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フェミニスト・クィア批評が楽しい理由を語る 英文学者・北村紗衣さんと社会学者・森山至貴さんが対談

下北沢の本屋B&Bでオンラインイベントが開催された。フェミニスト批評家の北村紗衣さん(左)社会学者の森山至貴さん。
下北沢の本屋B&Bでオンラインイベントが開催された。フェミニスト批評家の北村紗衣さん(左)社会学者の森山至貴さん。

批評をやってみたいと思えること

森山:さっそく『批評の教室』の話を聞けたらと思います。すでに読まれている方と同じ感想だと思いますが、すごく面白くて、すごく読みやすい。あと本当に優れた点だと思うんですけど「批評をやってみたい」と思ったんですよ。「〜の教室」といった本は他にもありますが、読んで「すごいな」と思っても、「自分でやってみよう」と思わないことも多い。この本は「やってみたいな」「できそうだな」と思えました。それが私が読んでの一番の変化かなと思います。

 あと、実は対談イベントの前に北村さんの過去の2冊の本を読んだんです。博士論文を元にした『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』とWezzyの連載を元にした『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』ですね。刊行順に読んでいって、『批評の教室』にたどり着くと、すごくつながっているなと思いました。

 『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』では、シェイクスピアを読んだ女性が何を書き残したか、それを通じてどういう交流をしたか、どうファンダムが立ち上がったかが書かれていました。まさにそれとつながる立場ですね。

 たとえば『批評の教室』の第4章は「コミュニティをつくる」です。批評の解釈共同体論について書いていますけど、批評が他の人の批評とぶつかったりしながら、そこに楽しみの塊が生み出されることを大事にしている。書いた後に人と見せあったりすることに、重きを置いていることがわかります。これはとても北村さんらしいなと思いました。

新刊『批評の教室─チョウのように読み、ハチのように書く』の著者で批評家の北村紗衣さん
新刊『批評の教室─チョウのように読み、ハチのように書く』の著者で批評家の北村紗衣さん

北村:私は全然コミュニティにいられないタイプの人間なんです。友達は多くないし、あまり付き合いやすい人じゃない。じゃ友達ができない人は何を媒介に人とつながればいいかを考えると、芸術作品があると思いました。ずっと密接にコミュニティにいなくてもいいんです。ネットワークができると、社会的にも政治的にも芸術的にもいろんなものが生まれてくる。『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』でも『批評の教室』でも、そういうことを念頭に置いていました。

 実は私は博士論文を書きはじめた時は、コミュニティの論文を書くなんてまったく思っていなかった。イギリスで一人で孤独にコミュニティのことを考えるという、よくわからないことをしていました。そこでスタンリー・フィッシュの解釈共同体論などの研究に出会って、私がしたいのはこういうことだなと思いました。それで博士論文でコミュニティについて書きました。

 森山さんも最初の本は『「ゲイコミュニティ」の社会学』で、コミュニティについて書いていますね。その後に一般書を書かれています。『LGBTを読みとく』はすごくいい本だと思いました。クィア批評をやりたい学生がいたら「まず批評じゃなくてこの本を読みなさい」と言っています。こういう今までの研究の集大成になって、かつ学生が簡単に読めて教科書になる本を批評版でやりたいなと思いました。『批評の教室』は『LGBTを読みとく』と廣野由美子さんの『批評理論入門』の2つを目標にして書きました。森山さんには遠くからご指導いただいている気がしています。

小説、映画、演劇。幅広い守備範囲の理由

森山:前から北村さんの守備範囲の広さを知っているので、『批評の教室』を普通に読んじゃったんですけど、よく考えたらすごいなと思ったのは、小説、映画、演劇を全部一人で扱っていることです。全然バラバラのジャンルでどれでもいけるのはすごいことだなと。

北村:大学で教育をしていると、この形にしないといけないと思いました。武蔵大学が小さくて、私の学科でイギリス文学の専門は小説の先生がもう一人いるだけなんです。なので映画や演劇も対応しないといけません。小説でも古めの作品は私の担当になったりします。物理的な限界があるので、なんとかしたいという思いがあります。

 あと、英文学科じゃなくて英語英米文化学科なので、地域研究なんですよね。なんとなくイギリスに興味があるけれど、小説、芝居、映画、食べ物などの何に興味があるかはまだわからない学生が入ってくる。そこで何か一個決めて、なんでも批評できるようにしてもらう。割と広い範囲をカバーして「批評が分かる」としたほうが、うちの大学の学生や関心が定まっていない高校生にはいいんじゃないかなと思いました。

