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若者はナチズムにどのようにして引き込まれたか? 『あるヒトラーユーゲント団員の日記 1928-35』

記事:白水社

ナチズム運動に身を捧げ、総統を崇拝して成長する若者フランツ・アルブレヒト・シャル──。アンドレ・ポスタート編著『あるヒトラーユーゲント団員の日記 1928-35 「総統に仕えた」青年シャルの軌跡』(白水社刊)は、シャルが15歳から22歳まで、生活と心情、人種差別と歪んだ愛国心、各組織や団体の内情を生々しく筆記していた日記を収録。ヒトラーが政権の座に就く前後の重要な一次史料。【カラー口絵8頁収録、編著者による解説と注釈を補足】
ナチズム運動に身を捧げ、総統を崇拝して成長する若者フランツ・アルブレヒト・シャル──。アンドレ・ポスタート編著『あるヒトラーユーゲント団員の日記 1928-35 「総統に仕えた」青年シャルの軌跡』(白水社刊)は、シャルが15歳から22歳まで、生活と心情、人種差別と歪んだ愛国心、各組織や団体の内情を生々しく筆記していた日記を収録。ヒトラーが政権の座に就く前後の重要な一次史料。【カラー口絵8頁収録、編著者による解説と注釈を補足】

日記をめぐる顚末

 身分証の写真に写っているのは1人のイェーナ大学の学生。どう見ても何の変哲もない写真だ。いずれにしても当時としてはありふれたものだろう。真面目そうな顔をこちらに向けている。かすかに微笑んでいるようにも見える。唇は真一文字に閉じられ、刈り上げた髪は頭頂部の分け目がいくらか横にずらしてある。どうやら散髪したばかりで、これが当時の流行りの髪型だったのだろう。わざとらしい硬い表情がやや奇異な感じを与えるが、当時、写真を撮るときにはみんなそうするものだった。あるディテールが目を引く。総じて装飾の少ない上着の襟に、金枠の鉤十字ハーケンクロイツ章が留めてあるのだ。このイェーナの大学生はいかにも誇らしげだ。ひょっとすると写真館での撮影用にわざわざこの記章をつけてきたのかもしれない。ひとまずそれを虚栄心と呼ぶことができるだろうが、この虚栄心は必ずしも根拠のないものではなかった。彼がつけていた記章はいわゆる「金章」である。これはすでにワイマル共和国時代に国民社会主義運動に参加していたヒトラーユーゲントの元団員および現役団員の栄誉を称えて、ナチス(NS)独裁政権が1934年以降に授与したものだ。少なくとも年齢的にはとうの昔に卒団していた大学生は、あいかわらずこのNS青少年組織に呪縛されていたようである。学生時代のもう1葉の写真には、戦闘服に身を包んだ精力的な指導者としての姿が写っている。褐色のシャツとネッカチーフ、ハーケンクロイツの記章と腕章。髪は真ん中で分けられているが、この写真でも彼は厳しい表情をしている。1930年代には彼のような国民社会主義者の大学生は珍しくなかった。しかしこのシャルという名の学生は教師たちの目を引いた。職業学校教育学を学ぶために1935年の春に古都イェーナに出てきたとき、彼は旅行鞄の中に大判の日記帳7冊を入れていた。合計1000ページにも及ぶ膨大な彼の日記には、ワイマル共和国時代ならびにNS国家の初期の数年間に彼が経てきたさまざまな体験の報告や記録が事細かに書き込まれていたのだ。

ヒトラーユーゲントのメンバー(1933年)[Bundesarchiv, Bild 119-5592-14A : CC-BY-SA 3.0]
ヒトラーユーゲントのメンバー(1933年)[Bundesarchiv, Bild 119-5592-14A : CC-BY-SA 3.0]

