「誰も望まなかった戦争」が、なぜ起きたのか?[後篇] フレデリック・テイラーさん(英国の歴史家)
記事:白水社
記事:白水社
1939年8月の第3週の終わり、ヒトラーはこれまでで最も鮮やかで予想外の、そして混乱をもたらす芸当をうまくやってのけた。8月22日の『フライブルク新聞』の夕刊では、第1面に全段抜きの大見出しを掲げて、次のように宣言した。「大ドイツの外交、国際社会に一大センセーションを巻き起こす世界史的重要な事件」と。
ドイツとソ連のあいだに不可侵条約が締結されたことは、確かに世界的なセンセーションであった。だが、大多数のドイツ人は、この発表を聞いてそれ以上に衝撃を受けた。彼らは6年半ものあいだ、モスクワこそが諸悪の根源であり、後進的でアジア的、ユダヤ人に支配された、世界に危機をもたらす存在であると言われ続けてきたのだ。衝撃に続いて動揺が生まれた。ヴェストファーレンのナチ党指導部の報告によれば、ほとんどの国民はロシアとの提携について軍事的な観点から理解はしているものの、「政治的、もしくはイデオロギー的には、党員たちでさえ、しばしば動揺をきたしている」とのことであった。
リッベントロップが調印式に向けてモスクワ行きの飛行機に乗り込んだときでさえ、イギリス、フランス、そしてポーランドの軍の代表者たちはモスクワに留まり、ポーランド防衛のための同盟について、ソ連政府との交渉がまとまるよう、なおも望みをかけていた。イギリスでは政府、報道機関、国民ともに、独ソ不可侵条約締結のニュースに驚愕し、すぐには信じられないほどだった。というのも、ちょうどその前日、独ソ間での貿易協定の締結が報じられていたが、『デイリー・エクスプレス』は読者に向けて、「この協定の締結に政治的な意図は含まれていない。ロシア人は貿易関係を政治関係から完全に切り離して考えている」と断言していたのである。
独ソ間の条約締結の可能性は過去数週間にわたって何気なく話されてはいたが──結局はその可能性は低いと考えられていた──、外務省の大物であったアレクサンダー・カドガンの日記によれば、イギリス政府は当日の朝早くになってはじめて、この条約が締結されることを知ったようである。アメリカ政府はどうやら独ソ間の交渉について充分な情報を持っていたようであり、実際、8月17日にロンドンに最新情報を伝える電信を送っている。だが、これには重要であることを示す印が付けられておらず、8月22日まで外務省の中央部に届いていなかったのである。外務次官補R・A・バトラーは、モスクワでの衝撃的な出来事に対してなぜ事前に対策を講じることができなかったのかと、下院で激しく責め立てられた。そして彼は、哀れにもカドガンにこう話している。「昨夜、わたしは全員から問いつめられました。『我々の情報機関』はいったい何をしているのかと」。
政府はさしあたり、厳しい姿勢で臨むことに決めた。8月23日、エクスプレス紙は全段抜きの大見出しで、イギリスがポーランドを支援することと、新たな国土防衛法(DORA)が1週間以内に導入されることを報じた。これは1914年に可決されたものと同じく、政府に戦時緊急権を付与するものであった。イギリス大使はベルヒテスガーデンのヒトラーに覚書を送り、そのなかで新たにソ連と締結された条約がポーランドに対するイギリスの義務に何ら変更をもたらすことはないと通告した(そのような考えは「重大な誤りである」としている)。しかしながら、こうしたヒトラーに対するチェンバレンの厳しい言葉も、覚書の最後に加えられた余計な一言によって、その効果が著しく弱められてしまった。すなわち、そのなかでチェンバレンは、ポーランド側との意見の相違について平和的な解決策を模索するようヒトラーに求め、そのためのいかなる努力にもイギリスは協力すると約束したのであった。その晩、カドガンは疲れた様子で日記にこう書いている。「こういう危機には本当にうんざりだ。こんなことをしていてもヨーロッパで長続きしないだろう」と。
イギリス外務省は可能な限りのあらゆる方法を駆使して、ドイツ人の動きを正確に読み取ろうとしていた。ドイツ国鉄と帝国指導部のあいだで意見が対立しているという噂があった。8月の不確実な日程で列車を走らせなければならなかった国鉄の官僚たちは、国防軍の動員か、もしくは9月の第1週に予定されているニュルンベルク党大会のための輸送準備(それも輸送規模からして国鉄にとってこれまでで最大の挑戦であった)か、どちらか一方だけが可能であり、両方を行なうのは無理だと明言していた。独裁者はどちらを選ぶのだろうか? カドガンは8月20日に次のように書いている。
