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倫理学は割り切れなさの中で「よく生きる」ためのもの ジュンク堂書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

「よりよく生きる」の内実は一人一人違うもの
「よりよく生きる」の内実は一人一人違うもの

本当に大事なものを選り分ける

 倫理学というと、善悪を判断するもの、道徳的な生き方を志すためのもの、という窮屈なイメージを持っている人が多いのではないかと思います。

 何か倫理学的な問題を考えるにしても、例えば思考実験などでよく挙げられるトロッコ問題という、こちらを選べば5人は助かるが1人は死んでしまう、もう一方を選べばそれの逆になる、さて、あなたはどちらを選ぶかという問いがありますが、疑問に感じる人も多いのではないでしょうか。
 どちらが何々主義で、こういう思想に基づいている、と説明されたとしても、それによりじゃあ私はこちらが正しいと思えるのか、と。

 かくいう私もそうやって、善悪についての論争ではなく、もっと自由で明るく、生活に根差した話が聞きたい、と倫理学を避けてしまうのが常でしたが、今回紹介する3冊を読んで、倫理学こそが自由に向かっていくための、また私たちの生活に寄り添う学問なのかもしれないと思ったのです。
 きっかけは、平尾昌弘『ふだんづかいの倫理学』(晶文社)を読んだことでした。

 著者によると、倫理学の仕事とは、この世界に流布するさまざまな倫理や道徳を整理することにあると言います。その中には、個人の人生論や、思い込みや言い伝えなどさまざまなものが混じっているからです。ことわざにも「渡る世間に鬼はない」というものがある一方、「人を見たら泥棒と思え」というものがあるなど、その人が信じる倫理や道徳はそれぞれ違うものです。だからこそ倫理学は必要で、本当に大事なものとそうでないものを整理する役割があるのです。
 私たちは「これはしてはいけない」ということを言われたり考えたりして生きていますが、本当に必要なものならばそれには明確な理由が必要です。それがなければ単なる押しつけであり、取り除くことが倫理学の仕事なのだと著者は言います。その上で残ったものにならば納得して従うことができますし、それは余計な強制から解放され、より自由な状態になることです。

それぞれの自由と喜びを見つけるために

 「倫理学は人を自由にする」。この言葉は國分功一郎『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書)にも共通しているテーマです。

 17世紀オランダの哲学者スピノザの『エチカ』が本書では取り上げられます。
 「エチカ」とは倫理学という意味で、スピノザが残した数少ない著作の一つですが、本書はしばしば難解と言われる『エチカ』の新しい手引きとなっています。

 著者によると、『エチカ』が最終的に目指すのは「人間の自由」なのだと言いますが、ここでの「自由」とは制約が全くないという意味のものではありません。スピノザの「自由」とは何か、これには善悪の概念が大きく関わってきます。

 スピノザにおける善悪とは、社会一般に共通する価値を求める道徳とは違って、その人の活動能力を高めるかどうかなのです。自然界にはそれ自体として善い、悪いというものはなく、それは組み合わせにより決まると考えます。たとえば、音楽は、落ち込んでいる時に聞けば元気が湧いてくることもありますが、かえって邪魔になるという人もいるでしょう。音楽それ自体に善悪は無いのです。

 古代ギリシアの時代から、物の本質は「形」だととらえられてきましたが、スピノザは「コナトゥス」こそが本質だと考えました。

 「コナトゥス」とはいわば「自分の存在を維持しようとする力」のことだと著者は解説します。このことは現実に即してもわかりやすく、形が基準であるとするならば、たとえば、男だから、女だからこうしなければならない、という議論につながりますが、個々人により違いがある「コナトゥス」が本質だと考えると、その人の「コナトゥス」に合うものは一人一人違うはずです。それぞれにとってのよい組み合わせを見つけるために実験を繰り返し、喜びをもたらす組み合わせの中にいることこそが、その人がうまく生きるコツであり、それこそがスピノザの目指す「自由」なのだと著者は言います。
 このことからも、倫理学は自由と喜びに結びつく学問だということがわかります。

割り切れなさにおいてこそ意義がある

 ただ生活には喜びだけがあるわけでなく、思わぬ悲しみに遭遇することがあります。このことについて、ここでは、古田徹也『それは私がしたことなのか 行為の哲学入門』(新曜社)を参照したいと思います。

 本書では、こうした例が挙げられます。
 トラック運転手が運転中、全く認知できない茂みの中から子どもが飛び出してきて、その子どもを轢いて死なせてしまった場合、運転手にはどのような責任があるのでしょうか。

 本書では、「行為」について、それが意図的なものか、意図せざるものか、という観点からその内実を解明しています。この場合は意図せざる行為だと言えるでしょう。

 また、道徳的義務、すなわち「すべき」ということはその行為が「できる」可能性があったことが必要であると解説されています。その観点から考えると運転手が事故を回避することは不可能で、道徳的義務はなかったということになります。しかし、運転手は何も悪くない、と私たちは言いきることができるでしょうか。

 著者は、イギリスの哲学者バーナード・ウィリアムズを引用します。周りの人はきっとこの運転手に対して「あなたのせいではない」と思い、慰めるだろう。しかしそのおかげで運転手が「その通りだ、もう気にしないことにするよ」とすぐに立ち直ったらあなたはどう思うだろうか。――そう彼は問いかけます。

 この事例には運の要素が強く、ある程度の法の裁きがあるにしても、それによって運転手の道徳的価値は損なわれません。これは西洋哲学に伝統的な考え方でもあり、私たちもそれを理解することができます。しかし、実際はそのような理屈では割り切れない悲劇がそこにはあります。この場面で運転手が直面するであろう問題というのは、道徳的価値の問題ではなく、「自分の行為によって失われたものに、自分自身がどう向き合うのか」ということでしょう。そして、そのような問題には、その人のそれまでの経験と、「自分がどういう人間でありたいか」ということが大きく関わってきます。

 倫理学が寄り添うべき問題は、そこにこそあると著者は言います。冒頭に挙げたような思考実験においても、そこで決して見逃してはならないのは、どちらがより正しいかの根拠ではなく、どちらの選択肢を選んでも自責の念を持って苦しむであろう実情なのです。 

「倫理学が覆い隠すのではなくむしろ明晰に輪郭づけるべきことは、そうした割り切れなさの中で行為するという、我々の実際の有り様に他ならない」。(p249-250)

倫理学は一人一人に寄り添う

 倫理とは何かという問いに対して、ソクラテスは「よく生きる」ことだと言いました。

 古田さんも述べている通り、倫理学とは文学ではなく学問である以上、その議論は一般性を帯びるものになります。

 また、平尾さんの本にもあったように、数多ある個々人の倫理を整理して、社会に共通する倫理を見つけ出すことは、この社会を安定させるための倫理学の大きな役割です。

 しかし、一方でそれを実践するのはそれぞれの歴史と背景を持ち、独自の倫理を持った私たち一人一人です。倫理学の森に分け入っていくと、それは道徳的に「よく生きる」ことよりも、それぞれの世界で「よく生きる」ことが出発点であったことがわかります。個人に寄り添う学問としての倫理学に、ぜひ一度触れてみて頂きたいと思います。

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