ソヴィエトで最も安全で進んだ原発と言われたチェルノブイリは、なぜ事故を起こしたのか?[前篇]
記事:白水社
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【著者動画:Life Before the Chernobyl Disaster】
回転翼の鈍い音が近づいてくる。黒い鳥の群れが空へ舞い上がる。地上には凍った牧草地が広がっている。小川や沼が点々と真珠のような光を宿している。プリーピャチ湿原は冬である。重く垂れ込めた雲の下で、ヴィクトル・ブリュハーノフは足を膝まで雪に埋めて、息をあえがせている。モスクワからノメンクラトゥーラ〔共産党指導部の特権階級〕が来るのを待っているのだ。
ヘリコプターが着陸した。閣僚や党官僚たちが一団となって、凍原に重い足を運ぶ。厳しい寒気が毛織の外套を通して刺し込み、毛皮の帽子の下へ忍び込んだ。ソヴィエト連邦動力電化相、ウクライナ共和国の指導者ら、そしてブリュハーノフが一堂に会したこの場所こそ、これから始まる画期的な大事業の舞台となるのだ。ブリュハーノフはまだ34歳だった。頭が良く野心的で党への忠誠心が強い。新たな原子力施設を建設する使命を帯びて西ウクライナへやってきた。ソヴィエト中央の計画によれば、それは地球上で最も大規模な原子力発電所となるはずだった。
彼らは川岸でコニャックのグラスを飲み干して、事業の成功を期した。専属カメラマンの求めに応じて、長い柄が付いたシャベルと測量具の間に並んだ。お歴々が乗ってきたヘリコプターが背後にうずくまっている。動力電化相のネポロジヌイが、1センチ、また1センチと鉄のように硬い凍土に起工のシャベルを入れ、一同が見守った。
これは1970年2月20日の光景である。ソヴィエト指導部は数か月の議論を経て、新たな原子力発電所の名称を決めた。やがて世界中にソヴィエトの原子力技術の実態を知らしめる運命の原発である。キエフ北原発、西ウクライナ原発、プリーピャチ原発など、いくつかの名称が候補となった。ウクライナ共和国の共産党を率いるボリース・シチェルビツキーが最終的に決定書に署名し、地域の中心地であるチェルノブイリをそのまま、原発の名にも冠することになった。チェルノブイリはブリュハーノフや彼の上司たちが起工式を催した雪原から14キロほど離れて位置する。人口1万人の小さな町だが歴史は古い。
チェルノブイリは12世紀にできた町だ。住民は800年にわたり、ウクライナの北とベロルシアの南で、川の魚を捕り、牧草地で牛を飼い、密林にキノコを探して暮らしてきた。ポグロム〔ユダヤ人などの大虐殺〕、粛清、飢餓、戦争など幾多の困難を経て、チェルノブイリにようやく平穏な時代が訪れたのは20世紀も後半になってからだった。地域のかなめとして、わずかな数ながら工場が稼働し、病院、図書館、文化会館を備えるようになった。小さな造船所が、近くで合流するプリーピャチ川とドニエプル川を行き来するはしけや、引き綱を作っていた。ドニエプル川流域では平坦な泥沼や湿地、湿地にできた森が際限なく広がり、約32000もの小川や支流が網の目のように、ウクライナの半分ほどもある領域を覆っていた。原発新設の予定地からわずか15キロほど下流で、これら無数の水流が1つになり、「キエフ海」と呼ばれる貯水池に向かう。共和国の首都であるキエフまでは、南東へ車で約2時間。貯水池の水は発電に使用するほか、250万人のキエフ市民の飲料水となる。
