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小川公代さん「ケアの倫理とエンパワメント」インタビュー ケアで読み解く文学、そして女性の「檻からの解放」

女性がケアを背負い込まないために

――ケアをテーマにした経緯を教えてください。

 日本ではケアというと、家事、育児、介護などの「ケア労働」のイメージが定着していると思います。でも、たとえば介護福祉士や看護師といった職業の方は、実際に実践する中でさまざまな葛藤を抱えながら、ケアについて多面的に考えていらっしゃると思います。いろいろな人がケアを考えたり、実践したりしていることに、もともと関心を持っていました。

 そして大学生の時に、キャロル・ギリガンの『もうひとつの声』という著書に出会いました。一般的に「ケア労働は女性に押し付けられている」というフェミニスト的な言説などがありますが、ギリガンはあえてネガティブな文脈に結びつくケアを肯定化しようとしたんです。女性が「人の話を聞いてしまう」「他者の意見に従属してしまう」などと言われる時、発達心理学的には否定的に捉えられています。でもそういう揺らぎや優柔不断さは実は強みなんじゃないかというんですね。

 私は大学時代にそういう視点は大事だと思ったまま、研究はしなかったんですよね。ただ20年以上経った今、日本はあまりに“自助”の価値だけを求める社会に変わってしまいました。1980年代は、イギリスではサッチャー政権、アメリカではレーガン政権の新自由主義文化の到来を見ましたが、考えてみると、ギリガンはまさにその政治的文脈にいて、ケアの重要性を訴えなければと切迫感を持っていたんですね。昨年「群像」の編集長からフェミニズムや本質主義に関する執筆の相談をいただいた時に、今それを語るためにはギリガンの「ケア」の概念しかないと思いました。

――フェミニズムの文脈ではケアはどのように考えられるのでしょうか?

 いつも尊重したいと思っているのは、いわばリベラル・フェミニズムの立場です。メアリ・ウルストンクラフトから始まり、ボーヴォワールなどを経由して今にいたる、西洋近代的な個人として自立することを大切にする考え方です。

 ただ最近、「ひとりで自立して社会で頑張って生きていかないといけない」という価値観が注目されすぎていると思っています。全部背負わないといけないような負担がある中で、ちょっと荷物をおろして負担を軽減することを自分たちに許す方法はないのかなと思いました。また女性の場合は、たとえ経済的に自立していても、家庭で家事や育児を背負っていることが多い。

 そういう中で、ケアをシェアするためにはどんな思想が必要なのか。みんなが共存して負担を分け合うフェミニズムを考えたいなと思ったんです。するとギリガンだけでなく、実はアメリカではジョアン・C・トロントさん、日本では岡野八代さんなど、ケアの倫理論者が連綿と続いてきたことを知りました。彼女らのケア・フェミニズムを広めたら、女性はもっと生きやすいんじゃないかと思いました。

ケアとは「想像力」

――改めてケアとは何でしょうか?

 一言で言うと、想像力だと思います。岡野さんがウェブメディアのエッセイで、政治家の「女性は買い物が長い」という問題発言について書いていました。なぜ長いかというと、育児や家事を担当していると、家族の好き嫌いや体調の変化など、いろいろな条件のもとで悩みながら選んで買うからだと。誰のために買い物をしているかを頭の中で想像しないといけないんですね。

 人それぞれでケアのあり方は違うので、ケアを与える人は想像力に頼るしかない。介護について考えても「一緒に歩く時に体を支えてあげる」という物理的なケアはもちろん大事です。でも、人によっては支えてほしくない場合もあるわけですね。その人にとってどういうケアを与えるのがいいかを想像すること。それはある意味ではすごく豊かな時間でもある。その人との関係性を意識しながら、心のケアをするんですよね。

――想像力ということが文学ともつながってくるのですね。

 ちょうどウルフで言うと『灯台へ』に登場するラムジー夫人です。彼女は朝から晩まで「この人のためにはこうしたほうがいい」と想像している。でも言葉には出さないんですよね。だから周りの人は必ずしも気づかない。ケアの実践は言葉に出さないこともあって、その人の内面で行われているんです。文学が提供できる叡智は、そうした想像力のプロセスを共有することなんじゃないかなと思っています。

