由良君美とは何者か? 阿部公彦
記事:筑摩書房
記事:筑摩書房
由良君美はなかなか出会うのが難しい人物である。いったいどこに行けば会えるのだろう。きちんと向き合うにはどうしたらいいのか。若い人に紹介するにはどうしたらいいか。とりあえず事務的情報としては英文学者で東大教授、イギリスロマン派を専門とし、とくにコールリッジを研究していた、といったことになる。さらに言うなら、70年代から80年代にかけての現代思想ブームでは先陣を切って批評理論の導入に尽力し、精力的に〝学際的〟な知を推進した、などと付け加えてもいい。
でも、これではとても足りないのだ。死後20年以上たってもいまだに評判は衰えず、文芸評論などほとんど読まれなくなった中でこのように著書は着々と文庫化、四方田犬彦による評伝『先生とわたし』(2007)の刊行に際しても「あそこは違う」「ここは噓だ」と話題沸騰となるような人である。かつて東大駒場での「由良ゼミ」は希望者多数のため厳しいセレクションが行われ、その周囲には三賢人とか四天王とか七福神とか呼びたくなるような迫力ある秀才、碩学、奇才がひかえていた。「由良先生はかつて詩を書いていたらしい」などと囁く者がいたり、さらには「由良先生が中原中也のことをナカハラナカヤと言ったぞ」などとどうでもいい噂までも流布する。おそらく、その存在には本質的なあやしさがあったのだ。だから、流言やら伝説やらが生まれ、愛憎の交錯が巻き起こされ、喧嘩や嫉妬や絶交が発生したのだと思う。
いったい由良君美の正体はどこにあるのか。由良にまとまった著作がなく、その文章の多くが短いエッセイの形をとったことはよく知られているが、本書『みみずく古本市』はその中でもとくに書評や解説を集めたものである。通読した方はどのような印象を持たれただろう。実は私にはこのような書評集こそが、由良君美という人と出会うための近道のように思えるのである。
大学に入ったばかりの頃、私は退官間際の由良先生のゼミに参加した。ゼミはかつてのように希望者多数のため抽選ということもなく、10人前後の参加者が小さなゼミ室でテーブルを囲んだのだが、あのときのような気分を味わったことはそれ以降もないというくらい、それはそれは緊張する授業だった。そもそも参加者からしてあやしかった。「航空部にいます。占いの研究をしたい」などと自己紹介をする女性がいるかと思うと、由良先生のコメントに対し、いちいち「カカカ」「ケケケ」とカ行の笑いで反応する学生がいて、どうやらそれは知的興奮を示す笑いだったらしいのだが、由良先生もそれに対して「んふふ」と笑いで返される。ふたりで「カカカ」「んふふ」と笑い合っているのである。これはいったい何なのか。田舎の学校から入学したばかりで右も左もわからない、ラカンもエリアーデもバフチンも聞いたことのなかった人間には、どこがおもしろいのか、そもそも知的に先鋭なことに対して、なぜカ行の笑いで反応するのかが理解できず、ほとんど首をしめられたような苦しい気分を味わったものである。
そういうわけだから、ゼミに参加し身近に接しても、先生の正体などわかるわけもない。毎週、「もう辛いから、授業に行くのをやめようか」と思ったものだが、自分に試練を課すつもりで出席をつづけた。何とか由良先生の正体を突き止めたい、と思ったのだ。そしてその後も機会があれば、周りの人に対し私は由良語りを仕掛けてきた。「あなたは由良先生のことをいったいいかがお考えか?」と。もちろん、由良先生が「あの人はダメね」と名前をあげたような方に問いかけるのは避けたが、当時すっかり「アンチ英文学業界」のスタンスをとっておられた由良先生のことを、周囲の英文学の先生がどのようにとらえているのかとても気になったのである。
そんなときにひとつ、なるほど、というコメントがあった。すでに由良先生が亡くなってからだったか、その先生はこうおっしゃったのである。「由良さんのほんとのすごさはね、あんなふうにゴシック小説を本気でおもしろがれたところだよ」。
これは聞きようによっては由良先生に対する揶揄ととられるかもしれないが、そうではない。このコメントが揶揄しているのは、むしろ本気でゴシック小説を読めない人たちの方である。ゴシック小説を対象として扱っている研究者で、どれだけの人が本気で作品をおもしろがっているのか。研究の過程をおもしろがることはあるかもしれない。理屈をつけるのには便利かもしれない。文学史を書き直すのにもちょうどいい目の付け所となる。でも、ほんとうにゴシック的なものに興奮している人はどれだけいるだろうか。
本書でも、たとえば「悪魔模様の玉垂簾:まず、お開きください」では、母親の中耳炎を治した霊能者への言及があるが、由良先生がここでもけっこう本気なのはよくわかる。ゼミのときもそうだった。奇談・珍談・怪談を表向き穏やかに、にこやかに、しかし、目の奥には妙な輝きをたたえながら、かなりの力をこめて語るのが由良先生だったのである。
