現代の世界を理解するには欠くことのできない「イスラーム」のすべて
記事:朝倉書店
記事:朝倉書店
本訳書の原著“The Oxford Dictionary of Islam”は、宗教・国際問題を専門とするジョージタウン大学教授ジョン・L. エスポズィトを編集主幹に据えた、世界の第一線の研究者111名の執筆になるイスラーム辞(事)典である。オックスフォード大学からは同じエスポズィト教授を編集主幹として(編集委員も一部重複)、オックスフォード現代イスラーム世界百科事典“The Oxford Encyclopedia of the Modern Islamic World”(全4巻)が1995年に出版されているので、本書(原著)はいわば、その簡便な集約版とでもいうべき位置づけになろう。
さて、本訳書の原著が出版されたのは2003年のことであり、ほどなくして邦語訳の企画はたてられたものの、さまざまな事情が重なり、読者諸氏が手にしている日本語版は、結局2020年、つまり原著の出版から17年後にして漸く日の目を見ることとなった次第である。一方、イスラーム世界を巡る情勢は刻々と変化し、そうした変化を考慮に入れることなくしては、今や世界の動きを的確に把握できないような状況が一段と顕著になってきていることは火を見るよりも明らかである。
そうした状況に対応すべく、本邦でも現在までに数点のイスラーム辞(事)典がすでに世に問われている。おもなものとしては、岩波書店刊の『イスラーム辞典』、平凡社刊の『新イスラム事典』、明石書店刊の『イスラーム世界事典』が挙げられよう。注目すべきは、これら3点が奇しくも同じ年、つまり2002年に出版されていることである。そして、これらのいずれもが、当時の日本における第一線の研究者の総力を挙げて執筆・編集されたことは言をまたない。ちなみに、岩波書店刊『イスラーム辞典』の執筆陣は248名と一番多く、次いで平凡社刊『新イスラム事典』が170名、そして明石書店刊『イスラーム世界事典』116名となっている。もちろんのこと、執筆者の顔ぶれは、これら三者の間でかなりの重複がみられることも理の当然であろう。
いわば本邦における「イスラーム辞(事)典の年」とでも呼べるような2002年という時点に出版が集中したことの背景に、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件があったことは、容易に想像される。ところが、それからすでに18年強の歳月が過ぎようとしている今日まで、差し迫った時代の要請は常にあったにもかかわらず、本邦においては同種の辞(事)出版の声は絶えて久しかったのである。そうした意味で今回出版の運びとなった本訳書は、本邦においては久方ぶりのイスラーム辞(事)典であり、しかも現代イスラーム世界の動向にかかわる立項に重きを据えた本訳書は、この間の空白を埋めるに足る十分な構成と内容の質の高さを備えている待望の一書といえる。
以下、本書の特徴をいくつか紹介しておきたい。
日本の読者の視点からして、なんといっても本訳書の最大の注目点は、前記3辞(事)典の出版から現在に至るまでの、イスラーム世界における動向に関する概要を網羅している点であろう。特に本書は現在進行形で推移するような内容をもつ立項を積極的に行っている点、イスラーム世界のみならず、アメリカ大陸やヨーロッパなどにおけるイスラーム系の諸組織、機関、団体の説明に多くの紙幅を費やしている点も特徴として指摘できるであろう。ちなみに、原著の出版から本訳書の出版に至る17年の間に、原著の記述が実態にそぐわなくなっていると思われる個所、あるいは、大きく変化をきたしたと判断される個所については、翻訳者の責任において、しかるべき加筆・訂正を行っている。たとえば、随所で言及される人口データなどに関しては、可能な限り最新のデータに書き改めた。またたとえば、「ビン・ラーディン」の項目では没年(2011年)を書き加え、「アヨーディヤー事件」の項目では「2019年11月、インドの最高裁判所は、ヒンドゥー寺院建立のために、建立を統括する財団に土地の引き渡しを命じる判決を下した」ことを加筆、さらに「イバード派王朝」の項目では、「現在はスルターン・カーブースが首長の座にある」とする原文を、「1970年以降はスルターン・カーブース・ビン・サイード[2020年1月10日没]が首長の座にあった」と書き改め、「ブーサイード朝」の項目では「1970年以降は、スルターン・カーブース・ブン・サイード[2020年1月10日没]が統治者として政治システムの近代化につとめたが、政治的・宗教的反対派を抑圧した」と原文の一部改訂を行った。
次に、イスラーム辞(事)典と銘打っていることからも明らかなように、本書は、信仰・思想体系としてのイスラームそのものの理解に資することを主目的のひとつとしている。そのための配慮として、「断食」、「イッダ」、「ジズヤ」といった、イスラームに特徴的な項目はもちろんのこと、「賭博」、「死」、「犬」、「自殺」、「養子」、「月経」などの一般的項目に関しても、逐一関係するクルアーンの章や節への言及が付されている。
この種の辞(事)典の立項に欠かせないのが、イスラーム圏に属する諸国や諸地域におけるイスラームの歴史と実践の特徴である。この点に関しても、「~におけるイスラーム」という形式で立項し、69ヶ国についてイスラームを基軸に据えた簡にして要を得た説明がなされている。しかもその中には、イスラーム的関心からは通常あまり取り上げられない「トリニダード・トバコ」なども含まれている。国家の枠を超えた広域圏としては、10地域が扱われている。ここでも「インド洋諸社会」、「太平洋地域」、「サハラ以南のアフリカ」など、ややもすると見落とされがちな諸地域のイスラームに関する適切な言及が目にとまるであろう。
最後に、言わずもがなの指摘になるが、本書の執筆陣には欧米人のみならず、イラン系、アラブ系、トルコ系など、さまざまな背景をもつ研究者が含まれていることもあり、本邦で出版された諸イスラーム辞(事)典とはひと味違った説明になっている項目も多数ある。そうした意味では、本邦で出版された諸イスラーム辞(事)典とそれぞれの項目を比較対象しながら、本書を読み進めていただくのも、興味深い試みのひとつとなろう。
2020年4月 八尾師 誠(『オックスフォード イスラームの事典』まえがきより)