ポジショナリティから読み解くジェンダーと〈日沖関係〉――権力作用を可視化し、“中立神話”を超える協働の条件を問い直す
記事:明石書店
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このたび『ポジショナリティとジェンダー――女子教育と男性権力』と『ポジショナリティと〈日沖関係〉――沖縄と日本の権力構造、集団的利害と責任の様態を問い直す』の2冊を同時に上梓した。それぞれポジショナリティという視点から、性差をめぐる諸問題、日本と沖縄との関係について論じたものである。
ポジショナリティとは、集団間に存在する権力関係に起因して、集団に属することによって個人間に現れる不均等な権力作用を捉えようとする概念である。ポジショナリティを検討することでなにが可能となるかといえば、第1に、現実に存在する集団間の権力や格差が、それぞれの集団に属する個人にどのように分配され再生産されているかという事実の明示である。第2に、集団的利害と個人的利害の区分を明確にし、それぞれの責任がどのように存在しているのかを明らかにすることである。換言すれば、これは複雑な集団間の権力関係について、問題を切り分けて理解することを可能にするものである。この点は、ポジショナリティを権力分析に導入するにあたって、もっとも顕著な効果といえる。第3に、それらの認識を異なるポジショナリティにある人びとが共有することによって、新たな次元での協働の条件を探ることである。この点は、ポジショナリティを考察する究極の意義でもある。
このようなポジショナリティの意義に沿って、『ポジショナリティとジェンダー』では、男性の権力作用がわかりやすく現れる領域として女子教育を手掛かりに、男性によって語られてこなかった集団的利害について、男性学などを検討しつつ論じる。また男性が女性を支配しようとする手法について、さまざまな概念とともに検討する。そのうえで、ポジショナリティを明確に意識することによって、ジェンダーに対する態度(ジェンダー・アティチュード)への政治作用はどのようなものになるかを考えた。
一方、『ポジショナリティと〈日沖関係〉』では、沖縄への米軍基地集中は、日本人と沖縄人とのあいだの権力関係の帰結であるという観点から、ポジショナリティを通じて明らかになる双方の集団的利害の相違、その相違を隠蔽しようとする日本人の言説効果、日本人による沖縄人の言葉の収奪や越境性のごまかし、ポジショナリティの相違を超えて沖縄人と日本人が協働するための条件などを論じている。
この2冊に先立って、私はポジショナリティを理論的に一般化して論じた書籍を刊行した(『ポジショナリティ――射程と社会学的系譜』勁草書房、2023年)。じつはこの『ポジショナリティ』に先立って、今回の2冊の草稿は出来ていた。新型コロナウイルスの感染拡大や諸般の事情により刊行順序が逆となったが、理論的な一般化を経たことで見通しがよくなった部分もあった。とはいえ、『ポジショナリティ』が理論編でこの2冊が事例編というわけでもない。この2冊は性差別、沖縄と日本の関係について、それぞれの関係における権力作用を検討し、そこでなにが起きているのかを解き明かそうとするものである。第一義的には、ジェンダー規範の作用機序、および沖縄と日本の関係について主題化したものである。ただしその際に、ポジショナリティという観点から隠れていた権力作用をあぶり出すことを重要な分析軸として採用している。
ただ2冊同時公刊ということで、これら2つの領域について、ポジショナリティにかんする論点を(比較的に)集約して論じる効果もあった。よりその領域をよく説明しうる文脈、ポジショナリティの特徴が明確に現れる領域での議論として、論じ分けた部分もある。たとえば、『ポジショナリティとジェンダー』では、複雑にみえる権力作用の複合状態を切り分けて考えること、ポジショナリティを曖昧にすることによって集団的利害が隠蔽される機序やその諸相、ポジショナリティを無視したコミュニケーションがもたらす相互作用の諸相、被抑圧者にポジショナリティを忘却させて顕在化させない手法、といった論点について紙幅をあてて論じている。一方で『ポジショナリティと〈日沖関係〉』では、集団間に設定されている権力関係が個人間にポジショナリティの相違として現れる様相、集団的利害にもとづいて集団的な責任は個人にどのように分有されているか、被抑圧者がポジショナリティの曖昧化に協力させられる機微と手法、ポジショナリティを変更し差別や抑圧を解消する責任の所在と様態、といった論点について集中的に論じている。
その一方で、2冊に共通している点ももちろんある。それはポジショナリティを曖昧化する利益(個人的な利益)である。ポジショナリティを問題化しないことによって、集団的利害の個人への分配は継続する。そのために、とくに抑圧側の人びとは、自らの集団的利害を棚上げした言動や、境界の無効化といった「混乱の種」を撒くのである。ときには、強制された選択として被抑圧者がそれに協力させられることも起こる。この2冊では、ジェンダー、沖縄と日本、の両領域から、そのようなポジショナリティの背景化のポリティクスと、それによって維持される利害についても論じている。
そして、ポジショナリティという概念・視点によって明らかになることのなかでも、とりわけ重要と思われるのは、女性個人と男性個人、あるいは沖縄人個人と日本人個人は、たとえ互いに名前も知らず、会ったことのない間柄であっても、「赤の他人」ではないということである。「赤の他人」とは、まったく関係のない間柄を表現する言葉だが、女性と男性は、資源や機会の不均等な分配を通じて、沖縄人と日本人は、基地を押し付けられる/押し付けるという関係を通じて、互いに深く結びついているのである。ポジショナリティは、集団的利害の個人への分配という観点を通じて、これらの隠されている社会的結合を可視化するのである。
そして、それが新たな関係の基盤となりうると思われる。ポジショナリティを理解し、抑圧者と被抑圧者双方が、ポジショナリティの違いを相互に確認し、それを共有すること。ここから新たな権力関係や格差を解消するための協働がはじまりうる。そのためには、集団的利害の相違と個々人がおかれているポジションについての事実の確認が必要である。その先に、その不平等な事実を変更するための意志や行為が、はじめて意味をもつと思われるのである。
権力関係が存在する集団間において、ポジショナリティを念頭におかない協力関係はすべて欺瞞である。なぜならそれらは事実を隠蔽した、事実に基づかない関係だからである。主観的にいくら良好に感じていても、そこに権力関係が存在していることは揺るがない。ポジショナリティという概念は、その単純な事実を指し示し続ける概念である。
私自身は、両性の関係においては男性というポジショナリティにあり、また沖縄と日本という関係においては日本人というポジショナリティにある。それは私自身が属する多くの集団の限定的な側面でしかないだろうし、私の人格を包括的に規定するようなものでもないだろう。これは多くの人びとにとって同様だろう。しかしそうではあっても、ある集団との関係において集団的利害が存在することも変わらないのであり、それはその集団間の関係が変わらないかぎり、ずっとついて回る事柄である。
ただし、ポジショナリティは運命論でも、人びとを出自に縛りつけるための議論でもない。自らを理解し、他者を理解し、よりよい社会的関係を築くための基礎的な条件を考えるための概念である。この2冊を通して、もっとも強く主張したいことである。そのためには、現実のポジショナリティのありようを明確に共有することが前提となる。集団に起因するさまざまな社会的関係を理解するために、そして自分自身を理解するために、さらには自分自身を刷新するために、ぜひ手に取ってもらえればと思う。