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「海外メディアの駐在記者」が独裁体制に国外追放される、1933年のベルリン

記事:白水社

「報道の自由」が脅かされる現代への警鐘! ダニエル・シュネーデルマン著『ヒトラーと海外メディア──独裁成立期の駐在記者たち』(白水社刊)は、1933年のベルリンで、欧米民主国の駐在記者たちがどのような報道をしていたのか徹底検証。〈フランス・ジャーナリズム会議賞〉受賞作品。
「報道の自由」が脅かされる現代への警鐘! ダニエル・シュネーデルマン著『ヒトラーと海外メディア──独裁成立期の駐在記者たち』(白水社刊)は、1933年のベルリンで、欧米民主国の駐在記者たちがどのような報道をしていたのか徹底検証。〈フランス・ジャーナリズム会議賞〉受賞作品。

最初にナチ・ドイツから国外追放となった新聞記者、
エドガー・マウラー。

 インターネット雑誌『スレート』はマウラーのことを、1933年秋「最初にナチ・ドイツから国外追放となった新聞記者」と紹介した。そんな早い時期に? いったい何をやらかしたのか? [中略]

エドガー・アンセル・マウラー[Edgar Ansel Mowrer、1892─1977]
エドガー・アンセル・マウラー[Edgar Ansel Mowrer、1892─1977]

 ヒトラーが権力の座に就いた1933年1月30日(日付を記すのは、本書〔『ヒトラーと海外メディア──独裁成立期の駐在記者たち』〕で重要な要素となるからだ)、すでに1923年からエドガー・アンセル・マウラーは『シカゴ・デイリー・ニュース』の正式な信任を得たベルリン駐在の特派員だった。7カ月後の1933年秋、彼はドイツから追放される最初の外国人記者となる。理由は? その件について最近の複数の記事を簡単にまとめると、ヒトラー主義のドイツが精神科の病院になっているとマウラーが書いたからだという。

 すべての物事は要約可能である、それが記者業の基本である。しかしながら、いつでもそうだが、事件はもっと複雑だった。ナチ体制にとってとくに許せなかったのは、1933年に刊行された書『Germany Puts the Clock Back(ドイツは時計を遅らせた)』(少し気取るなら『ドイツの退行』、もっと素直には『遅れるドイツ』と訳せるだろうか)が原因だった。[中略]

 マウラーは何を語ったのか? たいして重要でないことだ。まだ孵化前のちょっとしたユダヤ人迫害主義についてである。たとえば、ベルリンのシャンゼリゼとも言うべきクアフュルステンダム通りで、ひとりのブロンドの女性が無精ひげの男から握らされた紙片である、だが男はすぐ雑踏に消えてしまった。紙片には、「あなたはユダヤ人の男と付き合っている。ドイツ人女性にふさわしい行動ではない。もし交際を続けるつもりなら、あなたの名前をわれわれのリストに加えるほか、新生ドイツにおける、あなたのような人物を見分けるためのしるしを着けさせることになろう」と書いてあった。

 マウラーは荒らされたユダヤ人墓地やシナゴーグ〔ユダヤ教会堂〕を数えあげた(1932年夏で109件)。クアフュルステンダム通りでユダヤ人らしき市民が襲われた件数を調べ、それについて語った。ユダヤ人生徒に対する同級生らによる計画的暴行。いかにベルリンの大学生がユダヤ人学友の追放を要求したかについても語った。ユダヤ教徒の青少年運動組織による1932年夏のキャンプ計画を、警察がいかに安全を保証できないとの理由で中止させようとしたか。蛇足ながら、それらすべてはナチ党による政権奪取以前の話である。

 「司法は何をしていたのか?」

とマウラーは問う。

「常識あるすべてのドイツ人はそのように醜悪なことを非難のうえ、違反者らへの厳しい処罰を求めたに違いない。これが違っていた。ある裁判所はユダヤ人への、、、、、、嘲弄が侮辱には当たらないと判断。ヴァイマール共和国をユダヤ人、、、、共和国と呼びたいのならそう呼んでも構わないと。ある紳士はベルリン警察長官を“ユダヤの私生児”呼ばわりしたが無罪だった。ユダヤ人墓地やシナゴーグを荒らした者らの多くは無罪放免か、もしくは微罪処分とされた」。

 どうしてマウラーを長く引用するかというと、当時、有能で社会に溶けこんでいた新聞社の特派員ならばこのような徴候を集められたのだと証明したいからだ。ジャーナリストにとって最も困難なこと、つまり目に見えず告訴もされないため統計にも現れない知覚しがたい迫害を、彼は読者に感じさせることができた。著書のなかで情報源を明かしてはいない。マウラーは何年も経って情報提供者に危険がなくなった時点でそれを明かす。最も質の高い情報提供者は彼の主治医であり、ベルリンのユダヤ教指導者の息子だった。医師はヒトラーが権力を掌握した後も、マウラーに情報を提供しつづけた。マウラーは、自分の電話が盗聴されているのではないかと不安を抱きはじめたあと、喉の痛みを訴えて2週間ごと医師に電話をかけるようにした。そしてこんどは医師のほうが自分の助手が警察に密告していると疑いだすと、2人は出入り口を2つ備えた公衆便所で会うようになった。そこで医師は集めた情報一覧を床に落とす。両人はそれぞれ時間をずらして外に出た。

 


【著者インタビュー動画:Daniel Schneidermann : 1933, la presse internationale face à Hitler】

 

 しかし、その本を貪るように読んだわたしは、それがきわめて貴重な文書であることをすぐに理解しなかった。

 最も興味深いこと、それは出版された日付である。

 本は1933年1月に刊行されていた。

 1月。

 本の出版に必要とされる期間について少しでも知っていれば、それがそれ以前の時期、すなわち1932年だったと想定することは簡単だ。そして1932年には、ヒトラーはまだ権力の座に就いていなかった。確かに、脅威が差し迫ってはいた。確かに、大統領選がヒンデンブルクとヒトラーのあいだで争われてはいた。確かに、突撃隊(SA)がすでに我が物顔に振る舞ってはいた。だがナチズムの温室はまだドイツ行政の内部に設けられていなかった。司法もナチ化されていない。警察もナチ化されていない。学校の教室や大学において、後にはそうなるのだが、まだ人種差別的なことを教えてはいなかった。とはいえ結局のところ、反ユダヤ主義という壊疽えそにより浸食されはじめていたドイツ社会を描くマウラーの絵が、ナチ主義者らにとって我慢のならないものだったという点は信じざるをえない。過激な反ユダヤ主義がヒトラーの権力掌握のまえからすでにドイツ社会と行政を侵していた事実はきちんと頭に入れておく必要がある。マウラーが明らかにしているのはヴァイマール共和国体制下における反ユダヤ主義である。学校の教科書にそう書かれていなくとも、それを前提とすべきである。今回の探検において、わたしには重要な点なのだ。というのも、その前提が海外メディア機関の無関心を説明するからである。反ユダヤ主義の観点からは、ヒトラーが権力を掌握した1933年1月30日をもって根本的な断絶があったとするべきではない。より正確に言うなら、その日付は断絶というよりむしろ継続点と捉えるべきだと思う。

【ダニエル・シュネーデルマン『ヒトラーと海外メディア──独裁成立期の駐在記者たち』(白水社)所収「ドイツのムッソリーニ」より】

 

『ヒトラーと海外メディア──独裁成立期の駐在記者たち』目次
『ヒトラーと海外メディア──独裁成立期の駐在記者たち』目次

 

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