ヴィクトル・ブリュハーノフが一足先にやって来た時、チェルノブイリにはもう冬が訪れていた。彼はソヴィエツカヤ通りにある町で唯一のホテルに投宿した。わびしい平屋の建物だった。彼はやせているが強靭な体軀を持ち、細い顔に不安の影を宿していた。肌は褐色で、頭髪は短い巻き毛だった。4人兄弟の一番上で、両親はロシア人だった。中央アジアのウズベキスタン共和国で、山並みに囲まれて育った。風貌が変わっていたので、チェルノブイリのKGB中佐は彼と初めて会った時、若くして所長に抜擢された男がギリシア人ではないかと思ったほどだ。
彼はホテルのベッドに腰を下ろし、書類かばんを開いて、1冊のノート、何枚かの設計図、木製の計算尺を取り出した。所長とはいえ、まだ部下は誰もいない。原発の職員は彼1人だった。彼は原子力について、ほとんど知らなかった。ウズベキスタンではタシケントの技術大学に学んだ。専門は電気工学だった。ウズベキスタンの水力発電所でタービン部門に職を得た。たちまち頭角を現し、出世の階段を駆け上がった。ウクライナ東部工業地帯のスラヴャンスクで、共和国最大の石炭火力発電所を立ち上げる責任者となった。モスクワの動力電化省にとっては、忠誠心と事業をやり遂げる能力さえあれば、専門知識や経験はさほど大切ではない。技術的な問題は専門家にまかせておけばいいのだ。
1970年代の初頭、西側に追いつくために電力需要が膨張していた。ソヴィエト連邦は発電用の原子炉を量産する突貫計画に乗り出した。ソヴィエトは1954年、電力を生産する原子炉を世界に先駆けて完成させた。当時は原子力技術の分野で世界を先導し、資本主義陣営が驚くほどの技術力を誇った。しかし、その後は取り戻せないほどの遅れが生じていた。アメリカの宇宙飛行士が月に足跡を残した1969年7月、ソヴィエトの動力電化相は原子炉増産の大号令をかけた。ソヴィエトのヨーロッパ部の随所に原子力発電所を新設する野心的な目標を設定した。大型の原子炉を大量生産し、フィンランド湾からカスピ海にかけて網の目のように配置しようと目論んだ。
1960年代も終わりに近づいたある冬、動力電化相はブリュハーノフをモスクワに呼び、新たな任務を提案した。それは動力電化省の威信をかけた大事業だった。ウクライナ共和国で最初の原発となるだけでなく、動力電化省が新しい分野に乗り出すことを意味していた。同省が原発を一から立ち上げるのは初めてだった。それまでは中型機械製作省が原発の建設を担っていた。当時の中型機械製作省は核兵器生産の隠れ蓑だった。秘密を守るために、当たり障りのない名称が付いていた。ブリュハーノフは難題に直面しても気後れするような男ではない。「赤い原発」の建設計画を先頭で牽引する役割を嬉々として受け入れた。
重い責任を担った若い技術者は1人でホテルのベッドに座り、あれこれと考えを巡らせた。何もない大地に4億ルーブルもの巨大な事業を立ち上げようというのだ。建設に着手するのに必要な資材のリストを作成し、計算尺でコストを計算した。必要経費の試算が終わると、キエフの国立銀行に提出した。彼は毎日のようにキエフにバスで通った。バスが走らない日は、路上で車を止めて乗せてもらった。予算を管理する専門家もいなければ、待遇や給与も決まっていなかった。彼は無給で働いた。
原発本体の建設を始める前に、資材や機材を現場に運ぶ基盤を一から生み出さねばならない。ヤノフという近くの町から鉄道の支線を引き、川に新しいドックを造り、砂利や強度の高いコンクリートを運搬した。作業に携わる男女の数は、どんどん増えた。キャタピラーで移動する掘削機や、ベラーズ〔ベロルシア自動車工場〕の大型ダンプが現れ、森を切り開き、陰鬱な風景を貫く一筋の道が現れた。近くの森に当面の宿泊場所を定めた。床の下に車輪が付いて移動ができる木製の小屋を幾つも建て、ブリュハーノフ自身や新たに雇った簿記係、現場に常駐する一部の作業員が寝泊まりした。小屋には調理場、薪ストーブを備え付けた。この小さな集落を「レスノイ村」(森の村)と命名した。寒気が緩むと、ブリュハーノフは4年生まで学べる小学校を開設した。1970年8月、妻のワレンチーナ、6歳の娘リーリヤ、よちよち歩きの息子オレークがやってきて、家族一緒の暮らしが始まった。