社会学者の森山至貴さん
社会学者の森山至貴さん

森山:私が『LGBTを読みとく』を書いた時に、北村さんから「社会学者の人が書いているような感じがしました」という感想をいただきました。『批評の教室』も読んでいると、シェイクスピア学者が書いた本だという感じがしました。

 シェイクスピアの引用が多いことはもちろんそうですが、小説と舞台と映画を全部串刺しにして書ける学問ジャンルはそんなに多くない。シェイクスピア研究者は強いな、こんなに何でもできないといけないんだな、と思いました。

北村:確かにシェイクスピア研究は受容研究などいろんなものを扱わないといけないので、そういう環境で知らないうちに鍛えられてきたかもしれません。

 またシェイクスピアなどの舞台研究者特有の考えとして、解釈が一定に定まらないということがあります。1年に何度も全然バラバラの演出で「ハムレット」を見たりする。さらに映画や小説や漫画がある。台本は建築の図面と同じで、建てる人によって違うものが建つという比喩をすることがあります。

 小説や映画だけを取り上げている人たちよりも、解釈が一定することに関して疑念があります。「いろんな解釈を楽しむのがお芝居の醍醐味」という考えがある。全体的に「作品の本質を捉えよう」「コミュニケーションをしよう」としているのは、演劇をやっているからだと思います。そういう意味でも、シェイクスピア研究者っぽい本になっている気がしました。

批評でコミュニティをつくる楽しさ

森山:あと読んでいて思ったのは、さっきのコミュニティの話につながるんですけど、久しぶりに読書会をしたいなと思いました。4章では、飯島弘規さんという学生さんとお互いの批評を読み合っていました。

 どう読んだかの感想を言い合っていた学生時代はすごく楽しかったことを思い出しましたし、視聴者の方からの質問でも「学生でない場合、批評を読み合う場はどういう所が考えられるでしょうか」とありますね。

北村:学生はゼミやサークルでできるんですけど、そうでない成人は読書会でしょうか。ミステリ、SF、長いものを読むなど、いろんなコンセプトがあると思います。そういうところで意見交換をしながら、批評を書いてみるのもいいかもしれません。

森山:演劇や小説について誰かと感想を語り合いたいのは、プリミティブな欲求だと思います。私も昔は必ず友人と演劇など見終わった後、カフェで感想戦をやっていました。すごく楽しかった記憶があります。やっぱり読んだり見たりしたら、すぐ誰かと何かを話したいと思う方も多いんじゃないですかね。

北村:特に今は新型コロナになって、感想戦ができなくなってしまって、寂しく感じる人も多いのかもしれません。

 あと感想戦は「あそこがわからん」と話すこともあると思います。たとえば「TENET」みたいな難しめの作品だと「私の解釈は適切だろうか」「誰かに解説してほしい」と不安になったりする。そこで話し合うのも感想戦の楽しみのひとつですね。わかるために人と話すこともあると思います。

森山:確かにそうですね。自分一人ではすべての要素を拾えないので、私が拾った要素とあなたが拾った要素をつなぎ合わせて、一枚の絵を描いてみたいという欲望がありますね。

北村:前に翻訳した『コンヴァージェンス・カルチャー』という本では、マトリックスがそういう読み方が広がったきっかけの作品だと扱われていました。マトリックスは、画面の中の情報の密度が高すぎて、1回見ただけではわからない人も多い。それでビデオやDVDが出ると、見て確認しながら「あそこあれだよね」と話すような文化が成立して、大きいファンコミュニティができたらしいんですよね。

 小説でもトリックが仕掛けてあって、1回読んだだけではわからないと、感想戦は盛り上がりますよね。人の解釈を素直に聞く場としても、複雑な話のほうがいいんじゃないかと思います。自分がよくわからないところがわかった、と素直に受け入れやすいんじゃないかなと思います。

クィア批評を経由した新しい映画とは

森山:最近のクィア映画の批評について知りたいという質問が来ています。

北村:最近のクィア映画というと、『批評の教室』でも出てきた「燃ゆる女の肖像」の監督セリーヌ・シアマの旧作「トムボーイ」がやっと公開されました。これはすごく批評が書きにくい作品なんですよ。

 主人公の子どもが家に引っ越してきて、けっこう男の子っぽい格好をしている。外では男の子の名前を名乗ってるんですけど、家では女の子の名前で呼ばれている。最後に「外で男の子のふりをしてはいけないよ」ということを言われて終わるんです。

 何の予備知識もなく見ると、この子のアイデンティティはトランスジェンダーの男の子なのか、女の子が男の子のふりをしているのか、あるいはノンバイナリーの子なのか、全然わからないんです。そういうアイデンティティが一個の言葉で言えない人物が出てくると、名指しでアイデンティティを書くだけでちょっと暴力的な感じがします。間違っているかもしれない。とても書くのが難しいんです。

