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『ヘルシンキ 生活の練習』「4 技術の問題 保育園での教育・その2」公開 友達作りも感受性も「スキル」

記事:筑摩書房

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これらのスキルはすべて、
1歳から死ぬまで練習できることですよ。     ――アンナ先生                                                                       

【転載にあたっての註   ユキ:朴さんの上の子。7歳。 クマ:朴さんの下の子。3歳。 モッチン:朴さんの連れ合い。全員仮名。】

 ユキの就学前教育が始まる前の日に、担任の先生方から、最初の一週間で何を学ぶのかを説明したメールが届いた。それには「一週間目は友達の作り方のスキルを勉強します」と書いてあった。いったい何をするんだろう。そもそも「友達の作り方のスキル」とは何だろう。

 ユキたちがいったい「友達を作るスキル」として何を学んでいるのか知りたいと思っていたら、クマの面談があった。いま通っている保育園では、年に数回、早期教育面談と呼ばれる面談がある。2020年の秋、クマの担任の先生は、アンナとレアとハンナという3人の女性だった。アンナはどうも、この保育園が開園したときから勤めているベテラン先生だそうだ。

 面談のための部屋に入ってまず驚いたのが、カラスの絵が描かれた大きめのカードが、机いっぱいに並べられていたことだった。このカードは「Huomaa Hyvä!」というらしい(英語ではSee the Good! という名前で販売されている)。

人間に共通する、26個の強みカード、10個のアクションカード、7個の感情カード、5個のアセスメントカードをまとめたもの」だそうで、カラスが飛んだり跳ねたりしていて、そのまわりに「我慢強い」「思いやりがある」「好奇心が強い」「協調性がある」「美を鑑賞する」などと書いてある。

 本来の使い方は、See the Good! という商品名が示す通り、人間には一般的にどのような美点があるのかを学び、自分や相手、あるいは第三者にこの美点がある、と指摘するために用いるものらしい。

 面談の日は、面談室に入るなり、アンナが「クマがもう練習できているスキルはどれでしょうねー」と言いながら、このカードを並べ始めた。私は「ユーモア」と「好奇心」を指して「これですかねー」「このカードにはないですけど、気前もいいですね」と言ってみた。しかし3歳でこんな人格的なところまで発達しているものだろうか、ていうかこういう項目ってスキルなんですかね、などと思いながら。

 すると、アンナは「なるほど! あなたはどんなときに、クマにこのようないいところがあると感じるのですか?」とクマの日常生活について私が話す材料を提供してきた。そういう使い方なのか。そこからしばらく、私とアンナとで、クマが家と保育園とでどのように過ごしているかについて情報交換した。

 アンナから聞くかぎり、クマの様子はだいたい予想通りだった。つまり、よく食べるし、よく喋る(ただし日本語で)。機嫌もいい。たしかにユーモアがあるし、いろいろなことに興味を示す。ただ、昼寝前の読み聞かせの時間に退屈しているのか走り回る。「退屈しているのはフィンランド語がわからないせいでしょうか?」とアンナが気にした。「そうじゃないでしょうか」とやる気なく返事をしたら、アンナは「クマは車以外、どんなものが好きですか?」と質問した。「何か音が出るものが好きです」と答えたら、アンナは「じゃあ、明日から読み聞かせの時間に、歌をうたう時間を入れてみましょう」と言った。

 それから、「クマがまだ練習する必要があると思うスキルはどれか?」と質問された。いや、だから、「これどれもスキルですか? 人格とか才能とかじゃないんですか?」と思いつつ「美を鑑賞する」と「チームワーク」はまだ難しいんじゃないですかねー、とカードを指した。

 アンナは「あら! そうですか。私はクマが落ち葉の音を楽しみ、葉っぱを太陽に透かせて眺めているのを見たことがあります。彼はおそらく、美を鑑賞するスキルを練習していますよ」と訂正された。そうだったのか。

 それから私が、「このスキル、私も練習できてないことが多いんですけど」と言ったら「これらのスキルはすべて、1歳から死ぬまで練習できることですよ」と指摘された。

 違うって、これボケてんねんって。素で返されたらつらいから。

 その次の週に、ユキの就学前教育に関する三者面談があった。三者面談って、高校入試とか大学入試とか、人生に大きな影響を与えるイベントに備えて開かれるものじゃなかっただろうか。

 しかも面談に先立って、家庭内で子どもにインタビューしないといけない。「あなたの得意なことは何ですか」「あなたの好きなことは何ですか」「どんなときに楽しい/嫌な気持ちになりますか」「もっと学びたいことは何ですか」などなど。ユキはそれぞれの項目にスラスラと答え、面談の当日になった。