 イェーナ大学は、NS独裁政権の時代に国民社会主義の学術的な拠点と目されていた。俗に「人種の教皇」と呼ばれた人種学者ハンス・F・K・ギュンター〔Hans F. K. Günther(1891─1968)〕は、かつてその大学人としてのキャリアをこの大学で開始した。医学者のカール・アステル、民族理論家のマックス・ヒルデベルト・ベーム、神学者のヴォルフ・マイヤー=エルラッハやヴァルター・グルントマンら、多くの教授たちが、NSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党)の党員として、自分たちの専門分野とNSイデオロギーの橋渡しに汲々としていた。若い大学生シャルは自覚的にこの大学を選んだのだ。1930年代には若き国民社会主義者の多くがここに引き寄せられた。心理学研究所の教授フリードリヒ・ザンダーは、1939年の開戦直前にシャルの日記をタイプ清書させた。日記の価値をすぐに見抜いたからだ。その日記では、すでに1930年の時点でヒトラー運動に心酔していた1人の若者の目を通して、ドイツ史の決定的な数年間におけるNS運動の勃興が克明に記録されており、それがこの日記をまさに唯一無二のものとしていた。たしかに国民社会主義者たちは1933年以降、幹部も末端の党員もこぞって無数の演説や記事、書籍の中で、ワイマル共和国時代の自分たちの記憶を詳細に報告してはいる。しかしそれらの体験報告は、国家のプロパガンダや、少なくとも書き手の自己偶像化に役立ちこそすれ、歴史的真実からは程遠いものであることが多かった。国民社会主義の「闘争時代」に書き始められた若者の手になる日記は、当然ながらめったにない掘出し物と言えるものであるうえ、随所に読み手を引き込むような描写の冴えを見せていた。1933年に解雇されたユダヤ人教授の後釜として採用され、1937年にNSDAPに入党した野心家のザンダー教授は、おそらくこれをNS国家の学術部門で名をあげるチャンスと見たのだろう。この目的で彼は1934年から「雑誌青少年研究」を刊行した。これによって彼は心理学および教育学の基盤を作り上げ、国民社会主義の世界像をドイツの青少年たちにしっかり根付かせようとしたのだった。イェーナの大学生の日記を使って、彼がさらに大掛かりなことを計画していたということも十分にありうる話である。もっともこれは実現には至らなかったが。

軍事訓練で野外電話線敷設を行うヒトラーユーゲント(1933年)[Bundesarchiv, Bild 133-032 : CC-BY-SA 3.0]
軍事訓練で野外電話線敷設を行うヒトラーユーゲント(1933年)[Bundesarchiv, Bild 133-032 : CC-BY-SA 3.0]

 日記のオリジナルは戦争中にどうやら散佚さんいつしてしまったらしいが、ザンダーは清書させた日記およそ500ページ分を保管していた。1945年2月9日の空襲で心理学研究所も瓦礫の山と化したが、ザンダーの秘書がかろうじて掘り出した文書の中にこの日記も含まれていた。秘書自身はその数日後の新たな空襲で落命することになる。NS独裁政権が軍事的に破綻したあとでザンダーはナチス時代の過去を問われ、1945年12月に大学の新経営陣から解雇された。その原稿を彼は最初、ポツダムに持っていった。その後1951年には西ベルリン、1954年にはボンに携行し、そこで段ボール箱に入れて自宅の屋根裏部屋に保管し、そのままほとんど忘れてしまった。新生ドイツ連邦共和国の時代となったが、国民社会主義のもとで自分たちが果たした役割と批判的に向き合う勇気を持つドイツ人は、きわめて少なかった。NS国家に積極的に加担した学者たちの多くは、1945年以降、虚言を吐いたり過去の行動を糊塗ことしたりしないまでも、自らの関わりについては頑なに口を閉ざしたのだ。1958年にボン大学を退官するまで自身の研究を継続できたザンダーも、きっとこの日記に今一度陽の光を当てたいとは考えなかっただろう。そんなことをしたら不都合な事実がいろいろと露見してしまうからだ。1966年にザンダーは日記の清書版を元大学生、つまりかつてそれを書き、教授であった自分に預けてくれたフランツ・アルブレヒト・シャル当人に返還した。

ヒトラーユーゲントの金属屑収集活動(1938年)[Bundesarchiv, Bild 133-375 : CC-BY-SA 3.0]
ヒトラーユーゲントの金属屑収集活動(1938年)[Bundesarchiv, Bild 133-375 : CC-BY-SA 3.0]

