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「ウクライナ」とは? 〜地名から世界を考える

記事:朝倉書店

ウクライナとは

地図製作:平凡社地図出版
地図製作:平凡社地図出版

ウクライナ Ukraine
ウクライナ Ukrayina(ウクライナ語・正称)
ウクライナ Ukraina(露語)
人口:4563.4万(2012) 面積:603700k㎡長さ:1316km 幅:893km
[50°27′N 30°31′E]

 ヨーロッパ東部の国。首都はキーイフ。東ヨーロッパ平原の南部に、東西約1316km、南北約893kmにかけて横たわり、ロシアを除くヨーロッパ諸国の中では最大となる約60万3700kの面積を有する。時刻帯は協定世界時プラス2時間の東ヨーロッパ時間(UTC+2、夏時間はUTC+3)。北西部でベラルーシ、西部でポーランド、スロヴァキア、ハンガリー、南西部でルーマニア、モルドヴァ、北東部および東部でロシアと国境を接し、南部で黒海およびアゾフ海に面する。国境の総延長距離は約6500km で、うち海岸線が約2800km を占める。1991年8月24日にソ連邦より独立、特別市であるキーイフとセヴァストーポリ、および国内24州にクリム自治共和国を加えた27の行政区によって構成される。

 政体は議会制民主主義による共和制で、元首となる大統領の任期は5年(2期まで)、一院制の最高会議(議会)、閣僚会議、裁判所による三権分立が行われている。2001年の国勢調査では、基幹民族のウクライナ人は全人口の約78%を占め、ロシア人が約17%でこれに続き、その他少数ながらベラルーシ人、ポーランド人、ユダヤ人、クリム・タタール人、モルドヴァ人、ハンガリー人、ブルガリア人、ルーマニア人、ギリシャ人、ガガウズ人などが居住する。都市人口率は約67%。公用語は東スラヴ語群に属するウクライナ語で、ロシア語やベラルーシ語と近縁関係にあるが、歴史的経緯から西スラヴ語のポーランド語と共通する語彙も多い。おもな宗教は、ウクライナ正教会諸派、ウクライナ東方カトリック教会(ユニエイト)、ローマ・カトリック教会、プロテスタント教会諸派などのキリスト教のほか、ユダヤ教、イスラム教(スンナ派)などがある。

地理的な特徴

 国土の約95%が東ヨーロッパ平原上に位置し、残りの約5%にクリム山脈やカルパティア(カルパート)山脈などの山岳地帯が相当する。平原部の約7割はポリッシヤ低地、沿ドニプロー低地、沿黒海低地、ザカルパート低地などの低地帯であり、約3割がポジッリヤ丘陵、ヴォルイニ丘陵、ドネツ丘陵、沿アゾフ丘陵などの丘陵地帯である。最高点はカルパート山脈中のホヴェルラ山(標高2061m)。カルパート山脈には国土の森林の約20%が集中しており、その保全のためにカルパート自然保護区、カルパート自然国立公園などが設けられている。

 気候はほぼ全域にわたって温帯大陸性で、クリム半島南岸は亜熱帯もしくは地中海性気候の特徴を有する。気温は、1月がウクライナ北東部で-8~-7°C、クリム半島南岸で2~4°C、 同様に7 月が17~18°C、22~23°Cである。

 植生は、北から南へ、森林圏、森林ステップ圏、ステップ圏の3つに大きく分けられる。ポリッシヤ地方と範囲がほぼ重なる森林圏は、プリピャチ川上流域からデスナー川流域まで東西750kmに及び、国土の約2割強を占める。森林圏とステップ圏の中間帯として双方の特徴を示す森林ステップ圏は、カルパート山脈北東麓から中央ロシア高地南西部までウクライナをほぼ横断し、国土の3割強を占める。ステップ圏は、西はオデーサ州から東はルハンスク州まで、北はハルキフ州から南はクリム半島までの広大な領域にまたがり、国土の約4割を占める。

 土壌は、森林圏では灰色森林土、ポドゾル土、沼沢土が、ステップ圏では肥沃な黒土や栗色土が優勢であり、森林ステップ圏では森林圏とステップ圏の土壌が混在し、黒海・アゾフ海沿岸の乾燥ステップ圏ではソロネツ土やソロンチャーク土などの塩類土がみられる。年間降水量は、黒海・アゾフ海沿岸の乾燥ステップが300~500mm と最も少なく、北上するにつれてしだいに増加し、ポリッシヤ地方では600~700mm となる。最も多いのはクリム山脈やカルパート山脈で、それぞれ1000~1200mm、1600~2000mm に達する。