最初の情報は彼〔ヒトラー〕がニュルンベルク党大会を選んだという趣旨であるが、わたしは提督(*1)とヴァン(*2)の情報がともに次の点で一致していることも理解している。すなわち、今回の大会は前回と比べてむしろ儀礼的なものになるだろうということである。というのも、鉄道は軍の輸送に供されるからであり、今回の大会には徒歩や車で現地に行ける人びとだけが参加するのだろう。
*1 MI6の長官、ヒュー・シンクレア提督のこと。
*2 ロバート・ヴァンシッタートのこと。
8月23日、カドガンは「全ドイツ軍の準備が進んでいる」と報告しているが、ポーランドへの攻撃がこの週の終わりに計画されているという、ドイツ国内の反対派からの情報が入っていたにもかかわらず、彼はなおもこれを「神経戦」の一部として考えようとするきらいがあった。
その翌日、8月24日は「ブラック・デー」だった。それにもかかわらず、イギリス外務省では、ムッソリーニに働きかけてヒトラーの動きにブレーキをかけようとする計画に着手し始めていた。カドガンはハリファックス外相に次のように言った。「ただ1つやるべきことは、ムッソ〔ムッソリーニのこと〕にこう伝えることだ。「我々はポーランドに対して、ドイツのダンツィヒ併合を認めるよう、強く促すことはできない。だが、もしヒトラーが(a)ポーランドの諸権利を絶対に保護すること、そして(b)和解が国際的に必ず保証されること、これらに同意するのであれば、我々もこれを土台としてポーランドと話ができるかもしれない」と」。チェンバレンもこれを承認し、さっそくローマに電信が送られたのであった。
その一方で、8月25日の午後早くに、ヒトラーはすでに「白の場合」(ポーランド侵攻計画)の指令を出しており、ドイツ軍は国境地帯に集結し始めていた。攻撃開始は8月26日の未明に予定されていた。
しかしながら、ヒトラー・スターリン条約への反応として、8月25日の同じ時間帯に、イギリスとしては珍しく迅速にポーランドとの相互援助条約を正式に締結した。さらにその日の午後、イタリアはまだドイツと一緒に軍事行動を起こすことができないとヒトラーに伝えたのだった。ムッソリーニは戦争の準備ができていなかったのである。ヒトラーも最後になって躊躇した。その夜、彼はポーランド国境へと向かうドイツ軍の歩みをいったん停止したが、ドイツ軍はすでに──特にポンメルンと東プロイセンにおいて──大きく前進していた。
8月26日の土曜日、1939年のニュルンベルクの「平和の党大会」は公式に中止となる。そして、それから数時間後、ヒトラーは明らかに落ち着きを取り戻した様子で、「白の場合」を改めて発令したのだった。ポーランド侵攻の日は、今度は9月1日の金曜日とされた。
8月27日の日曜日、今後は多くの日用品について配給券が導入されることがベルリンで発表された。たとえこれが本当に──カドガンが推測したように──敵の動揺を誘うためのドイツ人による巧妙な偽装工作の1部であり、戦争を起こすふりであったとしても、それは不気味なほど現実味を帯びていたのだった。
8月の後半に入って展開されたポーランドに対するプロパガンダ・キャンペーンは、これ以上にないほど過激なものであった。DNBからの配信が毎日あり、ドイツの新聞はこれに基づいて記事を掲載しなければならなかった。その内容は読んでいて苦しくなるような、残酷で不気味な話ばかりであり、読者を戦慄させるものである。危機的な状況のなかでポーランド政府が講じたどのような措置も記事のネタにされ、あら探しをされ、悪意ある解釈がなされた。国内のドイツ人マイノリティにかんするポーランド当局のどのような行為も同じである。そしてポーランド人とドイツ人の衝突はすべて、──とりわけダンツィヒや回廊においては──反ドイツ的な蛮行として、あるいは少なくとも挑発行為として描かれたのであった。過激な国家主義運動が活発化していたポーランド周辺部の最も奥まった地域のことが、著しく反ドイツ的かつ好戦的な言動のために取りあげられ、それがあたかもポーランドの公式の政策であるかのように描かれていた。
