シャルル・ドゴールはいかに困難を乗り越え、現代の〈救世主〉となったか? 菅総理にも読んでほしい一冊!
記事:作品社
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おおむね1970年代から1980年代にかけて、フランスの歴史研究が世界で注目を集めた時期があった。アナール学派による、社会史、心性史などの研究である。日本でも、ブローデル、デュビー、ル・ロワ・ラデュリー、ルゴフなどの著作が次々と訳された。アナール学派の創始者であるマルク・ブロック、リュシアン・フェーヴルの代表的著作も翻訳された。
しかし、『シャルル・ドゴール――歴史を見つめる反逆者』の著者ミシェル・ヴィノックは、アナール学派とは異なる潮流に属する歴史家である。彼が1979年から教鞭を執ったパリ政治学院は、政治史研究の拠点とも言える大学であり、その頂点にはルネ・レモンがいた。同僚にはセルジュ・ベルステイン、ピエール・ミルザ、ジャン=ピエール・アゼマらそうそうたる学者が名を連ねた。彼らには多くの著作があるが、日本語に訳されたものは少ない。アナール学派の陰で、あまり注目を集めなかったのだろうか。
本書で、ヴィノックはドゴールがなぜフランス史上の巨人と認められるに至ったのかを説明している。それは、彼がフランスを二度にわたり救ったからにほかならない。ヴィノックは、本書は伝記とは言えないと説明しており、事実、家族などドゴールの私生活に関わる部分にはわずかしか触れていない。しかし、第二次大戦以前に無名の将校だったドゴールの四冊の著書にページを割き、彼が1920年代からすでにのちの行動の指針となる思想を培っていたことを明らかにしている。そして、ドゴールが1940年と1958年の二度にわたって、フランスの〈救世主〉となった様子を描いている。
1940年6月にフランスの敗北を拒否してロンドンに渡ったドゴールは、ペタン元帥の方針に反対して抵抗(レジスタンス)を呼びかけた。ヴィシー政権は反逆罪のかどで、欠席裁判で彼に死刑を宣告する。ヴィノックが、ドゴールを〈反逆者〉と評するゆえんである。そして、チャーチルやルーズヴェルトとの対立、ジローとの主導権争い、国内レジスタンスの統一などの困難も乗り越えて、ドゴールはフランスを戦勝国の一つとすることに成功する。
1958年5月、第四共和制がアルジェリア戦争から抜け出す方策を見出せずに危機に陥る中、ドゴールはアルジェでの軍の反政府的行動を契機に政権に復帰する。彼は第二次大戦直後に実現できなかった強力な行政府を中心とする新体制の樹立を目指し、国民の多数の支持を得て第五共和制を成立させた。さらに、軍と一部国民の抵抗にもかかわらず、1962年3月のエヴィアン協定によりアルジェリア戦争に終止符を打つ。こうして植民地主義のページをめくると、新たなフランスの偉大さを求めて、独自の外交を展開するのである。
ヴィノックは本書の結論部分で、「個人も、歴史の流れを変えることができる。個人は常に客観的必然により左右されるが、受け身になるだけでなく責任を引き受け、流れを変え、決定論に従うことなく方向性を与えることができる」と書いている。これは、ヴィノックの歴史学の重要な一要素であろう。どんなに偉大な人物も、個人ですべてを動かすことはできない。歴史は、事件によってのみ変わるものでもない。しかし、個人の判断や行動、あるいは偶発的な事件が事態を左右することもある。これが、政治史家ヴィノックの基本的発想の一つにあるのではないだろうか。
政治学院を退職後、ヴィノックは『クレマンソー』、『スタール夫人』、『フロベール』、『ミッテラン』など、高い評価を受け、賞も得た伝記を執筆している。伝記を手掛けたのには、知識の普及を目的として、一般読者にわかりやすい著作を書こうとしたという理由もあろうが、同時に歴史において個人や事件が重要な役割を演じることがあるとの考え方の反映でもあるかもしれない。彼は80歳を超えた現在も精力的に活動を続けており、フランスでは最もよく知られた歴史家の一人である。彼の書く文章は明晰で、文筆家としての評価も高い。著書は英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、中国語などに翻訳されている。
それから60年余、第五共和制はこれまでになく安定した政治体制となり、ドゴールはすべての政治勢力から偉大な指導者と評価されるようになった。こんにちでは、エマニュエル・マクロン、マリーヌ・ルペン、さらにはかつてドゴールを痛烈に批判したミッテランの系譜を継ぐ社会党に至るまで、皮肉にもドゴールに繋がる政党の力が衰える中で、ドゴールを現代フランスの偉人と認めている。
あるインタビューで、なぜフランス人はドゴールにノスタルジーを感じるのかとの質問に答えて、ヴィノックはこう述べている。「フランス人は、民主主義者である以上に反抗的です。彼らは、1793年に父を倒してから、兄弟による体制、つまり民主的な体制を築くことに失敗しました。(中略)父への希求、指導者への希求は明らかなのです」。
ルネ・レモンの用語によればボナパルティストと評されることのあるドゴールが、民主主義の危機が語られ、またポピュリズムの台頭が言われる中で、右から左までほとんどの政治勢力から〈救世主〉として評価されるようになったのは、自然な流れだとも言えるかもしれない。