ヴィクトル・ブリュハーノフとワレンチーナは結婚して最初の10年を、社会主義の夢である電化事業に捧げた。夫婦が立ち上げから関わった発電所の建設は、この6年でチェルノブイリが3件目である。ワレンチーナとヴィクトルは若い頃、タシケントから約100キロ離れたアングレンで、ともに専門職として働いていた時に出会った。ワレンチーナはタービン技術者の助手で、ヴィクトルは大学を出たばかりの研修生だった。彼は大学に戻って修士号を取るつもりだったが、上司に引き止められた。「待ち給え」と彼は言った。「未来の妻との出会いが待っているぞ!」。1959年の冬にヴィクトルとワレンチーナを引き合わせたのは、2人の友人たちだった。その1人はヴィクトルに「彼女の目を見たらイチコロだぜ」と請け合った。2人は1年にわたりデートを重ね、1960年12月にタシケントで結婚した。リーリヤが生まれたのは1964年である。
ワレンチーナにとってレスノイは魔法の村だった。わずか10余りの家族が粗末な小屋で暮らしていた。夜になってブルドーザーや掘削機の轟音が消えると、一帯をしなやかな静寂が包む。暗闇にランタンが灯り、フクロウの鳴き声が聞こえる。計画を達成するたびに、モスクワの指導部の指示で著名人たちが激励と慰問のためにやってきた。ニコライ・スリチェンコがジプシーの楽団を率いて来たこともある。一家は、さらに2年の月日をこの地で過ごした。この間に「突撃作業班」が原子炉を据える場所に最初の穴を掘った。砂の多い地質を克服して長さ11キロ、幅2・5キロという巨大な人造湖もできた。4基の原子炉を動かすためには、数百万立方メートルの冷却水が必要となる。その水を蓄えるためだ。
ヴィクトルが引き受けたのは、何もない川岸にアトムグラード(原子力の都市)を立ち上げる事業だった。原発が稼働すれば、数千人の職員が家族と住む場所が必要となる。彼らが居住する街を設計し、プリーピャチと命名した。1972年には、わずかな数とはいえ、宿舎や集合住宅が完成間近となっていた。建設を急いだために、新しい街には当初、舗装道路がなかった。地域に暖房を供給する施設もなかった。それでも新しい住民たちは若く元気一杯だった。原子力技術者の第一陣は原子力の将来性を心から信じ、新しい技術で祖国を変革する希望に燃えていた。だから不便な生活も気にならなかった。夜は外套を来たままで眠った。
ワレンチーナとヴィクトルは1972年の冬、街のちょうど入り口にあるレーニン通り6番の建物に入居した。寝室が3つあった。まだ学校が完成していなかったので、リーリヤは毎日、通りがかりのトラックや乗用車に乗せてもらって、森に囲まれたレスノイの学校まで通った。
ソヴィエトの規則によれば、プリーピャチと原発の間に「衛生地域」を設け、そこでは建物を建ててはならない。低レベルの電離放射線〔原子や分子から電子を分離させる放射線。人の細胞を通過する時にも同様の作用を及ぼす。通常は電離放射線を単に放射線と呼ぶ場合が多い〕から住民を守るためだ。しかしプリーピャチと原発は、直線距離でわずか3キロ、車ならわずか10分で移動できた。街が大きくなるにつれ、住民は規則を無視して「衛生地域」に掘っ建て小屋の別荘を設け、自家菜園で野菜を育てるようになった。
【アダム・ヒギンボタム『チェルノブイリ 「平和の原子力」の闇』第1部「第1章 ソヴィエトのプロメテウス」より】