〈在日〉と〈東北〉 日本近代を問う「女同志」の往復書簡[後篇] 姜信子・山内明美『忘却の野に春を想う』
記事:白水社
記事:白水社
姜信子様
姜さんから頂いたクリスマスのお手紙は、まるで飛礫のようでした。
わたしのこの手紙が、姜さんのもとに届くころは2019年になっていて、平成という時代の佳境を、お互いやるせない気持ちで過ごしているだろうと思います。何と言うか……途方もない手紙を受け取ってしまったことに気がつきました。わたしたちが抱えこんでしまっている、のっぴきならない近代について、姜さんは、どうも手紙でやり取りしようと考えている。これは、途方もないことです。
姜さんとは、何度か一緒に〈東北〉の度線を越えましたね。東京から東北自動車道に乗って、宮城県白石市のあたりで「北緯度線」の看板が見えます。あのほんの一瞬間。東京から郷里へ帰省するときに幾度となく、とりたてて意識もせず「通過」してきた度線。あの一瞬を姜さんと越えるたびに、わたし自身にとって切実な〈不理解〉と〈失語〉が浮上するのです。自分にとって切実なのに〈不理解〉とはどういうことかと思われるでしょう。
この手紙を書いている今日は、2018年12月29日です。
一昨年の年越しは姜さんと一緒に羽黒山で過ごしましたね。出羽は銀世界でした。
トンブリ(救荒食なのだそうです)を塗したまあるいおにぎりを食べて、火が放たれた巨大なツツガムシの藁人形が曳かれていく様子を見ましたね。反閇は、カオスのようなフワフワの世界を踏み固めてクニをつくるステップでした。あの巨大なツツガムシ。もし火を放ち、反閇して〈もうひとつのこの世〉がやって来るなら、わたしたちは何度でも藁人形をつくるでしょうか。いや、田んぼの子どもであった自分には、時々、そのことが解らなくなるのです。〈もうひとつのこの世〉が何か、ということが。奪われていることが、もはや意識に浮上しないほどの時間の堆積の中で……。先ほどの〈不理解〉〈失語〉とは、意識化できない奪われ、とでも言えばよいでしょうか。
奪われた野にも 春は来るだろうか
奪われた島にも 春は来るだろうか
奪われた声にも 春は来るだろうか
十月に北海道平取町の二風谷を訪ねました。二風谷は集落人口の約8割がアイヌです。二風谷でアイヌ舞踊と唄を披露してくださった平取アイヌ文化保存会の貝澤耕一さんは、わたしたちにこのような話をしました。
「みなさん喜んで北海道へお越しになったと思います。しかし、ここにはわたしたちアイヌが暮らしていたのです。明治維新150年をみなさんはお祝いしているように見える。しかし、わたしたちアイヌにとっては奪われた150年なのです」
二風谷は、ダム建設によるアイヌ民族への文化剝奪をめぐって8年間の裁判闘争が繰り広げられた地であり、アイヌが先住民族であることを高らかと宣言した地です。沙さ流がわる川を守ることは、アイヌ民族の尊厳を守ることと同義でした。
萱野茂さんは、この長い裁判闘争での最終弁論(1996年12月19日)の様子を次のように記録しています。*1
私は先ずアイヌ語でべらべらとまくしたて、その後ゆっくりと、日本語に訳した。「裁判長、あなたをふくめて、この場で居られる多くの方々は、私が言ったアイヌ語をお聞きになられてもまったく理解出来なかったでありましょう。と、いうことは、ここはアイヌの国で私共アイヌ民族がなぜ、よその国の人、日本人によってこの様に裁かれなければならないのか、ここで立つ必要はまったくない様な気がしている。かつてアイヌモシリ=アイヌ民族の静かな大地として、アイヌ民族のみが平和に暮らしていたこのでっかい島、後から雪崩の様に移住して来た日本人が勝手に北海道と名付けた島。地名を見ても4万から5万カ所のアイヌ語地名、そこへ来た日本人たちが、人跡未踏の北の大地に開拓の鍬下ろして幾星霜などと嘯き、アイヌ語の地名の上を歩きながら、人跡未踏とアイヌを人間扱いしなかった。裁判長、あなたの口で、あなたの判断でアイヌ民族を、民族として、先住者としてお認め下さることを、お願いする」
アイヌモシリ*2に アイヌモシリの春は来るだろうか
辺野古の海に 辺野古の春は来るだろうか
澄み切った青い海を埋めていく赤土を今日も見ました。こうして堆積していった時間の先に埋められていった〈傷〉が、いつか疼くのだろうと思うのです。
わたしは時々、思うことがあります。
「春は来るのか」と問われた〈東北〉で、わたしは1度も春を見たことがないのかもしれない、と。あの3月11日以後のことではないのです。わたしは思っています。この土地が歴史を遠くさかのぼったある時点で、かなり凄惨で、深刻なジェノサイドに見舞われたのではないか、と。その記憶に耐えられず、時間の堆積のなかで喪失してしまっているのではないか、ということを。そして、地中深く〈病〉を抱え込んでしまったのではないか、と。そしておそらく、地中深く埋め込まれた〈病〉もろとも春は永久に剝奪されたままなのではないか、と。
わたしはしかし、こうも思っています。わたしたちは奴隷であることに耐え切れずに負けて、結局のところ暴力をふるう側にまわってしまったのじゃないか、とも。わたしが皮膚感覚で〈東北〉を感じるとき、それは決して比喩ではなく、そんな気持ちなのです。加害性と被害性を同じ人格のなかに持ちあわせた土地。
あの3月12日から〈傷〉はさらに深くなりました。〈傷〉は治癒されないまま深くえぐられ、さらなる〈存在の接ぎ木〉が起こっています。次々と、しかも激烈に。忘却に忘却が重ねられ、誰も損なわれた事実を知らず、もはや自分自身が何であったのかさえ分からないのです。
姜さんが教えてくれたように、わたしたちは、その痕跡をたどれるようなささやかな〈うた〉さえ持っていません。荒川の河川敷に埋められた無数の人びとについての〈うた〉を口ずさむこともできないでいます。一緒に歌をうたうときが来るだろうと思います。
わたしはまだ、姜さんの途方もない手紙の全貌を咀嚼しきれてはいないのですが、2018年の年の瀬に、どうにもこうにも追い詰められる機会をいただきました。
それにしても、姜さんもわたしも、なんだか境界の継ぎ目みたいなところにいますよね。あまり居心地は良くないけれど、お互い性分でしょうか。
姜さんからたくさんテーマが出されました。悶々と考える日々が続きます。
また、お返事します。
2018年12月29日 冬将軍の青葉山より
【姜信子・山内明美『忘却の野に春を想う』(白水社)より】