ナチズム研究の世界的権威が「断末魔の10カ月間」に迫る イアン・カーショー『ナチ・ドイツの終焉 1944-45』
記事:白水社
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【著者インタビュー動画:DAS ENDE von Ian Kershaw】
1945年初頭、惨憺たる敗戦が迫りつつあったころ、ドイツではしばしば、「終焉なき恐怖よりは、恐怖ある終焉」の方がましだという言葉が聞かれた。結局彼らが経験したのは、「恐怖ある終焉」だった。それは、歴史上前例のない方法と規模とで彼らを襲い、巨大な破壊と膨大な人命の喪失をもたらした。この災厄のほとんどは、ドイツが連合国の要求する降伏条件に屈していたならば避け得たはずのものだった。それゆえ、1945年5月以前、ドイツが降伏を拒否し続けていたことは、ドイツ国家とナチ体制にとって、単に破壊的であっただけでなく自己破壊的でもあったのだ。
戦争に敗れた国はほとんど常に、ある時点で講和を求める。最後まで、ほぼ全面的な潰滅まで、そして敵軍による完全占領まで戦い続けるという、自己破壊行為はきわめて稀である。しかし、これが1945年にドイツ人がやったことである。なぜなのか? 単純な答えを出したい誘惑は感じる。──彼らの指導者が、ヒトラーが、一貫して降伏を検討するのを拒んだ、だから戦い続ける以外にオプションがなかったのだ、と。しかし、この答えは、ただ、他のあれこれの質問を生むばかりである。なぜ、ヒトラーの自己破壊的命令に人々が従ったのか? 戦争が敗北必至であり国土が完全に破壊されることが誰の目にも明らかであったあの時期に、彼が1人でドイツの運命を決定した。そんなことを可能にしたのは、いったい、どのような支配機構であったのか? ヒトラーが祖国を破壊に追い込みつつあることを知りながら、ドイツ国民はどうして彼を最後まで支持し続けたのか? 彼らは実際に心から彼を支持していたのか? それとも、脅されてそうさせられていただけなのか? どのようにして、また、なぜ、軍隊は最後まで戦闘を継続し政府機関は最後まで機能し続けたのか? 戦争の末期、ドイツの民間人や軍人たちはどのような選択肢を持っていたのか? 最初は単純な答えを引き出すための率直な質問と見えるものから、このような数々の質問が直ちに生まれてくる。これらの質問と取り組むには、1944─5年、ドイツが逃れようのない破局に陥ったときの支配の構造と人々のメンタリティーを検討するしかない。本書(『ナチ・ドイツの終焉 1944-45』)はこの検討を試みようとするものである。
私がこのような本を書こうと思い立ったのは、驚いたことに、上記のような質問に答えてくれる先行文献が見当たらなかったからである。もちろんあの戦争の終末に関する文献は、様々な視点、様々な質のものが、無数にある。ナチ首脳陣に関する重要な研究も多数あるし、地域ボスである大管区長についての研究も増えつつある。指導的軍人の多くについての伝記もある。第三帝国最後の破滅的数週間に、前線で、また事実上ドイツの全市町村で起きた出来事について、まさに無数の記録がある。多くの地域研究は、西側連合軍とソ連軍の破竹の前進の前に圧倒されてゆく個々の市町村の運命を、みごとに──しばしば戦慄すべきほどリアルに──伝えている。前線での経験、あるいは国内で連合軍の爆弾にさいなまれた都市での経験、あるいは家を失い厳寒の中をひたすら歩む逃避行を回顧した文献は多数ある。詳細なしばしば地域に特化した軍事史や個別の国防軍部隊、主要な戦闘に関する資料も多数ある。とりわけベルリン攻防戦については当然ながら膨大な数の記録や研究が存在する。1980年代に発行されたドイツ民主共和国の公的戦争史全6巻は、その明らかなイデオロギー的かたよりにもかかわらず、前線での出来事に限定されぬ、包括的な軍事史としての価値を持っている。より近年では、ドイツ連邦共和国自身の傑出した公式軍事史シリーズの最後の数巻が、国防軍について、しばしばいわゆる軍事史の範囲をはるかに超えた、秀逸で詳細な研究を提供している。とはいえ、これらも、また、その他の優れた軍事史の書物も、私が取り組みたいと思った質問に答えるのに必要と思われる問題点については、十分に触れていなかった。
