いま、ヨーロッパの国境について考える
記事:朝倉書店
記事:朝倉書店
では、ヨーロッパの国境を訪ねる旅の準備に入ろう。どの国境に行こうか。地図を広げると、数多くの国境が目に入ってくる。アルプスやピレネー山脈の高い峰々でしっかりと固められた国境や、ライン川やドナウ川の川筋などに沿った国境がいくつも走っている。他方、バルト三国やバルカン半島には規模の小さな国がいくつもあるが、その国境は平野や山地を不規則に突っ切っていて、何となく頼りない気がする。あるいはモナコのように、驚くほど小さな国を取り囲む国境もある(1)。ちなみに小国リヒテンシュタインは、内陸国に囲まれているため、海岸に行くのに二度国境を越えなければならない、世界でもまれな「二重内陸国」である。いずれにしてもヨーロッパの国境は実に多彩で、陸上に国境をもたない日本から見ると、どれも自分の足で越えてみたくなるものばかりだ。
ところで国境と言うと、つい固定したもののように思いがちだが、実際にはそうでないことは過去からの経緯を見れば明らかである。ヨーロッパの歴史を振り返ると、これまでに多くの国々が生まれては消えていった。近代に勢力を誇ったドイツ帝国やオーストリア゠ハンガリー帝国、20世紀終盤まで存在していたユーゴスラヴィアやソ連といった国々が解体すると、そこに新しい国境が引かれた。あるいはドイツやポーランドのように国境が引き直された国もある。つまり現在ある国境は、そうした激しい変動の結果として見ることができる。
このような歴史を頭に置きながら、現在のヨーロッパの国境を見ると、かなり長い期間にわたってあり続けている国境もあれば、最近になって引かれた国境もあることに気付く。また、一時消えたあとに復活した国境もある。この点で国境ごとに異なる来歴を確認しておくことも、国境を訪ねる旅には必要だろう。
そこで、現在あるヨーロッパの国境がいつ頃からあるのか、19世紀半ばまでさかのぼってその時期ごとに地図に示してみた(2)。図は、今ある国境が現れた時期を40年ごとに時代区分して色分けしたものになる。最も新しいのが1980年代以降に生まれた国境。その前が1941年から1980年まで出現した国境。さらにその40年前の1901年から1940年の間に現れた国境。そしてそれ以前が1861年から1900年までに引かれた国境になる。
なお、この時代区分では、現在ある国の国境となった時期を示した。ロシアやチェコ、スロヴァキア、セルビアのように、ソビエト連邦(ソ連)やチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアの後継国の国境は、それぞれもとの国の国境が形成された時期とした。また、ドイツとフランスの国境のように大戦中に国境が一時的に変更されたところも少なくないが、これは時代区分には加えなかった。
作った図を見てすぐに分かるのは、今あるヨーロッパの国境のうち、西ヨーロッパの国境のほとんどが百数十年以上、まったく変わっていないことだ。なかでもスペインやポルトガル、スイス、オランダの国境の歴史は長い。スペインの国境は300年以上変わっておらず、特にポルトガルとの国境に至っては、スペインの前身のカスティーリヤ王国との境界以来700年以上も不動のままである。言い換えれば、これらの国の領土はほとんど変わらずにきたというわけである。またフランスも、ドイツとの国境を除けばおおむね古くからの国境が維持されており、国土は比較的安定してきたとみることができる。
一方、西ヨーロッパから東ヨーロッパに目を転じると、状況が大きく異なっていることに気付く。そこでは19世紀半ば以降に引かれた比較的歴史の浅い国境が目立っており、東ヨーロッパでは国境が近年まで大きく変わってきたことが示されている。つまり国境の安定の度合いや国の成り立ち方において、ヨーロッパでの西と東とで事情がまったく違うのである。
そして、この西と東の境目にあるのがドイツである。現在のドイツの国境を見ると、西側と南側、すなわちオランダやスイス、オーストリアとの国境は200年以上の歴史があるものの、デンマークやフランス、ベルギーとの国境はここ150年ほどの間に生まれている。なかでもベルギーとフランスとの国境は、第一次世界大戦後のベルサイユ条約によって1919年に引かれたもので、このとき現在のベルギー最東端の町オイペンとマルメディがドイツから割譲され、今も国内のドイツ語地区となっている。フランスとの国境は、第二次世界大戦中にドイツがフランスを占領して一時消滅したものの、現在まで引き継がれている。