 これ、今は在宅勤務の人が多いから時間の都合をつけやすいと思うんだけど、そうじゃない人はいったいどうしているんですかね。という時間帯(朝9-17時の間の1時間、私たちは朝の9時から1時間)に、私とモッチンは保育園に行った。

 本当は三者面談の予定だったのだが、ユキは面談室に入って「保育園でやりたいことはどんなことですか?」と質問されるなり「この部屋じゃなくて、外で遊ぶこと!」とはっきり答えて部屋から出て行ってしまった。お前はディオゲネスか。

 意外なことに、ユキを見送ったあとマリア先生から聞いたのは、ユキへの賛辞だった。「論理的思考、記憶、推理能力など、修学に必要なスキルを身につけている」「精神的に安定していて「私はできる」と信じている(から何事にも前向きに取り組んでいる)」「自己認識が明確で自分のやりたいこととやりたくないことを伝えられる」「行動力もある」「ほかの子どもたちとも遊べるし一人遊びもできている」「新しいことを学びたいという意欲にあふれている」、何より「私は大丈夫」と安定しているように見える。

 え、そう……ですかね……。でも、今さっさと部屋を出て行ってしまったのはよくなかったのではありませんか、と尋ねたら「そんなことはありません。私たちも彼女に何をするのか日本語で伝えられなかったし、今日どのような予定なのかを質問しませんでした。だから戸惑って当然です。あそこではっきりと自分のやりたいことを表現してくれるのは、本人に意思を伝えるスキルがあるからです」と返ってきた。

 たしかに、ユキは生まれて二日めから、ほしいものがあれば手に入れるまで泣き続けたし、何か気に入らないことがあれば、その状態が改善されるまで泣き続けた。いわゆるイヤイヤ期も激しかった。朝から晩まで「イヤ」しか言わなかった。そもそもユキの初語は「イヤ」だった。あの激しさを肯定的に評価するなんて、いったいどういう方針なんだ、ここの保育は。

「ユキはフィンランド語が全然できないにもかかわらず、フィンランド語の授業が簡単すぎる、もっと難しいことをやりたいと言うのですが、どうしたらいいでしょう」と質問した。すると「ユキの持っている学習へのスキルの水準から考えると、いま学んでいることは退屈かもしれません」と真面目な回答が返ってきた。

 嘘やん。でも、あの人、毎日「今日は楽しかった!」と言うけど、何が楽しかったか質問しても、何も覚えていないんですが。「たくさんのことを学んでいるからです。復習したり思い出したりできないくらいのことを学んでいるからです。彼女には時間が必要です。待っていてください」

 それって、いっぱいいっぱいで余裕がないってことですよね、と気になるが、マリア先生は「クリスマスまでにはユキのフィンランド語は変わると思います」と言い切る。そんなにすぐに? と半信半疑だが、何せ彼女は知識も経験もあるプロなので、こちらは信じるしかない。

 ほかは、野菜を食べたがらない以外、こちらから特に心配になる点はなかった。先生から「がんばりすぎて、おうちで疲れていませんか?」と質問されたが、本人が「保育園では遊ぶ。学校では勉強する。家ではごろごろする」とはっきり言っていると伝えたら、マリア先生は「それなら安心です」と答えた。

 キラキラ光る畑の横を、私とモッチンは「ひたすら褒められちゃったね」「こっちは褒めて伸ばす方針なのかな」「悪いところを何にも指摘されなかったから、かえって不安だ」と、言い合いながら帰宅した。

           

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 クマの面談のときにも見た、Huomaa Hyvä!(See the Good!)のカードは、ユキのクラスにもある。でも、これまたおそらく本来の使い方とは違い、友達同士で「私はこのスキルを練習したい」とか「さっき喧嘩したのは、自分にこのスキルが不十分で、あなたにこのスキルが不十分だったのではないか」とか言いながら使うのだそうだ。

 クマの面談を受けたときは、「正直さ」「忍耐力」「勇気」「感謝」「謙虚さ」「共感」「自己規律」などなどを「才能」ではなく「スキル」と取ることについて、なんとなく狐につままれたような気分だった。でも、数日経つとなんとなく納得してきた。眼から鱗が落ちるような感じだった。

 私は、思いやりや根気や好奇心や感受性といったものは、性格や性質だと思ってきた。けれどもそれらは、どうも子どもたちの通う保育園では、練習するべき、あるいは練習することが可能な技術だと考えられている。

