内輪向けでない哲学のために――哲学者・三木那由他氏が感じ取った『時間の解体新書』の重要性
記事:明石書店
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哲学者というのはどんなひとだろう? 哲学者のイメージを思い浮かべるとき、おそらく少なからぬひとが想像するのは、世間と隔絶され、超然とした視点を持ち、抽象的な思考に生きる人物ではないだろうか。ときには哲学者自身もそうしたイメージを自ら打ち出し、哲学的思考の「抽象性」とそれがもたらす「普遍性」について語ることもあるだろう。「哲学者は世間の常識に流されず、むしろ批判的な精神のもとで常識的な世界観を問い直す」などと言われることもある。
ただその一方で、「哲学者って本当にそんなに批判的なのだろうか? その思考は本当にそんなに普遍的なのだろうか?」と思う面もある。私は自分自身も哲学者であり、哲学者たちが集まる学会に出入りし、哲学者たちが飲み食いしながらしゃべる場に顔を出したりもする。そうすると、そうした場で出てくる話題や議論が、妙に偏っていると感じることがあるのだ。
私の場合は、特にそれはジェンダーや性に関して思うことが多い。
私はトランスジェンダーであり、女性であるという、いずれも哲学業界のなかではかなりの少数派に当たる属性を備えた人間だ。そんな私からすると、「いや、男のひとの目にはそう見えるのでしょうけど」だとか、「まあ、シスジェンダーのひとはそう言いますよね」だとか、「それって異性愛を前提にしているだけでは」だとかと思うような話しぶりに、頻繁に出くわすのだ。
結局のところ、哲学者も単なるひとりの人間に過ぎない。魂だけの存在になって天上界から地上を見てこの世界に普遍的に妥当する何かを語っているわけではない。個々の哲学者たちにはそのひとの身体があって、言語があって、この社会における位置づけがあって、これまでの経験があって、そのひとを囲む人間関係がある。
もちろん哲学者は論理と抽象概念を駆使してそうしたくびきを逃れようと工夫を凝らし、その一部はひょっとしたらある程度の成功を収めているのかもしれないが、しかしそれによってそのひとがその身体や言語、社会における位置などのなかに埋め込まれた存在であるという事実をなくせるわけではない。哲学者だって、根本的にはその身体を通じて物事を経験し、その言語を通じて物事を語り、そして自らの置かれた位置から社会を見るしかない存在なのである。
それぞれがこうした普通の人間に過ぎない哲学者が集まり、哲学の議論を戦わせる。もしその議論の場にいるのが、特定の身体であったり、特定のジェンダーのありかたであったり、特定の言語を話したりというひとばかりだったらどうなるだろう? 容易に想像できるだろうが、その特定の属性を備えたひとのあいだでばかり受け入れられるような議論が延々となされることになる。「まさか、哲学者ともあろう者がそんなことになるものだろうか?」と思われるだろうか?
田中さをり『時間の解体新書――手話と産みの空間ではじめる』は、西洋哲学(と日本におけるその受容)がまさにそうした内輪向けの議論を続けてきたことを暴露し、その輪から排除されてきた者たちの視点から既存の哲学の問題を語りなおす試みである。
田中が着目するのは、第一に手話であり、第二に産む身体だ。
この本の第1部では、西洋哲学とその日本での受容を通じて、いかに手話が「言語」の外部に置かれ続けてきたかを文献学的に論じている。「息」、「声」、「言語」、「魂」を結びつけるアリストテレスは、手話を言語とは見なさず、そしてろう者を「理性的動物」としての人間の外部へ排除していた。
19世紀から20世紀初頭に活躍した心理学者ヴントは、手話を言語として認識していたものの、それを音声言語とは異なる、より「原初の言語」に近いものと見ていた。そしてそのヴントの思想が日本に輸入されるに際しては、誤訳を介して手話は再び音声言語より「劣った」言語とされた。こうした歴史の流れを、田中は鮮やかに描き出す。
この歴史に見られるのは、マイノリティをそれゆえに劣ったものと見たり、かと思えばマイノリティをそれゆえに何か理想的なものと見たりということを行き来しながら、決してマジョリティと同等の仕方でこの社会に共存している存在とはせず、あくまでこの社会の外部に位置づけ続けるような力学だ。
こうした力学は、この社会のマイノリティたちに頻繁に作用する。田中の議論が示しているのは、哲学者たちもまた、それに加担してきたという事実である。すぐに気づかれておかしくなさそうなごく初歩的な誤訳でさえ、話題が手話となると気づかれることなく長年にわたって維持され続けてきたという田中の指摘は、哲学の業界に身を置く者たちにとって重いものだ。