これはゴシック小説のことに限らない。由良先生の書評をあらためて読んで気づくのは、よくもこういうことに本気になれるという驚きである。本書に収められたものの中でもとりわけ力がこもっており由良先生の姿勢がよくあらわれたものとして、私は三つの評をあげたい。すなわち、「ロシア・フォルマリズム:この二〇世紀の隠蔽部分――シクロフスキー『散文の理論』」、「批評理論の確立のために:あるべき体系化を――筑摩書房版『世界批評大系』Ⅰ」、「表層変容のエクリチュール――蓮實重彥著『「私小説」を読む』」である。「批評理論ということになれば、現代日本は﹁ないないづくし﹂である」との一文で始まる『散文の理論』評、若き蓮實重彥に喝采を送った『「私小説」を読む』評、以下のようなエピソードを冒頭に掲げる『世界批評大系』評の共通点は明瞭だろう。
「大体〈批評〉とか〈理論〉とかを口走る奴に、碌な奴はいない!」専攻上わたしはその〈碌でもない奴〉のひとりになるらしかったから、先輩のこの英文学者の、不可解な突然の興奮に、わたしはただ驚き呆れるほかはなかった。
このように由良先生は――ゼミのときもそうだったが――事あるごとに既成のアカデミズムや文壇的な批評の作法をやり玉にあげ、とくに印象主義や伝記的アプローチにはほとんど生理的と見えるほどの嫌悪を示した。そして体系的な批評を導入する必要を主張し、ときには具体的な人名をあげながら守旧派に対して激しい批判をくりひろげたのである。
いったいどうしてこんなに本気に、ムキになれたのか? と思う。たしかに理論派を嘲笑するような「大体〈批評〉とか〈理論〉とかを口走る奴に、碌な奴はいない」といった言は、80年代から90年代、いや現在に至るまでときに耳にされるもので、理論の構築を目指す由良先生にとってはこうした相手に立ち向かう必要があったのだろう。だが、当時の雰囲気を覚えている人ならわかると思うが、批評理論推進派の特徴は、ここにもあげた蓮實重彥の著作を筆頭に、軽やかさと、遊戯性と、アイロニーを備えていることにもあった。つまり、本気に見えてしまうことを上手に避けるのもまたその流儀の一つだったのである。由良先生の文章にももちろん諧謔や嫌味や顰み笑いは見られるのだが、そのような部分をはるかに凌駕するようにして文章の勢いから伝わってくるのは、どうしても本気にならざるをえない業のようなものである。訳文に対する注文のつけ方、全集の構成法への批判、論理の展開への疑義など、多少の「遊戯性」では覆い隠せないほどのきちんとした指摘に加えて、ほとんど過剰なほどの前のめりなこだわりがある。
一般的に言って、批評理論を使いこなす人の多くはたいへん浮気っぽい。構造主義が流行れば構造主義に淫し、脱構築が来ればさっと乗り換える。言語学、文化人類学、宗教学、精神分析など、他領域との接続もお手の物。J・ヒリス・ミラー、スタンリー・フィッシュ、テリー・イーグルトンなど、かつての英米圏のスター批評家にはそうした人が多かった。そもそも「一生精神分析批評」とか、「30年間ポストコロニアル批評ひとすじ」などという研究者がいたら、むしろ倒錯的に見えるだろう。ほとんどの理論派は出発点に「理論なんて、使えればいいのさ」という発想を持っているのである。もちろん由良先生もさまざまな潮流をきちんとおさえてはいるのだが、少し違うのは、彼が「批評理論」というほんとうにあるのかないのかわからないカテゴリーそのものに対し、かくも本気になりえたということなのである。これはいったいどういうことなのか。しかも、先生自身はついぞ個別理論の構築には到らなかったのだ。
由良君美という人の正体が不明に見える背景には、このような事情があると思う。理論を使うために習得するのでもない。かといって言語学者のように、淡々と理論の枠を整備するのでもない。まるで〝理論〟というイデアそのものを愛しているかのように見える。
おそらく本書がほんとうに感動的なのはそこなのだ。こんなふうに知そのものを妥協無しに、不器用なほどに愛してしまった人の文章なのである。書評群の中にふんだんに開陳される贅沢な博識や、一刀両断で歯切れのよい、遠くまで視界の開けた見取り図を読んでいると、ときには、ちょっと壮大すぎるなあ……ほんとうかなあ? と疑いの萌(きざ)す刹那がないでもない。それほど由良は強く言うのである。散文でこんなに強く言うのは、なかなかできることではない。説得力を持たせるためなら、ちょっと引いたり、言いやめたり、口をつぐんだりした方が効果的だろう。でも、そんな卑小な効果よりもどんどん言いたいのである。全部言うのである。人は案外、そういう文章に惹かれるものだ。
今、由良先生が生きていたら、何とおっしゃるだろうと思う。批評理論はすっかり当たり前のものになった。入門書も数多く出版され、文学部は滅びても「批評理論」と銘打たれた授業は残っている。「理論なんて、使えればいいのさ」という考えは、若い研究者の間では今や常識だろう。でも、だからこそ、一見洒脱で軽やかのようでいて、おそらく対人関係も含めて決して器用ではなかったのだろう由良先生の、照れくささに満ちた「んふふ」がすごく懐かしいのである。厳しい父親のもとで抑圧され、学校になじめずに博物館で鎧甲の模写ばかり行っていたという少年時代を振り返りながら由良先生は、自分の前半生が筆舌に尽くしがたいほどの悲惨さと屈辱に満ちていたと述懐する(「御引換券『紙魚みみずく図鑑』――ほんのヤレを三枚」)。ようやく「特色ある自分」を見出したのは20代後半のこと。彼は本に救われたのである。そこには、生存のために知をほんとうに必要とした人の姿が見えるのである。
(由良君美『みみずく古本市』(ちくま文庫)解説を転載)