 学者にとっても、関心を持つ一般人にとっても、日記というものには特別な魅力がある。公式の印刷物においてはほとんど触れられていないか、まったく書かれていないことが、日記を読むことで具体的に把握でき、あるいは少なくとも漠然とした予感を感じ取ることができるのだ。日記に書かれているのは、大きな歴史の小さな側面、つまり主観的、個人的、そしてときにはかなり感情的でもある側面である。大きな歴史は、見渡しがたく入り組んだ構造や無数のデータ、固有名のせいで、素人にはたとえ関心があっても、少々近づきがたいものに見える。NS独裁体制という問題圏で日記への関心が高いのは、そうした歴史の晦渋かいじゅうさが私的文書の中では、少なくとも表面上は理解可能に見える点が一因かもしれない。日記の記述には人間味がある。非官僚的で具体的、しばしば悲劇的、そしてときには感動的でもある。日記は近過去のドイツ史における道徳的な破局に人間的な相貌を与えてくれるようにも思われる。ただし歴史家たちは、ここで日記の読者を待ち受ける危険をも指摘する。それは妥当な指摘である。なぜなら日記はその書き手の視点と解釈のみを伝えるものであり、出来事の客観的な鏡像ではなく、そもそも全体的な写像でもないからだ。もちろんこの事実が日記の史的価値をおとしめるということではない。例えばアンネ・フランクの日記は世界中の何世代もの人々の心を打つ。それは彼女の日記が、NS体制のさまざまな犯罪行為や民族虐殺を、学問的な事実、人名、地名、数値といった、それ自体少なからず重要ではあるが狭い研究領域の中に押しとどめることなく、それらが実は生身の人間によって体験されたことであるという点を気づかせてくれるからである。また当然なことだが、例えばヨーゼフ・ゲッベルスやアルフレート・ローゼンベルクのような加害者、犯罪者側の日記にも価値がある。それらはNS独裁体制の声高なプロパガンダを脱魔力化し、国民社会主義が文明の只中に口を開けた奈落であったことを明らかにし、NS独裁体制のシステムを決定づけた狂信的な高官たちの偏狭さを暴き立てる。彼らの日記は、ときに読むに堪えない部分もあるが、NS国家のメカニズムと権力構造に関して、私たちの理解を大いに進めてくれたのだ。

鉄十字章を受賞する16歳の少年[Bundesarchiv, Bild 183-G0627-500-001 / CC-BY-SA 3.0]
鉄十字章を受賞する16歳の少年[Bundesarchiv, Bild 183-G0627-500-001 / CC-BY-SA 3.0]

 フランツ・アルブレヒト・シャルの日記はそれらとは異なる性格を持つ。それは彼の日記が国民社会主義を、まずは誘惑された青少年の目から、次いで熱狂した党員の目から描き出しているからである。日記への書き込みは1928年から1935年までのもので、それはちょうど共和制の危機に乗じる形で国民社会主義が隆盛し、独裁が樹立されていく時期に当たる。1930年の年末にヒトラーユーゲント(HJ)に加入したことで、当時17歳だったシャルにとって、一直線にNS運動のイデオロギーと内部構造へと続く道程が始まり、最後まで彼はこの道を降りることがなかった。

 いわゆる「闘争時代」のNS青少年組織については、少なくとも1933年以後の時期と比べる限り、さほど知られてはいない。この組織は、1933年のヒトラーによる権力掌握後の「強制的同一化」政策を通じて拡大・拡充され、1939年以降は、いわゆる「青少年奉仕義務」によってすべての青少年の参加が強制される官僚主義的な装置となっていくのだが、シャルの入団当時、その機能はまだそれとはかなり異なっていた。初期のヒトラーユーゲント(HJ)ははるかに小規模であり、その構造は部分的に非常に脆弱で、その発展状況もカオスそのものだった。しかしそこには、1933年以後、無数の規定や条例に基づき若者たちにナチス思想を叩き込むこととなる同じ名称の洗脳装置に比べ、より生き生きとしたダイナミックな側面もあって、参加した青少年たちにはより強烈な作用を及ぼしたかもしれない。

アンドレ・ポスタート編著『あるヒトラーユーゲント団員の日記 1928-35 「総統に仕えた」青年シャルの軌跡』(白水社)目次より
アンドレ・ポスタート編著『あるヒトラーユーゲント団員の日記 1928-35 「総統に仕えた」青年シャルの軌跡』(白水社)目次より

 NS独裁体制の中で重要なポストに就いた者のうち、少なからぬ者が青少年期にこの頃のHJに所属し、そこからきわめて大きな影響を受けていた。HJ運動の「古参団員たち」を顕彰するためにNS独裁体制は、12万個を超えるHJ勲章を若者たちに授けた。対象者はいずれもワイマル民主制に対する闘いの頃から運動に参加していた若き闘士たちで、フランツ・アルブレヒト・シャルもその1人だった。こうした背景を考えるならば、再発見された彼の日記はきわめて優れたドキュメントであると言えよう。第一にこの日記は国民社会主義が子供たちや青年たちに放散しえた魅力を明るみに出す。第二にそれはある政治運動が行使した危険な力をも明らかにする。その政治運動はすでに早い時期から、生の意味を求め、自分探しをしたいと考える若者たちの欲求を巧みに利用する術を心得ていたのだ。

 

【アンドレ・ポスタート編著『あるヒトラーユーゲント団員の日記 1928-35 「総統に仕えた」青年シャルの軌跡』(白水社)所収「第1章 序文」より】

 

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