私は最初、末期のナチ・ドイツの支配構造を探究することを通してその問題にアプローチしようとした。第三帝国の構造に関する主要な歴史研究は、多くが、その対象とする範囲を1944年末の時点でとどめ、体制終末期の数カ月についてはまったく表面的にしか扱っていないように、私には見えた。このことは、ナチ党とその関連組織に関する研究についても当てはまる。しかし、間もなく私は次のことに気づいた。──構造を分析しただけでは不十分なのだ。私の探究は、体制が継続的に機能し得たのを支えた、様々なレベルの人々のメンタリティーに及ばなければならないのだ……。最後の数カ月のドイツ人のメンタリティーの包括的研究はまだ試みられていない。それゆえ、それらを再構築するのは断片的データを拾い集めることからなされなければならないのだ。
私は、支配者と被支配者、ナチ首脳部と一般大衆、そして東部戦線・西部戦線双方における将軍と一般兵士等、広範囲の人々のメンタリティーを検討の対象とした。それは広いカンバスであり、太い絵筆を振るわなければならない。もちろん私が提供できるのは、様々な意見の広がりを示すための選択的事例でしかない。メンタリティーについて一般化する場合に少なからず問題となるのは、ナチ体制が、末期の数カ月、とりわけ最後の数週間には猛烈な速さで、縮小するばかりか細片化していたことだ。戦争の極限的圧力がドイツ全域に惨害をもたらしたことは明らかである。しかし、ドイツは大きな国だったから、その圧力は各地域を同時に襲ったのではなかったし、まったく同じ態様で襲ったのでもなかった。ドイツの別々の地域にいた民間人の経験は、また異なる戦域で戦っていた兵士たちの経験は、当然のことながら、一様ではなかった。したがって私は表面的な一般化を求めるのではなく、相異なるメンタリティーをそのまま提示するようにした。
本書が語っているのは、主として、いわゆる大多数のドイツ国民についてである。しかし、別の人々もいた。ドイツ社会の主流に属さず、もしくは属すことができず、それゆえにほとんどのドイツ人とはまったく別個の経験を強要された人々である。この人々の経験も安易に一般化することは困難である。ナチの桎梏の下、凄絶な迫害と差別にさらされた、これらの人々の運命は、進みゆく崩壊と迫りくる破滅のただなかでナチ体制が機能し続けた物語の、さらなる重要な部分となっている。体制の人種的・政治的敵対者とされる人々は、一般ドイツ人の苦難を大幅に上回る凶暴な懲罰にさいなまれた。体制最後の数カ月は、とりわけ彼らにとって、ほとんど想像を絶する恐怖の時期だった。たとえ他のすべての分野で躓きよろめいていたとしても、ナチ体制は、テロルの分野では、最後まで抜かりなく人々を暴圧し殺戮し絶滅し続けたのである。
ナチ体制最後の数カ月の歴史は解体の歴史である。それゆえ、この時期の歴史を書くのは、解体に関する統合された歴史を書くことだともいえる。第三帝国崩壊の様々な小局面を融合して単一の歴史にまとめ上げる……。気の遠くなるような仕事であり、どのような手法によるかが、大きな問題だった。
私の見いだした唯一の確実な手法は、──それぞれの章はテーマごとにまとめつつも──作品全体としては物語的アプローチを採用するというものだった。物語の始点として論理的にふさわしい時期は1944年6月であっただろう。西では西側連合軍のノルマンディー上陸作戦が成功し、東ではソ連赤軍が猛進撃を続け、ドイツはこの時期、窮地に立たされていた。しかし、本書は、ナチ体制にとって重要な内的変化が起きた、1944年7月のヒトラー暗殺未遂直後の時期を始点とした。続いて、9月、西部での国防軍崩壊へのドイツの対応、翌月、ドイツ領土への赤軍の最初の侵攻、12月、アルデンヌ攻勢によって生まれ潰えた束の間の希望、1月、ソ連軍の手に落ちた東部諸州の破局、2月、国内でのテロル的抑圧の急激なエスカレーション、3月、進みゆく支配体制の崩壊、4月、交戦継続のための最後のあがき──ドイツ市民そしてとりわけ体制の敵たちへの統制なき暴力行使、そして5月になってからでさえ東部の将兵を西に移動させるまでは戦い続けようとしたデーニッツ体制の動き……。そして、1945年5月8日のドイツの降伏、同23日のデーニッツ政権閣僚たちの逮捕をもって本書の叙述は終わる。