 おもな河川には、ドニプロー川(およびその支流であるプリピャチ川やデスナー川)、ドニステル川、ドナウ川、南ブーフ川、ドン川支流のシーヴェルスキードネツ川などがあり、国土の96%は黒海・アゾフ海水系に属し、わずかに北西部に西ブーフ川などのバルト海水系の河川が流れる。湖沼は、ドニプロ川流域に連なるキーイフ湖、カーニフ湖、クレメンチューク湖、ドニプロゼルジンスク湖、ドニプロー湖、カホフカ湖など大人造湖のほか、ポリッシヤ地方の沼沢地帯やドナウ川下流左岸には小規模ながら天然の湖沼も点在し、黒海・アゾフ海沿岸部には多くの潟湖が形成されている。

その歴史

 歴史を紐解けば、有史以来、東ヨーロッパ平原南部のステップ地帯やクリム半島には、スキタイ、サルマタイ、フン、ハザールなどの大陸系の騎馬遊牧民族や、ギリシャ系の入植者が到来し、活発な文化的・経済的交流が行われていた。9世紀にドニプロー川中流域に成立した東スラヴ民族による最初の統一封建国家であるキーイフルーシは、10~12世紀に首都キーイフを中心とするヨーロッパ随一の大国として繁栄した。しかし内乱と外敵侵入によって荒廃が進み、13世紀中頃のモンゴル・タタール軍の侵攻によって衰退が決定的なものとなり、その後現在のウクライナの領域の大部分はリトアニア領を経て16世紀にはポーランド治下に置かれた。以来、実質的には18世紀後半にいたるまで、西のポーランド、東のモスクワ・ロシア、南のクリム・ハン国(およびその宗主国であるオスマン帝国)という3つの列強の狭間で、ウクライナはその地理的、文化的、軍事的、宗教的な境界地方となった。

 この境界地方、つまり「辺境」において、とりわけ16世紀以降一大勢力を形成していったのが、ザポロージャ・シーチを拠点とするコサックの軍事共同体である。権力の中枢から最も離れた「辺境」には、周辺諸国から農民をはじめとする多くの人びとが圧制、飢饉、宗教的迫害などを逃れて到来したが、奇しくもコサック(ウクライナ語ではコザーク、ロシア語ではカザーク)という呼称の起源も「群れを離れた者」、「自由民」を意味するチュルク語qazaqである。

 ウクライナ・コサックの自治国家は17世紀中頃のボフダン・フメリニツキーの時代に最盛期を迎えたが、しだいに周辺列強のロシアやポーランドに取り込まれ、18世紀末に行われたポーランド分割の結果、その大半がロシア帝国領となり、残る西ウクライナの一部はオーストリア(1867年以降はオーストリア・ハンガリー)領に組み込まれた。第1次世界大戦とそれに続くロシア革命および国内戦の混沌期に、 ウクライナ人民共和国(1917)、西ウクライナ人民共和国(1918)などの一時的成立をみた後、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国としてロシア、白ロシア、ザカフカスとともに最初(1922)にソ連邦を構成した4共和国の1つとなった。

 その後、1937年には国名がウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に改称され、第2次世界大戦を前後して西ウクライナのヴォルイニ、ハリチナー、ザカルパートなどの地方が再統合され、54年のロシア共和国クリム州のウクライナ共和国への移管をもって現在の領域が確定した。

 現在の国名ウクライナは、1991年のソ連邦崩壊に伴う連邦離脱および独立によって新たに採用されたものである。なお、内戦期の1919年から34年まではハルキフに首都が置かれていた。

「ウクライナ」という名称について

 ウクライナという名称が最初に史書に登場するのは、「原初年代記」イパーチイ写本の1187年の項においてである。そこでは、遊牧民ポロヴェツ人に対する遠征を行ったペレヤスラフ公ヴォロディーミルの死に際して「彼を思ってすべてのペレヤスラフ人が哭いた」、「ウクライナはおおいに悲しんだ」と記されており、ウクライナはキーイフ公国やチェルニーヒフ公国とともにキーイフルーシ大公国の中核となったペレヤスラフ公国の版図を示すものであった。続くルーシの年代記の中でも、ハーリチ地方、西ヴォルイニ地方、ヘウム地方、ポドラシェ地方にそれぞれウクライナという名称が用いられており、キーイフ公国またはハーリチ・ヴォルイニ公国を中心とした「地方」、「国」、「土地」という意味合いにおいて使用されたことが窺い知れる。16世紀にコサックが台頭すると、ウクライナはドニプロー川中流両岸に広がる彼らの勢力範囲をさし示すようになり、その居住地の拡大とともに民族的、政治的、文化的文脈で広く用いられるようになる。

 18世紀末にウクライナを併合したロシア帝国は宗主国の立場からこれをマロロシア(小ロシアの意)とよび、分離独立を志向するあらゆる民族主義に対して厳しい弾圧で臨んだが、タラス・シェフチェンコ、イヴァン・フランコ、レーシャ・ウクラインカなどのウクライナの代表的詩人たちは、ウクライナであることが許されない小ロシアとしての祖国の現実を憂い、その生涯を通じて民族の解放と独立への思いを詩に託し続けた。