 よく、「褒めて伸ばす」と言う。その是非もときどき話題になる。私たちはあの日、前の保育園でもそうだったように、ここの保育園でも(ということは、私たちの知っている「フィンランドの保育園」では)「褒めて伸ばす」方針なのだろうと結論した。

 でも、今になって私は、この「褒められた」という理解は間違っていたのではないかと思っている。

 先生たちは、別にユキを褒めたわけではなかったのかもしれない。学校教育を受けるにあたって、あるいは集団生活を送るにあたって、必要とされるさまざまなスキルのうち、ユキがすでに充分に練習を積んでいると思われる項目を挙げただけだったかもしれない。それは「褒める」という言葉を聞いたときに想像するような、肯定的な感情に満ちた行為ではない。

 これから練習の必要なスキルがあれば、それらが話題になるだけだ。それも、「できていない」「能力がない」「才能がない」と評価されるのではないし、目標達成に向けて努力しているか否かすら、おそらく問題にされていない。もっとあっさりと「ここはもうちょっと練習しましょう」と言われるだろう。

「感受性が豊かだ」「好奇心が強い」「共感力がある」「根気が続く」といった、通常なら性格や才能などと結びつけられてしまいそうな事柄が「スキル」と呼ばれている理由は、このあたりにありそうだ。私は根気がないのを子供の頃から気にしている。これが私の性格でないのなら、「根気がない」という「性質」は、単に「何かを続けるスキルに欠けている」ということになる。そして、そのスキルを身につける必要があると感じるなら、練習する機会を増やせばいいことになる。

 なんと盛り上がりに欠ける話だろう。でも「あなたはすごい」だの「お前はダメだ」だの評価されるより、淡々と「これを練習しましょう(したければ)」と言われるほうが、気が楽ではないだろうか。

 ユキに限らず、ここの保育園に通っている子どもたちの持つさまざまなスキルは、別に肯定されているわけでもないし否定されているわけでもない。練習の必要なことと、必要でないことがある。その項目も、必要さの程度も、そのうち変わるだろう。今回はそれをアセスメントし、そのアセスメント結果を家庭と教育機関で共有しました、というだけだったのではないだろうか。

 実は、あの人たちは別に褒めていないのではないか。そして、それならそれで、まったく問題ない。

 11月の初めごろ、晩ご飯を食べていると、ユキが「同じクラスの男の子が、ユキがフィンランド語で話そうとすると、真似すんねん。それがめっちゃ嫌やねん。ほんで、その子は、ユキだけじゃなくて、ほかの子の真似もして嫌がられてんねん」と言ってきた。あーそういううざい男子いるよねー、あんまり度が過ぎるようやったら睨んどきー、と言いつつ、少し気になっていた。

 その数日後、その男の子(仮にエリオットとする)のお父さんが、私に、保育園で話しかけてきた。「うちの息子がおたくのお嬢さんをからかっているらしくて、申し訳ありません。やらないように言ってはいるんですが。たぶん、うちの子は、少しおたくのお嬢さんに興味があるんだと思うんです。ただ、それをうまく言えないから、嫌な気分にさせているのだと思います」。

 私そういう「アホな男子」って大っ嫌いなんですよ、と思ったけど、さすがに口に出すわけにいかないので「ハハハ、まあ子ども同士のことですから」と、わりと意味不明なことを言った。

 それから一週間ほど、私はエリオットのことを忘れていた。あるときふと思い出して気になったので、ユキに「最近、エリオット、どう?」と質問したら「最近は真似してきいひん」。何があったんだろうね、と言ったら「お話し合いした」。「終わりの会で吊し上げ」みたいなやつだろうか、と思ったら「クマとウサギの絵本を読んでおしゃべりした」。それだけ? クマとウサギの絵本って何?

 気になったので、次の日のお迎えのときに、もう一人の担任のロッタ先生に、何をしたのか質問してみた。すると、ロッタ先生はこう答えた。

「私たちは、物事を笑うことと、人を笑うこととを別のことだと教えました。前者は友達と楽しめるが、後者はそうではありません」
「エリオットは友達を楽しませる技術を知り、それを練習する必要があります」
「そのため、自分のやっていることを意識化するほうがいいと私たちは考えました。だから、クマとウサギのお話を読み、友達を嬉しい気持ちにする方法に何があるのかを話し合いました」。

 私は、このロッタ先生の言葉を聞いて、園庭で驚いてしばらく言葉が出なかったのだけれども、ロッタ先生はそれに気づいただろうか。

「男の子はやんちゃ/アホだから、〇〇しても仕方がない」という説は、その男の子にとっても害があると思う。それに、〇〇された側の人間が嫌な気持ちになったとしても、その言葉で封じ込めてしまいはしないか。でも、それを批判して、その次はそのやんちゃな子に何をしたらいいのだろうか。

