当たり前のものこそが最も記録に残りにくいことを証明する<住宅写真集>
記事:創元社
記事:創元社
私が創元社に入社したのは2010年、今から11年前のことである。10歳の時に大阪から離れ、じつに35年ぶりに大阪での暮らしを始めたこともあって、どんなに平凡な通りを歩いてもそれなりに発見があって楽しかった。また、伝統と呼んで大げさではない歴史のある、自社の過去の出版物にも興味津々であった。
そんな好奇心が再活性化されていたある日、社の保存本のある棚に一冊の大判の並製写真集を見つけた。今日紹介する、『昭和の日本のすまい――西山夘三写真アーカイブズから』である。2007年に出た本だが、私が再発見した時すでに品切であったようで、存在にまったく気づかずにいたわけである。テーマが気にかかり、写真集なのでちょっとのぞいてみようと頁をめくりはじめた私は、次第に自分のまなざしが真剣になっていくのを感じていた。そして後半のある頁で、まさかこんなものがと、信じられないような光景の写真に出くわしたのである。
そこに写っていたのは、私が生まれた時に住んでいた豊中市庄内地区に所狭しと立ち並んでいた典型的な文化住宅であった。私は物心ついた時にはすでに千里ニュータウンの団地の4階に住んでおり、文化住宅の記憶は全くなく、実家に家の写真も残っていなかった。その文化住宅は私たちが団地に引っ越したあと火事で全焼し、亡くなった方もいたらしい。初めて目にする自分の生まれた地区の、おそらくは住んでいたに近い住宅群の写真は強烈な印象を私に与え、同時に、重版への意志を固めさせるに十分な力を与えたのである。
当時も写真家はたくさんいたし、建築関係者も大勢いたはずだが、西山のような視線で当時の都市住民が生活を営んだ普通の住宅をあるがままに記録として撮影した「専門家」は意外と少ないのではないか。もしかしたら、これらの写真は時と共にその史料としての価値を増しているのではないか。ごくありきたりな人生と見事にクロスオーバーする西山の写真を見ながら、私はそう思い始めたのであった。
庄内の文化住宅に次ぐインパクトで、私個人の人生や記憶と鋭くクロスしてきた写真は、広島県尾道市の水上住宅のモノクロ写真であった。私は、大林宣彦の監督映画は〈さびしんぼう〉だけが好きで、なぜそれだけかというと、富田靖子の演じている女子高生橘百合子の役がとても好きだからである。映画のラスト、百合子がヒロキ役の尾美としのりに決して明かすことなく去って行った幻の彼女の住処が、この水上住宅写真と突然重なってきたのである。大林が自分の作品に暗示としてしか遺せなかったもう一つの尾道の姿がここにある、と直感的に思ってしまったのだ。
もちろん、〈さびしんぼう〉が撮影された1980年代前半にはもう水上住宅は姿を消していただろうし、実際のロケ地との関連性はまったくないはずだ。それでも、そう思わせる力が、西山の住宅写真には内包されているのである。ほかにも似た感興や記憶を呼び起こす写真が山のように収められており、それに共感して頂ける方には決して高価な本ではないと信じている。
私が創元社に入社した翌年、大震災が東日本を襲った。大津波で壊滅的な被害を受けた太平洋沿岸の街や集落は、その後の住宅復興が大きな課題となり、関連ニュースが常に世間を騒がせていた。そんな震災後に、あらためて西山の写真を眺めていた時、結局、庶民の住宅とは基本がすべて復興住宅ではないかと思うことがあった。
本書には敗戦後のバラックや転用住宅など、雨露をしのぐのが精いっぱいのような住宅写真も多く収められているが、それらを見ていて、人はどんなきびしい状況でも、何としてでもとりあえず雨や風をしのいで「住む」工夫をするのだなと、貧しさや暗さといった相対的な価値観を超越するような、根源的なたくましさを感じてしまったのである。無作為の作為としてわびしさや貧しさが強調されるカットになってしまいがちなジャーナリスティックな商業写真とは対極にあるような、静かで落ち着いたたたずまいを西山の住宅写真は今も見せているのである。
(編集局・山口泰生)