言葉による「檻からの解放」

――ウルフなどを読み解く際の鍵概念として「多孔的自己」や「両性具有性」がありました。女性的でかつ男性的であって、流動的で他者に開かれた存在であることが、ケアの実践の上では大事だと。

 常に流動的だと思うんですよね。たとえば、多孔的で両性具有的なデヴィッド・ボウイは、いろいろなメイクや衣装を使って、演じ方や自己の作り方を変化させていきました。パフォーマンスによって、男性性を拒絶したり、両性具有化をしていくんですね。

 あるいは、いろんな本を読むということもあると思います。私も三島由紀夫ばかり読んでいる時期もあったし、同郷ですごく好きな有吉佐和子さんの母性にまつわる作品ばかりを読んでいた時期もありました。

 三島はずっとマッチョな世界を表現した作家だと思い込んでいましたが、読み直してみると、すごく両性具有的な人だとわかりました。同じ本でも男性的な作家だと決めつければ、そのように読める。でも読み方を変えると、他の側面もわかってくるんですね。そのためには少なくとも作家のことを研究しないといけません。他の作品を読んだり、その人の人生について調べたりするんですね。

――本を読むことがケアと関わってくるのでしょうか?

 ケアとは他者と関わることなんですよね。「最愛の人の他者性と向き合う」というのは、平野啓一郎さんの『本心』のテーマでもありますが、この作品は拙著でも分析しています。会って喋ることもそうですが、読書を通して人の他者性について想像をめぐらせてみるのも一種の「関わり」だと思います。日々いろんな人に出会って、相手のことを知りたいと思うように、小説を読んで他者性を発見したいと思う。「もっと突っ込んでいろんなことを聞いてみよう」「これは触れられたくないかもな」といった想像力も、長年の文学研究の中で学んだと思っています。

――ケアという視点で文学作品を読み直すと、新たな側面も見えてきましたか?

 そうですね。意外な側面が見えてきたのは、オスカー・ワイルドと多和田葉子さんでした。ワイルドは古典文学の巨頭としてリスペクトを集める男性の劇作家です。ただ、彼の人生のプライベートな側面まで見てみると、彼は同性愛者であったことで社会に糾弾され、その結果、2年間も投獄されました。投獄中に彼が綴った『獄中記』を読んでみます。すると、彼は長年同性愛者であることをひた隠しにしたことで孤独の苦しみを味わっていたことが見えてくる。それを知った上で改めて彼の初期作品を読み直すと、それらは苦しみの中から生まれていたことがわかります。

 多和田葉子さんはまた違う切り口でしたが、共通点もある。多和田さんは「多和田葉子×プラープダー・ユン――Between Language and Culture(言葉と文化のはざまで)」というシンポジウムで、日本にいると日本語にからめとられてしまって、息苦しさを感じるといったことを仰っています。それを「言葉の檻」だと表現するんですね。私も2言語以上話す人間として感じますが、ひとつの言語しか話せないと、その中でしか表現できない。でも彼女はドイツに行くことによって、二つの檻を持つことができた。

 ワイルドの刑務所や厳格な性規範の檻、そして多和田さんの「言葉の檻」。檻によって限定された中から、どうやって言葉で自分を解放するのかそれを考えることは、ひとつのケアの仕方なのかなと思います。

――文学は「檻からの解放」ということでもあるのですね。

 私が一番寄り添いたいのは、家庭の外に出たいと願いながらも自由に羽ばたけない女性たちなんです。もちろん幸せな家庭生活を送っている女性もたくさんいます。ただ、声をあげられない女性たちもいるのではないでしょうか。経済的に自立しない限りはそこからは出られない。今はそういう人たちを理解する寛容さのない国家や社会なんじゃないか。だからこそ言葉を使った「檻」の中からの解放の仕方を考えたいと思っているんです。