ネーデルラントの諸都市でバーニーの目を引くのは、なんといっても聖堂の巨大なオルガンやカリヨン(鐘楼)だ。プファルツ選帝侯のいるマンハイムやバイエルン選帝侯のいるミュンヘンは、それぞれお抱えの宮廷楽団が腕を磨き、ウィーンは帝都だけあってイタリア人劇作家メタスタージオ、当代きってのオペラ作曲家ハッセやグルックが住み、腕利きの音楽家が集まるいっぽうで、プラハやドレスデンには10年前の七年戦争(1754-63年)の傷跡がいまだ残り、ベルリンも宮廷音楽こそ華やかなれど最盛期の勢いはない。

 バーニーはハンブルクでカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(バッハの末子で、すぐれた鍵盤作曲家)に「あなたは、ここに来るのが五十年遅すぎましたね」と言われてしまう。ドイツの音楽界はヨハン・ゼバスティアン・バッハが世を去ったのが、バーニーが訪れる20年以上前の1750年、若きモーツァルトが頭角をあらわすのはまだもう少し先の話で、ベートーヴェンも当時まだ2歳の赤子だった。斜陽となった宮廷文化と、萌芽をみせる市民社会のちょうど過渡期にあっては、往年の大作曲家や名演奏家の伝記にややスペースが割かれているのもやむをえなかったのかもしれない。

 それでもバーニーの鋭い観察眼はこの〈ドイツ篇〉でもいかんなく発揮され、町に入る際の地形的特徴の描写、華やかな宮殿と寂れた市街地の対比や行き交う人々の様子などが、手にとるように伝わってくる。貧困にあえぐ農村や、劣悪な道路事情に対してときに辛口の批評をくだすのも、道中の社会・風俗をつぶさに観察してきたからこそできたことだろう。

 ときに辛辣なバーニーに、当のドイツ人が黙っていなかった。旅行記がイギリスで刊行されて早々に出されたドイツ語翻訳版には、ドイツの訳者からバーニーへのなかば反論めいた補遺や訳註が山ほどつけられているのだ(本邦訳にもすべて訳出されている)。言葉尻をとらえた難癖にも読める訳註の行間からは、そろりと首をもたげてきた「ドイツ国民」のアイデンティティからくるプライドのようなものがひしひしと感じられ、この〈ドイツ篇〉にさらなる奥行きを与えてくれている。

「私自身、音楽をこよなく愛しているが、それ以上に大切なものこそ、人間らしさである。」(〈ドイツ篇〉p.247)

 バーニーの音楽見聞録は〈フランス・イタリア篇〉〈ドイツ篇〉ともに、1770年頃の大陸ヨーロッパの音楽文化のみならず、当時の社会・風俗から交通インフラの状況にいたるまで、探究心あふれるイギリス人の視点で眺めた貴重なフィールドワークの記録である。〈フランス・イタリア篇〉は700ページを超え、〈ドイツ篇〉も600ページを超える大ボリュームの2冊だが、図版も註も解説も充実した本書で当時の旅路を追体験するもよし、歴史的エスノグラフィーとして考察するもよし、読む人によって、あるいは目の付け所によって違う光景が見えてくるのもまた、著者の幅広い視野と懐の広さゆえんかもしれない。

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