 叱りつけるのではなく、淡々と教えればいいのだった。物事を笑うことと、人を笑うことは別のことだ。世の中には友達を楽しませる技術がある、だからそれを練習しよう。つい忘れてしまうけれども、何事も学習と練習が大事なんだなあ。

 それにしても、フィンランドにいるとよく思うんだけど、ここの人たちは何かと盛らない。もっと偉そうに言ってもいいんですよ、たぶん。と思うけど、そう言ったところで、あの素の表情で「技術の問題です」と言われるんだろうな。

         

朴沙羅『ヘルシンキ 生活の練習』(筑摩書房)書影
朴沙羅『ヘルシンキ 生活の練習』(筑摩書房)書影
                 

 年が明けて2021年になったころ、ユキが「誰もユキと遊んでくれへん」と言い始めた。事情を聞いてみると、ユキは一緒に遊びたいのだが、相手が何を言っているのかよくわからない、自分が友達の輪に入れていない気がする、一人遊びするしかなくて寂しい、ということだった。

 私としては、人間関係上の問題というよりも、ユキのフィンランド語力がそこそこ上がったこと(先生の話すことはわかるようになったが、子どもが何を言っているかわからなかったり、口語で話せなかったりするあたり)に起因する問題ではないかと思った。

 深刻なことではなさそうだし、そのうちなんとかなりそうな気もしたけど、ちょっと気になったので、担任のマリア先生に相談してみた。すると、マリア先生は「それは大変。どんな対策ができるか、教員同士で話し合いますね」と言った。 

 その次の週に、ユキのクラスでは何回か、みんなで人形遊びをしたそうだ。「人形遊びって何? どういう目的で何をするの?」と不思議だったが、あとでロッタ先生から聞くかぎりでは、子ども同士で人形を使って、友達をなぐさめるときに何を言えばいいか、一人で遊んでいる子にどういうタイミングでどのように声をかけたらいいか、自分が一人で遊びたいときや友達と遊びたいときに何を言いどう振る舞えばいいか、などの場面の練習をした。

 この対応も驚いた。この方法だったら、いろんな場面を話題にできるうえに直接的すぎない。終わりの会で「仲間外れはいけないと思いまーす」とかじゃないんだ。

 これは先生方のオリジナルの発想なのか、それともどこかのテキストに書いてある方法なのか、どちらなんだろう。フィンランドに限らず、こういうやり方は、もしかしたら教育関係の方々の間では当たり前のことかもしれないけど、保護者としては嬉しい驚きがあった。

 今までのところ、ヘルシンキで子どもたちや私が体験した、保育園や子育て支援関係で得たエピソードやアドバイスに共通点があるとすれば、「問題/技術に焦点を当てる」のような気がしてきた。先生方が子どもを褒めたり叱ったりするとき、それはその子の人格を褒めたり貶したりしているわけではなく、その場の状況や問題に焦点を当ててそこを褒めたり変えようとしたりしている。

 私が育児相談をした場合、母親としての心構えとか気持ちとかそういうところではなく、いま私が抱えている問題を解決する具体的な提案が出される。わりとドライな感じもするけど、基本的に「お互いに相手を助けたいと思っている(だろう)」「お互い相手に悪意があるわけではない(だろう)」という前提に立っていないと提案できない解決策ばかりのようにも思える。

 ただ、3歳だろうが36歳だろうが自己決定できる/すべきであると前提されている気もする(まだ確信はない)。

 ユキの教室には、子どもたちが作った大きな木の絵が貼られている。葉っぱの一枚一枚は、子どもたちが自分をイメージして描いたもので、裏面には子どもたちが、自分のいいところのうち、同級生に知ってほしいものを書いている。やっぱり「いいところを見過ぎじゃないかな」と思う。

 いや、そもそもあの先生たちは「いいところ」対「悪いところ」という発想を取っていないのだ。「練習が足りていること」と「練習が足りていないこと」があるだけだ。

 まだそれほど日が経ったわけではないが、ここで暮らし始めると、ときどきこういう体験をする。フィンランド(に限らず、北欧)は理想郷のように描かれるときがある。かと思うと、そんなことはないのだ、これがフィンランド(と北欧)の真実だ、と悪い情報を流す言説を見ることもある。

 でもたぶん、それはどちらも正確ではない。フィンランドは理想郷でもないし、とんでもなくひどいところでもない。単に違うだけだ。その違いに驚くたびに、私は、自分たちが抱いている思い込みに気がつく。それに気がつくのが、今のところは楽しい。

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