読む人を惹きつけてやまない、シモーヌ・ヴェイユの言葉 吉本隆明著『甦るヴェイユ』より
記事:晶文社
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シモーヌ・ヴェイユの伝説について、ひとつ現在も気にかかっていることがある。もちろんわたしがわたし自身について気にかかっていると言ってもおなじことだ。
トロツキイがスターリンに追われて亡命する途中にヴェイユの家に立ちよる。トロツキイが直接フランスにおける思想的な知友関係にあったのか、父親がそうだったのか、わたしは研究したことがない。わたしが知っていたことは、シモーヌの兄・アンドレ・ヴェイユが代数数論の世界的な数学者だということだけだった。
シモーヌはトロツキイに議論を仕掛ける。彼女はトロツキイに〈ソ連は労働者の国家とはいえない、つまりただの官僚支配の国家にしか過ぎない〉と言う。トロツキイは〈労働者が承認して認めているかぎり労働者の国家〉だと応ずる。シモーヌは〈資本主義の国家だって労働者は政府支配を認めているではないか〉どこがちがうのかと応ずる。トロツキイは〈きみは反動だ〉と言いすてる。
もちろん二人の論戦はもっと複雑で多岐にわたるものだったろう。現在のわたしでも二人の応酬の当時についても、ソ連がすでに解体した現在についてももう少し複雑多岐な註釈をつけることができよう。しかしトロツキイとシモーヌ・ヴェイユの議論と政治思想家としての本質的な分岐点と相違は、それでつくされているといってもいい。
マルクスやロシアのマルクス主義の指導者たちの〈戦争〉についての考え方は、一口に簡単に要約すると次のようになるとおもう。
マルクスは素朴に一般社会の民衆(賃労働により生活している人々)の正義感(倫理感)を基にしてひとつの国家と他のひとつの敵対する国が〈戦争〉をはじめた場合、民衆は弱小な国家を支援すべきだとした。
レーニンとトロツキイのようなロシアのマルクス主義指導者は〈戦争〉がおこなわれたら当事国の民衆(同前)は自国が敗北するように戦うべきだとした。
ロシアマルクス主義の最後の指導者スターリンは〈戦争〉が始められたら民衆(同前)は何はともあれ民衆(同前)の〈大祖国〉であるソ連を守るように戦うべきだとした。
いずれもそれぞれの思想家と指導者たちの実感と実体験を基にした考え方であることはたしかだ。
一言ずつ感想を言えば、マルクスの考えはいかにも思想家らしい。ロシアのマルクス主義指導者たちの考え方は、いかにも政治的実践者らしいといえる。またスターリンの考え方は、いかにも道徳的なもったいは付いているが虫のいいナショナリストの言い草を含んでいて、「いい気になるな」とか「世界の『民衆』をなめるな」とか半畳を入れたくなる。
シモーヌ・ヴェイユはロシアマルクス主義の指導者たちの〈戦争〉にたいする政治理念の導入の仕方の偏りを、根本的には民衆(同前)と同じ地平で賃労働をして生活したことがないから、自己意識を〈政治化〉〈社会化〉した要素を含まない政治意識、社会意識を支持したからだと批判した。そして自分はフランスの一級品の政治学者だったが、本気で一介の女子工員となり、非力のためにまわりの賃労働者たちに迷惑をかけたり、当惑されたり、助けてもらったりした。レーニンやトロツキイがやらなかったことをやってみたかったのだ。
その結果、自分の社会にたいする反抗心や反逆心が増大すると思ったら、かえって従順な気持の方が増大したことに気がついたと述べている。ようするに一般社会の民衆の存在が自己意識の底からわかったと言っているのだ。だからどうしたんだと言いたい人々もいるだろうが、これは政治思想や社会思想にとって眼にみえないが現在でも重要な進歩だと思う人もいるとわたしは考えている。
(『吉本隆明全集25巻」所収、『甦るヴェイユ』「新書版のあとがき」より抜粋)