盲目のスーダン人が「日本語とにらめっこ」した20年 モハメド・オマル・アブディンさん
記事:白水社
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アブディンさんは目が見えない。生まれたときから弱視だったが、12歳のころには文字が完全に読めなくなった。母国スーダンでは一般の学校に通い、友だちに教科書を読み上げてもらって勉強していたという。努力の甲斐あって名門ハルツーム大学に合格したが、政治情勢の悪化により、大学は閉鎖されてしまった。そんなときたまたま耳にした日本留学の話に飛びつき、彼は19歳で日本にやってくる。
2か月ほど東京で勉強したあと、福井の盲学校に入学。いきなり日本人ばかりの環境で、鍼灸を学ぶことになった。勉強はすべて点字で、最初は漢字の存在すら知らずに、東洋医学の専門用語を覚えていたというから驚きだ。そんな勉強の傍ら夢中になったのが、点字図書館から借りた朗読図書だった。夏目漱石、芥川龍之介、遠藤周作、村上春樹……、周囲に薦められるまま文学作品の朗読テープを借り、耳からの「読書」に励んだ。
19歳までに、教科書以外の本は5冊も読んでいませんよ。だから、非常につらい。つらいと言いますか、なんとも言えない不自由を感じていました。砂漠にいるみたいな感じです。でも、この読みたいのに読めない時期があったからこそ、文字への、文字というより文字で書かれた中身なんですけど、読むということへの強い憧れがずっとあったわけです。日本へ来て本に夢中になったのも、そんな背景があったからだと思います。
(『日本語とにらめっこ』P.80より)
一般の日本語学習者の場合、上級者でも文学作品を読みこなすのは難しい。学習の早い段階から小説を楽しんでいたという彼は例外だろう。アブディンさんは、目の見える学習者にとっては、漢字という障壁が大きすぎて読み通せないのではないかと言う。見えない人のほうが漢字の障壁を越えやすいという指摘は、なかなか興味深い。
文学の言葉をたくさん吸収した彼は、次に日本語能力試験を目指すことにした。ボランティアで教えてくれる先生を探すが、視覚障害者を教えようという人はなかなか見つからない。ようやく出会えたのが、彼の日本語学習に大きな影響を与えた高瀬公子先生だ。
高瀬先生は、見えない彼に「漢字の勉強をしよう」と言った。滑りのよい油粘土に割り箸で漢字を書き、アブディンさんに触らせて、漢字の形を教えてくれたという。
たとえば、死亡の「亡」、亡くなるという字を勉強して、これに心を意味するリッシンベンを付けると「忙」。心が亡くなると書いて「忙しい」、「多忙」の「忙」ですね。先生は次に、「亡」の下に「目」を書くと、「盲人」の「盲」だと言いました。目が亡(な)いのが「盲」だと。ぼくはこれを聞いて「目はありますよ、ないのは視力です」と言いました。先生は「ほんとね、この字を作った中国人に文句を言わないとね」と言って笑ってくれるんです。
(『日本語とにらめっこ』P.54より)
見えない自分に漢字の形は関係ない、一つひとつの漢字の意味や読み方が分かれば十分だと思っていたアブディンさんだが、漢字の形を知ったことは、後に大いに役立ったという。私たちは会話のなかで漢字を説明するとき、「××にシンニョウの付いたやつ」とか、「○○のニンベンのないやつ」とか言ったりする。または「大の字になって寝る」とか、「十字型に並べましょう」とか。文字の形が分かると便利なこともあるわけだ。
それでも、アブディンさんが覚えた漢字の形はごく一部。それ以外の漢字は、形ではなく、自分の頭のなかにイメージを作って覚えたそうだ。もっとも、彼は子どものころは少し見えていたので、形のイメージをもちやすかったのかもしれない。生まれつき全盲の人の場合、頭のなかに物の形を思い描くことは難しい。全盲でも漢字を使いこなす人はたくさんいるのだから、大事なのは、やはり漢字の意味と用法をきちんと学ぶことなのだろう。見えない人には、見える人とは異なる言語理解のプロセスがあるようだ。
見える人は、パッと見て、漢字をつまんで見るだけで、この文章は何が言いたいか、だいたい分かるでしょう。でも、それが見えないから、(中略)漢字でないところをよく読み込む必要があるわけです。だから、目の見えないぼくたちは、一般の人より、文章をもっと正確に味わって読んでいるんじゃないかと、ぼくは思います。たぶん、そこは目の見えない人の特殊な言語の領域だと思います。
(『日本語とにらめっこ』P.62より)
アブディンさんの頭のなかでは、漢字は音ごとに分類されている。耳で聞いた音から頭のなかのデータベースを検索し、あてはまる漢字を見つけだすのだ。だから、同音異義語を活用した「おやじギャグ」には自信があるという。あまりに素早く自然に言うので、相手が気づかないこともあるのだが。