第一次世界大戦前の数十年のあいだ、ベルリンの政府は、18世紀末にプロイセンによって併合されたかつてのポーランド領に、ドイツ人が入植することを積極的に奨励していた。だが1918年以降、すなわちポーランドが独立を回復し、これらの地域を新たな国家の一部として取り戻してから、このプロセスは逆になった。「回廊」と呼ばれるようになった地域、すなわちかつての「西プロイセン」(ポズナン周辺)およびポーランドのオーバーシュレジエンには、以前は相当な数のドイツ人が住んでいたが、追放もしくは自発的な移住の結果、この地域のドイツ人人口は著しく減少した。ポーランドに留まったドイツ人マイノリティ──1931年の人口調査によれば、合計でおよそ75万人であり、人口の2・3パーセントであった──に対する差別があったことは疑いないだろう。戦間期におけるドイツ人住民に対するワルシャワ政府の政策は、同化するか国外退去するかの二択を容赦なく迫るものである。ゆえに、ポーランドはこの点では明らかにチェコスロヴァキアよりも不寛容であった。ただし、もちろんそれがジェノサイドにまで発展することはなかった。
1939年の初めまで、ヒトラー政権はポーランド政府が行った民族ドイツ人に対する不当な扱いについて、まだ控えめな形で述べていた。ヒトラーはドイツの軍事力を強化すると同時に対ポーランド関係の安定化を図っていたため、結局、1934年にポーランドと友好不可侵条約を締結した。しかしながら、ズデーテンラントが吸収され、プラハも占領され、そしてナチ政府が次なる領土の獲得のためにさらに東へと目を向け始めると、ゲッベルスと彼のプロパガンダ機関は一転して、ポーランド人が「彼らの」ドイツ人に対してどれほど卑劣であったかを特に宣伝するようになった。ほんの少し前の1939年1月30日の国会演説まで、ヒトラーはドイツとポーランドの友好関係を「ヨーロッパの政治生活の安定化要因」であると言っていたのであるが。
4月1日にヴィルヘルムスハーフェンで行われた演説のなかで、ヒトラーは卑劣な「封じ込め」政策なるものに対する反英キャンペーンを開始したのであるが、ポーランドについては名指しで言及することはなかった──ただし、これと同じ日にヒトラーは国防軍に命令を下し、1939年9月1日以降いつでもポーランドに侵攻できるように準備をさせていた。いまやその期限が目前に迫っており、これにあわせて反ドイツ的な蛮行の物語が溢れ出したのであった。これが外国のメディアや政府の同情を呼び起こし、そしてなによりもドイツ国民自身に緊急の軍事介入の必要性を納得してもらうために効果的な手段であることは実証済みだった。1939年8月18日にDNBがドイツの新聞各紙に配布した1枚刷りの資料には、以下のような典型的な見出しの例が挙げられている。
ポーランド、AO(*3)の政治指導者を虐待
(「民族ドイツ人に対するポーランド当局の不当な干渉は、この24時間のうちにも次々と具体的な形で表れているが、それらはまさにショーヴィニズム〔排外〕の極みである。ドイツ人の女主義性や少女らが受けている野蛮な虐待は、ポーランド人の完全な道徳的劣等性を示している。」)
東オーバーシュレジエンではパニックの兆し
ポーランド軍、ポンメレレン〔ポメレリア〕(*4)のドイツ人を虐待
100人のドイツ人、またもや逮捕される
ポーランドの監獄でドイツ人が殴り殺される
ダンツィヒの鉄道員、ポーランドで逮捕される
ポーランドはヴァイクセル川〔ヴィスワ川〕のイギリス植民地だ
*3 「AO」はナチ党国外組織部(Auslandsorganisation)の略称であり、ドイツ国外で暮らすすべての「帝国ドイツ人」のための組織である。
*4 いわゆる「ポーランド回廊」の正式な地名である。
それから1週間後、記事の見出しはさらに過激さを増し、その内容は残虐行為についての報告からポーランドの戦争挑発行為を非難するものへと変化していった。
ポーランド、ドイツ領土への奇襲を計画
言語道断、ポーランド人、ウッチで大虐殺
ドイツ人の首に賞金!
ポーランド、ダンツィヒに爆薬を密輸
シュトゥッカート次官、ポーランド人に撃たれる
【フレデリック・テイラー『一九三九年 誰も望まなかった戦争』所収「第9章 一九三九年八月二三日─三一日──「祖母死す」」より】