 なお、ウクライナという名称は「断つ」、「分かつ」を意味する印欧祖語に起源をもつスラヴ語の語根クライkrayを内包するため、これを「境界」、「辺境」と解釈することは原理的には可能である。しかし、ある土地が文化的、言語的、政治的に任意の特徴を帯びながら自立的に成長して固有の領域となる過程を「風土の形成過程」と捉えるならば、あらゆる風土の誕生はその母体から発展的に「分かたれる」ことによって成立するものなのであって、ウクライナもしくはコサックという名称も、その対象が風土と人間との違いこそあれ、両者ともに混沌の中から任意の秩序が誕生する際のダイナミズムをいみじくも示唆するものであるといえよう。

独立後の現代ウクライナ

 独立後の現代ウクライナは、欧米諸国やロシアに対してバランスのとれた外交を行うことを基本方針としているが、欧州連合(EU)への統合を視野に入れた欧米寄りの政策はしばしばロシア側の反発を招き、両国の緊張関係の原因となっている。しかしウクライナにとってロシアは歴史的、文化的、経済的に最大の隣国であり、両国の間に横たわる言語、エネルギー資源、国境画定、歴史認識などをめぐる諸問題の解決は、当該地域の持続的平和と関係諸国間の新たなパートナーシップを構築する上で必要不可欠なものである。

 ウクライナは、帝政ロシア末期にドネツ炭田(ドンバス)の石炭およびクリヴイリフの鉄鉱石を用いた鉄鋼業や重化学工業がドンバスや沿ドニプロー地域に発展して以来、旧ソ連圏で最も工業化の進んだ共和国の1つとしてソ連邦の軍需産業の中核を担っていた。しかし、ペレストロイカ期の1986年4月には史上最悪の原子力事故となるチェルノブイリ原発事故が発生、91年の独立に際しては市場開放と価格自由化がハイパーインフレを引き起こし、ソ連邦時代に分業体制で結ばれていた諸共和国間の連関が途切れることによって工業生産も落ち込むなど、独立を前後して社会的・経済的混乱期が続いた。

 国内総生産(GDP)が独立後初めてプラス成長(6.0%)を達成するのは、インフレ収束後の1/10万のデノミ実施(1996年8月)、続く自国通貨フリヴニャ(UAH)の導入(1996年9月)から、さらに数年を経た後の2000年になってからのことである。ただし、過去に培われた産業ポテンシャルと科学技術力は独立後のウクライナ経済の牽引役にもなっており、鉄鋼・鉄製品、機械・機器類、化学製品は現在の主力輸出品目でもある。その大部分をロシアからの輸入に依存している石油と天然ガスを除けば比較的鉱物資源にも恵まれ、石炭、鉄鉱石以外に、マンガン鉱、ウラン鉱、チタン鉱、水銀などの金属、花崗岩、耐火粘土、石灰岩などの非金属、硫黄、岩塩、カリウム塩、天然染料などの化学鉱物原料を産出する。

 農業分野においても、近代化や構造改革の遅れなどの問題を抱えてはいるものの、国土の半分を覆う肥沃な黒土地帯に加えて、北部の湿地帯では干拓排水網が、南部・東部の乾燥地帯では灌漑用水網が整備され、穀類、工芸作物、野菜、果樹などの栽培、および畜産が盛んである。「ヨーロッパのパンかご」とよばれるにふさわしく、小麦、砂糖、ヒマワリ油などの農産物は旧ソ連諸国やヨーロッパ各国へと輸出されている。その他、黒海沿岸の諸都市では造船、水産業が盛んで、クリム半島やザカルパート地方は、気候と地形を生かした保養・観光業や良質なワイン・コニャックの製造で知られる。

 黒海・アゾフ海水系の大河が貫流する黒海北岸の地にあって水運も発達しており、首都を中心とした鉄道・ハイウェイなどの陸上交通網も密度が高い。外国からの空の玄関口となっているのはキーイフ郊外のボリースピリ国際空港で、国内の主要都市や州都は首都と空路でも結ばれる。観光大国としても今後大きな発展の可能性を秘めており、ユネスコの世界遺産がキーイフ・ペチェルスク大修道院および聖ソフィア大聖堂(ともにキーイフ)、リヴィウ旧市街の歴史地区(リヴィウ)、カルパート山脈のブナ原生林などをはじめとして7件登録されており、豊かな自然と文化を背景とした史跡、名勝、公園が各地に点在する。芸術への関心も高く、首都や州都をはじめとした主要都市には劇場、交響楽団、大学、博物館、美術館などが置かれ、地域ごとの特色をもった音楽、詩歌、舞踊、絵画などのサークル活動やコンクールが盛んに行われている。
[原田義也]

『世界地名大事典 4 ヨーロッパ・ロシア I〈ア-コ〉』(2016年3月刊)「ウクライナ」の項目より

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