維新史の再検証から日本の行く末を考える 『明治維新とは何だったのか』
記事:創元社
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鳥羽・伏見の戦いに勝利した勢いで、錦旗(きんき)をひるがえして江戸へ進駐してきた薩摩、長州を中心とする「官軍」を見た江戸っ子たちは、
「江戸はお萩(はぎ)とお芋にやられた」
と、慨嘆した(森まゆみ「幕末の華・彰義隊」『彰義隊戦史 復刻版』平成二十年)。「お萩」は長州藩(城下町が萩)、「お芋」は薩摩藩であることは言うまでもない。
「官軍」の兵士は、つまらない言いがかりをつけては、江戸の町人を斬ったという。
これに対し、「官軍」の権威の象徴である肩章(けんしょう)を専門にする「錦(きん)ぎれ取り」がいて、江戸っ子たちは喝采を送った。「錦ぎれ取り」はそのうち捕えられ、胸のすくような大きな啖呵を切って斬られたそうだが、懐中には五十余枚の錦ぎれがあったと伝えられる(東京日日新聞社社会部編『戊辰物語』昭和三年)。
江戸っ子の、ささやかな抵抗だ。
江戸城から徳川将軍は去って、代わりに京都から天皇が入ってきた。「江戸」は「東京」と改称され、江戸城は東京城となり、さらに「皇居」と呼ばれた。前後して大勢の「お萩」や「お芋」が役人や軍人、警官となって上ってきた。
このように、無粋な西国(さいごく)の田舎武士たちが突然やって来て、自分たちの庭場で威張り散らしたというのが、多くの江戸っ子たちが抱いた「明治維新」の印象らしい。
全部が全部そんな人間ばかりだったとは思わないが、なかには突然権力でも握った気になり、横暴の限りを尽くした「お萩」「お芋」もいたのであろう。
だから江戸っ子の末裔の中には、
「箱根から西の人間は信用するな」
といった教訓が受け継がれていると、ずっと以前にある時代小説の大家から聞いた。
東日本には「明治維新」に対する複雑な思いが、いまなお残っているのである。
歴史は「勝者」がつくるものであり、「明治維新」の場合も、また例外ではない。
たとえば「お萩」は幕末のころ、幕府と戦うのだと叫び続けた。しかし、元治元年(一八六四)七月の「禁門の変」に敗れて「朝敵」の烙印を押された後は、孝明天皇と戦っていたのである。孝明天皇はあくまで幕府の味方である。
二度にわたる「長州征伐」も、天皇のお墨つきがあればこそ行われた。にもかかわらず孝明天皇が崩御し、明治天皇の世になるや「お萩」は復権し、一転して「官軍」となる。
そして編んだ「明治維新」の歴史は、ことさらに「お萩」が旧態依然とした「幕府」を相手に戦ってきたのだと主張した。
いまもって学校の教科書でも、幕府対長州藩の図式は崩されていない。
あるいは、将軍徳川慶喜が大政奉還を行った後、「諸侯会議」を経て新政権が誕生するはずであった。
まず、会議で入札(いりふだ)(選挙)が行われ、政権の代表を決めるのである。
ところが、そのままいくと、慶喜が当選する可能性が高いと恐れた「お芋」たちは会議を開かず、一方的な「王政復古」の大号令によって、新政権を樹立してしまった。しかも慶喜を徹底して政権から排除するという、残忍なやり方だ。
慶喜の怒りは、戊辰戦争へとつながっていく。
学校の教科書では「明治維新」の基本方針のひとつが「万機公論に決すべし」だったとは教えている。しかし、その方針を決めた同陣営の人々によって、「諸侯会議」がつぶされたことには触れていない。
幕府側は政権交代のやり方が、あまりにも公平ではなかったから、「お萩」「お芋」に対して憤慨し、ずっとしこりが残ることになった。
敗者が勝者を恨んでいるという、単純なものではない。
それ以来、天皇側に立った「お萩」と「お芋」たちが中心となって「大日本帝国」を主導していく。
中央集権の「国家」をつくり、西洋列強の外圧から日本を護って独立を維持することに努めた。西洋文明をせっせと輸入しては、富国強兵を推進した。軍人が政治を主導して、歯止めが利かぬまま対外戦争もたびたび行う。
「お萩」と「お芋」が敷いたレールが昭和二十年(一九四五)八月十五日の敗戦をまねき、さらには今日までつながっている。歴史は決して途切れていないのである。
最近は、「明治維新」を疑問視する風潮があるようで、書店の棚にはその種の本が多数並ぶ。
平成三十年の「明治百五十年」を国家レベルで奉賛し、いたずらに美化しようとする、政治サイドの強い動きがあることも関係しているのであろう。
かつて、東日本を中心とする人々の根底に流れていた「明治維新」に対する不信感が、いま呼び覚まされているのかもしれない。
既製の「歴史」を「おかしいのでは」と疑ってみることは大切だ。新しい史料や研究により、「常識」が覆されるのも大いに歓迎したいし、消されがちな「敗者」の視点も忘れてはならない。
しかし、歴史はゴシップではない。どちらが正しく、どちらが間違っているか、といった善悪論でもない。
さまざまな見方があるのは当然だが、何を信頼し、どう判断するかは各人それぞれに委ねられている。
そこで本州最西端の「お萩」と九州最南端の「お芋」が、どのようにして時代の担い手となり表舞台に躍り出てきたのか、どんな国をつくろうとしたのかといった問題を、良質な史料と研究成果を手がかりにたどってみたいと考えた。
「お萩」と「お芋」のお国柄を見ると、近代日本がなぜあのような歩み方をしたのか、理解しやすい部分も多い。
本書は言うなれば、百五十年の間、さまざまに書き換えられてしまった「薩長の明治維新」や「勝者の明治維新」を再検証し、読み直すものである。
これらを正視することで、日本人とは、日本国とは何かが見えてくるのではないか、そして、未来を考える手がかりになるのではないかと思っている。