「盲目とは、単に視覚がないということ、それ以上でもそれ以下でもない」
記事:明石書店
記事:明石書店
目が見えず耳が聞こえない人は、どんな風にコミュニケーションをとるのだろう? 待ち合わせの時、どんな風に呼びかければいい? どうやってかくれんぼを楽しむのだろう? アラスカの氷山に登って滑り降りることはできるの? サルサダンスを踊るためには? バーの喧騒のなかでどうやって話ができるの?
答えは全て、この本のなかにあります。
エリトリア人移民の両親の下に盲ろう者として生まれ、カリフォルニア州のオークランドで普通公立学校に通っていたハーベンさんの物語は、一見すると日本(人)とは全く接点がないように見えますが、彼女の、多少のリスクがあったとしてもこの世界を知りたいと思う好奇心、たとえ手段が限られていたとしても周りの人とつながろうと渇望するさまは、多くの人が共感できるものだと思います。
ハーバード大学卒業の弁護士、という肩書きを聞くと堅苦しく近寄りがたい人物を想像しがちですが、ハーベンさんはユーモアとエネルギーに満ちた女性で、自分の殻に閉じこもらずに周りの人々に手を伸ばしつながろうとする努力を怠りません。ハーベンさんのメッセージとは、エイブリズム(障害者は障害のない人に比べて劣っているとする考え)を取り除き、障害者に対する偏見や思い込みをなくしていこう、障害者が成功するためには、本人が障害を克服しなければならないのではない、変わらなければならないのは周りの社会のほうで、障害を持つありのままの人間が隣に生きている、社会の一員である事実を受け入れることが必要だ、というものです。障害者は一人で何かを成し遂げられない代わりに、他者へ働きかけて目的を達成することに長けています。他者とコミュニケーションをとるための最良の方法は何か、手探りで進みながらまだ誰も通ったことのない道を切り拓いていくハーベンさんは、その最たるものです。大学のカフェテリアのメニューが読めないからメール送信してほしいという要請をしても、「メニューはカフェテリアの壁に張り出されるのだから、その都度誰かに読み上げてもらえばいいじゃないか」と取り合ってくれない食堂経営業者に何度も働きかけて、ついに盲ろう者へのアクセシビリティを勝ち取ったエピソードは、そのほんの一例です。
生まれつきの障害者だけが障害を持ちながら生きる人々ではありません。超高齢化社会へと進む世界では、視覚や聴覚、体力の衰えを感じてからも、長い時間を生きていかなければなりません。人はその人生のいずれかの段階で、レベルの差はあれ何らかの障害を持つことになり、その体で社会に関わっていくためのアクセシビリティを求めるときが来る、とハーベンさんは指摘します。障害者が各種サービスへのアクセシビリティを得ようと奮闘した結果、実は万人に便利なものが生まれたという例はいくつもあります。高齢者や障害者をはじめ、多様な背景を持つ人々を尊重する社会を目指そうとする日本において、本書は多くの人が知りたいと思う答えを提供してくれるでしょう。デジタルコンテンツを障害者が使えるように技術開発企業に働きかけるのも、その活動の重要な一環です。ドキュメント共有サービスの最大手・スクリブド社を相手取った裁判で、そうしたデジタルコンテンツに障害者がアクセスできる権利を勝ち取ったエピソードは、ハーベンさんの活動の中でも象徴的です。このエピソードには、たとえば高齢者がデジタルの壁に阻まれて、オンラインでしか提供されていないコロナワクチン予約ができない、という事態を解決するヒントが含まれています。
ホワイトハウス開催のアメリカ障害者法制定25周年を祝う記念式典で、オバマ大統領に冗談を言って笑わせるなど、ハーベンさんはとかくシリアスになりがちな障害者権利擁護活動を、いとも軽やかにこなしていきます。
騒がしいバーで友人に「どうしてレモネードなんか飲んでるの? お酒を飲まないのは障害者的な何かなの?」と聞かれて「私は目も見えないし耳も聞こえない。これ以上『酔っ払う』なんてことになりたくないの」とすまして答えるなんて、なんとも鮮やかな切り返しではないでしょうか。どうすれば諦めたり拗ねたりすることなく、笑顔で周りを楽しませながら、障害者である自分とその他たくさんの人たちのために活動を続けていけるのだろう、と疑問に思ったら、ぜひ本書を手に取ってください。