民主主義のため人間の狂気を信じる――日野行介『調査報道記者』
記事:明石書店
記事:明石書店
例えばあなたは地方公務員、あるいは中央官庁の一職員であったとする。あなたが配属された部署では、どう考えてもつじつまの合わないミッションが与えられる。
何十万人もが対象になる避難計画を、受け入れ先の自治体と調整して「あたかもそんな避難オペレーションが可能である」かのように描かなければならない。あるいは、あなたの部署はかつてない大規模公害事件の被害評価を議論する会議を主催しなければならない。その会議で何か問題のある発言があれば住民や市民団体からの猛烈な非難にさらされることが目に見えている。
あなたはそもそも、災害避難の仕事がしたくてその役所に入ったわけでも、公害被害の評価が専門でもない。一生懸命勉強して、就職難の中できるだけ安定した仕事に就きたいと、公務員試験に合格したのだ。何とかこのつじつまの合わないミッションを、可もなく不可もなくやり過ごせば、1~2年後には違う部署に異動できるに違いない。そのつじつまの合わない計画は前任者が用意していたもので、自分はそれを踏襲しているだけだ。
だからあなたは、どう見ても現実的ではない人数配置をして、無理やりにでも避難者と受け入れ施設数の帳尻を合わせる。計画を作るまでが仕事だ。実際に避難できるかどうかまで、自分が責任をおえるものではない。
被害評価の検討会議が紛糾しないように、前もって会議参加者の発言をすり合わせる必要がある。そのための非公開の打ち合わせを行う。このくらいの事前打ち合わせは、どこでもやっている。不規則発言で炎上したら、町にとってもよいことではない。
そこに問い合わせが入る。
「その計画には現実性がないと、知っていますよね」
「秘密で行われている会合では何を話していたのですか」
あなたは戸惑う。なんでこいつは知っているんだ?
まてよ。あてずっぽうで言っているだけかも知らない。内部情報が漏れたのかもしれない。そうすると、情報管理の責任を取らされるか。
そして恐怖におののく。もしこのミッションで失敗したら、俺の責任にされるのか。待てよ、秘密会をやる方針だって前任者が決めたんだ。俺はただ事務局として、連絡調整をしていただけ。でも組織はそんな言い訳は許さない。安定した公務員としてのキャリアは、こんな一つのミス、いや不運から崩れていく。
恐ろしいのは、その記者がどこまで知っているのか。そして関係者の中で、誰が情報をリークしているのか、何もわからないことだ。
そんな時に情報公開請求が届く。あなたが知られたくない一連の手続きについて開示せよという。これが開示されればまずい。
そしてあなたは「該当する資料は見つからなかった」「破棄して存在しない」と、突き返す。すると次の日の新聞に、その該当資料が公開される。「○○市○○課が存在しないと開示を拒否した資料」として、あなたが関わった秘密会合の打ち合わせ資料が丸裸にされている。もう逃げ道はない。つまりこの調査報道記者は「すべてを知っている」のだ。
自らのキャリアの安定と、家族の生活を何よりも大切にしていた一人の公務員は、その後どうなるのだろうか。それは調査報道のテーマではない。
この記者の追い詰め方を見て、嫌悪感を覚える人も少なからずいるのではないか。追い詰められていくのは大物悪徳政治家でも、犯罪組織のトップでもない。あなたや私と同じ、組織の中で無理なミッションをむちゃ振りされながら、なんとか波を立てずに生きていこうとしている普通の一市民なのだ。
このくらいのこと、どの組織だってやっているじゃないか。私はただ前任者のやり方を引き継いだだけ。あなたが俺の立場だったら、前任者の決めたことを覆して、何か別のことができたのか?自分は何の権限もない一公務員にすぎないんだ。
調査報道記者には、そのような言い訳は何の説得力も持たない。
もしこの言い訳の通りだとしたら、そこに最大の危険性がある。前任者のいうままに欠陥のある計画作りを続け、批判されないために情報を隠す人間が、住民の命や健康に関わる政策を担当しているとしたら。それは社会にとって、危険極まりないのだ。
「彼らが私利私欲にまみれた不良公務員とは思えない。ごく普通の公務員たちが改ざんに手を染める理由は一体何だろう」
調査報道記者は、そこに原発の恐ろしさを見る。
想像してほしい。この善良な一公務員が避難計画を担当する町で、原発事故が起きたら。彼は、そしてその同僚たちは、本気で住民避難をサポートするだろうか。町にとって都合の悪い情報を公開してでも、住民にリスクを伝えるだろうか。
日野記者の調査報道は小さき一公務員にも、一個人としての選択を迫る。そして「すべてを知られていること」に気づくまで、みっともなく嘘を重ね、矛盾を露呈し、逃げ惑う彼らの姿を容赦なく描ききる。調査報道は、「自己保身を最優先にする」「都合の悪いことは隠す」者としての「人間への失望」を基礎にしているかに見えるかもしれない。しかし、それは表層的な読み方だ。
調査報道記者に出会うとき、私たちは「どちらの側に立つのか」人間としての行動を問われる。そしてその問いに直面したときに、「隠す」「逃げる」「ごまかす」のが大多数の反応だ。それにもかかわらず、そんな選択を採らない人間が存在するのだ。本書に収録された日野調査報道の一つ一つのストーリーが、注意深く読み込めば、その「違う選択」をとった人間の存在によって成り立っていることが分かる。
「午後二時から福島市内の県施設で行われる公開会議の直前、会場近くにある県庁内の担当部長室に委員たちが集まり、秘密会が始まった。この日は、小児甲状腺検査でがん患者を穏当に公表する手順を話し合った」(第1章)
日野記者はその秘密会で話し合われた内容を、具体的な発言に至るまで、あたかもその場所に居合わせたように再現して見せる。
なぜそんなことができるのか。考えればすぐにわかることだ。その秘密会に出席し、その内容をつぶさに記者に伝えた人間がいるのだ。
「2019年に入って、ある内部情報が私の元にもたらされた。それは非公表のプレゼン資料と、それが提出された秘密会議の録音だった」(第5章)
記者はさらりと伝え、本題の調査内容の記述に移る。しかし、ここに調査報道を成立させるもう一つの不可欠要素があることを忘れてはいけない。大多数、仮に99%の人間が調査報道記者を前に「隠し」「ごまかし」「逃げる」ことを選ぶのだとしても、そうではない人間が存在するのだ。その情報提供者は、組織から疑われ、もし情報提供の事実が明らかになれば有形無形の制裁を受けることになる。そのリスクを負ってでも、記者に情報を伝えた人間がいる。それはなぜなのだろうか。なぜ自分の立場を犠牲にしてでも、その隠ぺいされた情報や、つじつまの合わない手続きを表に出すことを選ぶ人間がいるのか。記者はその人間たちについて多くは語らない。情報源の秘匿は記者の生命線なのだ。
私はかつて日野記者の情報提供者のひとりであった。第2章で取り上げられている私のコメントは、当時「匿名」を理由に提供した。当時の私は政府官公庁の受注で仕事をするシンクタンクの研究員で、名前を出して政府批判をすることは職場から認められない。それでも匿名でしか語れない自分にもどかしさと、卑怯さを感じた。一つ一つの調査報道を成り立たせた情報提供者たちが、そんな葛藤とジレンマの中で、通常ではありえない「狂気」の選択をしたことが想像できる。その狂気の選択を引き出すのは、この調査報道記者が放つ圧倒的な狂気の問いかけなのだ。
「民主主義を守る側と殺す側」あなたはどっちに加担するのか?