相次ぐ敗北のなかとどめようもなく崩壊していくあの体制の末期のダイナミズム──そしてドラマ──を描き出せるのは、物語的アプローチによるしかない、と私は思った。この手法によってのみ、あの時期の、即興的弥縫策や人的・物的資源の徹底的徴発(苦し紛れのこれらの方策は、少なくとも数カ月の間は効果をあげて不可避的結末を先延ばしし、体制機能の持続を許したのだった)、また、日増しにエスカレートし最後には狂乱化した残酷無残な弾圧、ナチ体制の自己破壊的暴走、等々の様相を如実に伝えることができるはずだ。この物語の中のいくつかの重要な要素は、必然的に、単一の章だけにとどまるものではない。たとえば、都市爆撃、兵士の脱走、強制収容所の囚人の死の行進、一般市民の疎開、崩壊する戦意、内部的弾圧の激増、プロパガンダ戦略の自暴自棄的激化などは、単一のエピソードの中だけに収まるものではない。しかし、いかに破壊と恐怖が、ナチ体制の全期間にわたって存在していたとしても、特にあの最後の数カ月間、それらが時間の経過とともに激化していった状況を明らかにするうえで、物語的手法は重要である。したがって、私は個々の出来事が何時起きたか、その時間軸を重視した。また、同時代の日記や書簡を豊富に活用するなど、たえず文献資料に立ち返って叙述を進めた。
本書が目指さなかったものを述べておくのは重要である。本書は軍事史の書物であることを目指してはいない。それゆえ、戦場の状況を詳細に描写してはいない。ただ、本書にとって中心的なあれこれの質問の回答を得るのに有用な背景幕として、前線の事態の簡潔な概観を紹介しているだけである。また本書は、連合軍の戦略の歴史、あるいは連合軍によるドイツ侵攻の諸段階の歴史を論じようとはしていない。むしろ、あの戦争を、もっぱらドイツ側の目を通して見据え、いかにして、またなぜ、ナチ体制はあのように長く持ちこたえ得たのかを、よりよく理解することを目指すものである。さらに本書は、降伏の時点から占領期へと移りゆく連続性という重要な問題を、また、戦争終結前に1つの地域が占領された際のドイツ国民の行動はどのようなものであったかという問題を、扱っていない。
あの戦慄すべき数カ月、異様なそして惨烈な環境の中で、普通の人々がいかに生き抜いたか──、あの現実を再構築することなど到底不可能である。第三帝国について長年研究してきた私にとっても、あの戦争のクライマックスにおける災厄と死の全容を完全に受け止めるのは、やはり困難だった。災厄は単に被害者の数だけで論じるべきではないし、論じ得るものでもない。とはいえ、西側連合軍とソ連赤軍を加えず、ドイツ国防軍の損耗(負傷者、行方不明者、捕虜となった者を含む)のみを見ても、それは戦争の最終局面でひと月当たり約35万人に達していた。このことを思うだけで、第一次大戦をはるかに凌駕する、前線における絶対的殺戮の凄まじさに慄然とせざるを得ない。ドイツ国内でも死はありふれていた。連合軍の攻撃によって死んだドイツ民間人はほぼ50万人。そのほとんどは、戦争末期の都市空爆の犠牲者だった。同時期、数十万の避難民が赤軍を逃れつつ命を落とした。また、強制収容所囚人の恐るべき死の行進(そのほとんどは1945年の1月と4月の間に起きた)とそれに伴なう残虐行為──厳寒の中での放置、栄養不良、過労、恣意的殺戮──は、推定25万人の死者を出した。第三帝国末期の数カ月、ドイツはさながら巨大な死体置き場であり、その惨害の規模は想像を絶した。
しかしながら、少なくとも本書を書き終えるころには、私は、自分に課した質問──あの凄まじい災厄の中で、いかにして、また、なぜ、ヒトラーの体制は、かくも長く機能し得たのか──への答えに、ずいぶん接近していると感じた。本書を読んだ方々が、同様の感想を抱いてくださったなら、著者としてこれほど満足なことはない。
【イアン・カーショー『ナチ・ドイツの終焉 1944-45』(白水社)所収「初めに」より】