そんな言葉遊びを最初に教えてくれたのは、福井時代にお世話になったホストファミリーのお父さんだった。日本語を学ぶ青年アブディンに、お父さんは「バッタがふんばった」とか、「コーディネートはこうでねえと」といった、往年のおやじギャグを次々教えたという。
そのうち弟子のほうが腕を上げたそうだが、いずれにしても、おやじギャグによって日本語でのコミュニケーションが円滑になったのは間違いなさそうだ。学生時代、マッサージのアルバイトをしたときにも、これが役立った。
最初はもう、お客さんの背中も緊張で硬直してるんですよ。そのうち「どこから来たんですか?」、「スーダンです」、「どんな国ですか?」、「日本より数段広くて、数段暑いですよ」とか言ったら、一気に緊張がほぐれて、笑ってくれます。何か、マッサージ師兼エンターテイナーみたいな感じで、けっこうチップをもらいました。
(『日本語とにらめっこ』P.120より)
そんなユーモアとサービス精神に溢れる彼が、当時の「読書」で一番印象に残っているのは、三浦綾子の『銃口』だという。戦時下の物語が彼の経験したスーダンの状況と似ていて、とてもリアルに感じたそうだ。
スーダンの内戦は1983年に勃発し、2005年に和平協定が結ばれるまで20年以上続いた。つまりアブディンさんが5歳のときから、母国はずっと戦争をしていたことになる。現地の事情は日本ではあまり報道されないが、自衛隊の南スーダン派遣ならば覚えている読者も多いだろう。当時は和平協定後の治安回復プロセスにあったが、日報隠蔽が問題になったとおり、戦闘はまだ終わっていなかった。
アブディンさん自身は兵役を免除されたが、バシール政権下で父親が失職させられたり、大学が閉鎖になったりした上に、戦争で多くの友人を失っている。そういった経験が、『銃口』の物語に重なったのだろう。
盲学校卒業後、大学に進学した彼は、スーダンの南北紛争について理解を深めたいと、アフリカ地域研究の道を選ぶ。周囲のサポートを受けながら博士課程まで進み、母校で教員となったのち、いくつかの私立大学で教えた。現在は会社員として働きながら、研究を続けている。数々のハードルを乗り越えながら学びつづける姿勢には、驚嘆というか敬服するしかない。
アブディンさんの自伝的エッセイ『わが盲想』(ポプラ社)をご覧になった方は、彼の日本語の巧みさに驚いたにちがいない。日本語学習の苦労は同書にも綴られているが、どうしたらこんなに日本語が上手になるのか、彼の文章のリズムや独特の表現はどこから生まれたのか、想像するのは容易ではない。
漢字習得の例を見ても分かるように、目が見えないことは、けっして日本語習得にとってマイナスばかりではなかった。見えないことによって生じるハードルもあるが、それよりも、周囲の環境や出会った人たちが、彼の日本語学習に大きな影響を与えたと言える。本書では、そんな学習のプロセスを仔細に語っているので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。
点字ができない時は、文字によるコミュニケーションから隔離されていますから、囚人と同じ気持ちでした。でも、点字ができるようになったら、変なことを言うようですけど、刑務所から出て「自宅待機」になったような気持ちになったんです。自宅待機になると、許可が出た人には来てもらえるじゃないですか。その人たちとだけはコミュニケーションがとれます。点字ができるようになると、それと同じように、目の見えない人や、見えても点字ができる人たちとは、文字によるコミュニケーションができるようになりました。でも、すべての人とできたわけではありません。それが、パソコンが使えるようになったら、もう完全に自由になりました。誰とでも、文字で自由にコミュニケーションをとることが可能になったんです。世界が変わりました。
(『日本語とにらめっこ』P.143より)
本書は、本を読むことすらできなかった彼が、自由に本を読み、文章を書けるようになるまでの苦闘を語ったものである。その苦闘は今も終わっていない。読みたい本が全部すぐに読めるわけではないし、紙の書類はだれかに読み上げてもらう必要がある。本書のための何十時間ものインタビューに同席した私に言えるのは、アブディンさんの日本語力は奇跡ではなく、途方もない努力の結果だということだ。唯一無二の経験を語る彼の言葉から、みなさんが、それぞれに何かを受け取ってくださればと願う。
(白水社・轟木玲子)
【nippon.comによるアブディンさんの密着取材映像。音声読み上げ機能を使ってパソコンや携帯電話を使いこなす様子がわかる。】