また、ドイツの東側の国境を見ると、チェコとの国境は第一次世界大戦後にチェコスロヴァキアが独立した際に画定されて現在に至っている。ただし、1938年にナチスドイツがチェコの一部(ズデーテン地方)を併合したため、一時的に消滅した点ではアルザスと似ている。ポーランドとの国境はさらに新しく、確定されたのはオレンジ色で示されるように第二次世界大戦後になる。ついでに言えば、ポーランドはドイツとの国境ばかりでなく、南西部のチェコや北部のロシア(飛び地)との国境もオレンジ色になっている。これは、現在の国土が大戦後にドイツの領土の一部を獲得して画定されたからである。ドイツに戻ると現在の国境は、古く安定した国境から新しい国境までかなりバラエティに富んでいるのが分かる。
さらにドイツから東の地域に目を向けてみよう。緑色で示されたチェコやスロヴァキア、ハンガリー、そしてセルビア東部の国境が見える。どれも第一次世界大戦後にオーストリア゠ハンガリー帝国が崩壊して、チェコスロヴァキアやハンガリー、ユーゴスラヴィアの領土を画定するために1920年代に引かれた国境である。これらはそれまで存在したことのない国境ばかりだが、それが現在に至るまで国々の形を決めている。 この他、フィンランドとロシアの国境にも注目したい。この国境は緑色とオレンジ色が入り混じっている。長くロシアの支配下に置かれたフィンランドが第一次世界大戦後に独立したものの、第二次世界大戦でソ連の侵攻を受けて、領土の一部を奪われて現在の国境になった。このまだらの国境を見るだけで、この国がいかに隣国を相手に重い歴史をたどってきたかが想像できるだろう。
そして最後は東ヨーロッパで最も目立つ赤い線である。これがかなり広い範囲にわたって引かれているのは、いずれも東西冷戦が終わって以降、特に1990年代にユーゴスラヴィア、ソ連、チェコスロヴァキアが次々に解体して多くの国々が独立したからである。それまで1つの国だったところに国境が新たに引かれ、ユーゴスラヴィアのように激しい紛争が起こり、世界が注目した国境でもある。
そうした劇的な変化をもたらした東西冷戦。もはや過去のことになったが、ヨーロッパを分断し、それぞれ独自の世界をつくり、今もその影響を各地に残している点で見逃せない。第二次世界大戦後のアメリカ合衆国とソ連が支配する世界では、ヨーロッパもそれぞれの陣営に取り込まれ、戦火を伴わない冷戦の下で対立した。東西を仕切る国境は柵や銃で警戒され、人やモノの往来は著しく制限された。冷戦と言えば「鉄のカーテン」だが、それは大戦直後に東ヨーロッパがソ連の影響圏に取り込まれたのを見て、当時のイギリスの首相チャーチルが発した語で、東西ヨーロッパを仕切る国境の代名詞となったものである。
冷戦が終わると、この「鉄のカーテン」は消え、新しい国境が各地に生まれた。当然、これらの国境の景観には冷戦後の大きな変化が反映されている。その点で新しいヨーロッパの動きがとらえられる興味深い国境である。
以上、ヨーロッパの国境をできた年代ごとに追いかけてみた。こうしてみると、特にヨーロッパ中央部から東部にかけての地域では、ここ150年ほどの間に新しい国境が引かれてきたこと、そしてその理由の多くが戦争と深く関わっているのが分かるだろう。つまり、ヨーロッパのなかでもこの地域はことさらさまざまな国が生まれて領土を広げ、あるいは逆に領土を削られ、しのぎを削ってきた地域だと言うことができる。
しかもこれらの国境が際立っているのは、近代以降、国同士が激しい対立し、あれだけ多くの犠牲を出した大戦を経て、今では自由に行き来できる国境になっている点である。これほどの変化を遂げた国境は、世界を探してもヨーロッパにしかない。そうした個性ある国境の現場にはこれまでの歴史が堆積し、国境を巡って繰り広げられてきた出来事を示す景観が残されている。長期にわたって安定した国境と違って、そこには現れた時期が異なる景観が見られるし、歴史を知っていれば、新しい発見もあるだろう。
国境の景観についての説明は尽きないが、そろそろこれくらいにしてヨーロッパの国境に出かけるとしよう。行先は国境が激しく変化してきたヨーロッパ中央部・東部の地域。具体的にはドイツ、フランス、チェコ、イタリア、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、そしてボスニア・ヘルツェゴヴィナなどの国境である。また、かつてあった東西ドイツ国境、そして国境を越えてアウシュヴィッツまで旅することにした。
現場で目にする景観は多岐にわたる。それを手がかりにすると、国境の歴史や人々の暮らしについての物語は果てしなく広がるはずである。そうした地理学の眼をもって観察し、推理するヨーロッパの国境への地理紀行。では、ゆっくりと楽しんでいただこう。