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第2部と第3部は、哲学的議論の具体例を挙げて、それがいかに特定のひとたちの内輪での議論に留まっていたのかを明らかにし、その輪の外部に置かれた者の視点から議論を捉え直す試みとなっている。取り上げられているのは英語圏哲学の時間論における古典とも言える、マクタガートの時間論である。
詳細はぜひ『時間の解体新書』で読んでもらうことにしつつ、マクタガートの議論をざっくりとまとめよう。
マクタガートは、時間に関して成り立っていると思われる事柄を列挙し、それらが矛盾、もしくは悪循環、無限後退を含んでいることを指摘した。しかしこの現実の世界において、矛盾、悪循環、無限後退を含むような事柄は成立し得ない。それゆえ、マクタガートは私たちが「時間」と呼ぶようなものは、本当は実在していないと主張した。マクタガートがそうした議論をおこなったのは20世紀初頭のことだが、このショッキングな主張は多くの哲学者に影響を与え、いまでもマクタガートの時間論を取り上げる論文や本は頻繁に公刊されている。
『時間の解体新書』に解説を寄せる森岡正博が言うように、田中の議論は「ユニーク」なものだ(しかしあとで述べる理由から、私はこの言葉に括弧をつけたい)。マクタガートの議論を、日本手話を用いて語り直そうというのである。
これまでマクタガートの議論は多くの場合に英語で、そして日本国内では日本語で、つまりは基本的に音声言語で語られてきた。音声言語というのは一般に一次元的なものだ。これに対し、田中が解説するように、手話は三次元の空間と時間的なタイミングを利用した四次元的な言語だ。そしてマクタガートの議論を手話で語り直したならば、マクタガートが暗黙の前提を持ち込んだ地点を容易にあぶり出せる、と田中は指摘する。
日本手話でマクタガートの議論を語り直したらどうなるのか、そしてどこでマクタガートの議論に飛躍が生じているのか。田中の議論は明晰でわかりやすく、そしてそれが明晰でわかりやすいがゆえにこそ、重くのしかかる。田中が示しているのは、マクタガートの議論を手話で語るということさえ、これまでの哲学業界で試みられてこなかった、あるいは試みられたものの歴史に埋もれさせられてきた、という事実だろう。
これまでマクタガートの時間論を扱った学会やシンポジウムはいったいいくつあっただろう? そのなかに、ろう者が参加し、発言したものはいくつあったのだろう? もしろう者がきちんとそこで発言ができていたのなら、このことはすでに発見されていてしかるべきだったのではないか? 田中の議論が「ユニーク」に思われるという事実自体が、逆照射的に、哲学の業界がろう者に開かれていなかったという現実をあらわにするように思える。
さらに田中は、マクタガートがこだわった「現実」に着目する。
第3部では、産む者(本書では「女性」と想定されているが、もちろんそこには少数ながら産む男性や産むノンバイナリーの人々もいるだろう)の観点から、そうした人々がいかなる現実のもとで時間を経験しているのかが論じられる。そうして示されるのは、マクタガートが矛盾していると見なし、それゆえに現実に実在しないとしていた時間は、まさに産む者たちが現実のこととして経験している時間であるということである。マクタガートは産む者の視点ではなく、産み出されるが産むことのない者の視点で時間を、そして現実を理解している。田中はそれを、自らを産んだ親に向かい合い、生と死について対話する子の視点として語る。
ここでもまた、翻って、なぜこのような視点からの語りが、これまでの哲学に欠けていたのかと問いたくなる。答えは、マクタガートにせよ、その後にマクタガートの時間論について論じた哲学者たちにせよ、その多くがシスジェンダーの男性たちであり、それゆえ出産という経験をしない人々だったからだ、ということになるだろう。
田中の議論は、確かに「ユニーク」だ。しかし、本書を通じて私たちが見るべきは、そうした視点を「ユニーク」にしてしまうようなこれまでの哲学のありかたなのだろう。これまでの哲学の議論の場にいたのがシスジェンダーの男性の聴者ばかりでなかったならば、少なくともそれは同じ意味では「ユニーク」でなかったはずだ。
田中の議論は独創的だ。しかし独創的な哲学書にこのような想いを抱くのは初めてなのだが、私は哲学界がいつか、こうした議論が独創的でないような場所になってほしいと願ってしまう。そしてこの気持ちを「願い」としか言い表せない現在の哲学界においては、だからこそ『時間の解体新書』にはほかにはない重要性があるように思う。
内輪向けでない哲学を目指すために、私たち哲学者はまず、自分たちの輪がいかに狭いものであるかを知るところから始めなければならない。