 でも子どもの時はアイデンティティを言葉にできなくて、何かよくわからない違和感が存在することがある。それが生き方に反映されてしまうことを描いている。だから何か書かざるをえないような気がします。そういう映画は見ていて刺激的だし、すごく面白いですね。

森山:クィア批評は主人公の隠れたジェンダーやセクシュアリティに関する隙間を埋める作業だったわけじゃないですか。それを暴露と呼ぶかどうかはともかく。多くの人が異性愛者だと勝手に想定していた登場人物が、実は同性愛者なんじゃないかと説得的な読みを提示する。空白の部分に逸脱的とされる何かを読み込む。今のお話は逸脱的なものをはめこむこと自体も暴力的なことだよね、と。その次のフェーズにきているんですね。

北村:いくつもの逸脱の可能性があって、どこに収斂するのか全然わからないんですね。

森山:それはクィア批評を経由した映画という感じがします。観客がこの人は実はゲイだ、トランスだと発見したら終わる映画ではないと。それがあからさまに提示されている。

北村:この間、金沢大学准教授の久保豊さんが研究会の質疑応答で話されていたことがありました。昔はレズビアンやゲイだと判断していた登場人物がいる。それが最近の学生からは「アセクシュアルですよね」という感想が出てくると。だんだんヘテロセクシュアルやシスジェンダー以外を指す言葉の語彙が増えている。言語が増えて解像度が上がって、複雑になっているという見方があると思います。

森山:それはすごく面白いエピソードですね。確かに書いてないんだから、アセクシュアルなんじゃない?と考えて別にいいわけですよね。

 一方で、最近ゼミの学生と話題になったことがあります。最近のクィア批評を悪い意味で経由した例です。小説や映画をつくる時に、多様な性のあり方に造詣は全然ないんだけど、「私はトランスとか同性愛とかそういう単語では括れないリアリティを描いている」と言うことがあります。でもそれは単純に誤解に満ちているだけで、偏見がごちゃごちゃ混ざっていたりするんです。名指すことの暴力性を回避していることが、ちゃんとしていないことの言い訳になっている。そういう作品もあるのかなと思います。

北村:型を理解しないと型破りなことはできない、みたいな話ですよね。『批評の教室』にも書いたことでした。

 たとえば、同性愛のカップルを描く時に「愛は性別を超越をしているから」と雑にまとめているみたいな。型を学ばずに独創性がない作品を生み出しているだけな気がします。

森山:今来ている質問につながりますが、作品として質が低いだけでなく、差別的な内容である時はどうしたらいいでしょうか。「学生さんの授業コメントやレポートで人種差別や性差別を含むものがあった場合、どのように指摘していますか」とありました。差別的だと指導しないといけない場面がありますよね。

北村:レポートで人種差別的、性差別的な内容があるときは、大体こういう風に質問するんです。「それは社会において性差別や人種差別があることを指摘したいんですか。それともあなたは本当にこう思っていますか」と聞きます。

 学生によっては社会に人種差別や性差別があることを書きたいらしいのに、明らかな文章力不足で、うまく表現できていないことがあります。最初は人種差別、性差別的なことを書いていても、よく議論して考えると本当は社会にそういうものがあることを指摘したかったと気付くことがある。

 そう誘導できるといいんですけど、人種差別や性差別は悪いことだと思っている学生だと、怒られたと思って謝ってくることもあるんです。でもそうじゃなくて、差別的な表現を書いてしまったときは、社会に差別があってそれが自分の文章にも現れているということを深く認識するまで考えてほしいんですよね。

森山:ある意味、批評や論文における重要なポイントですね。あなたが思っていることと、実態としてどうなっているかは分けて書きなさい、と。でも難しいですよね。人種差別や性差別の問題はそれがよくないという価値判断を表明することにも意義があるから、単純な事実と事実に対する判断が込み入った形で文章になってしまう。学生がそれをうまく書けなくなることはありそうですね。

「批評は楽しい」と言い続けたい

森山:『批評の教室』では批評は「楽しい」「快楽だ」ということが書かれていてすごく嬉しいです。そういう方向性からの批評の本はなかったのではないか。批評はもっと暴露みたいな言葉に結び付けられて、伝統的に考えられてきました。

 文学の分野だとポストクリティークの議論があります。昔は隠されていたものを暴露していただけだったけれど、読むってそういうことだけじゃないじゃん、楽しいこともあるじゃんと。

 「読んで楽しいんだから批評はいらないじゃん」派はもちろんいる。一方でものすごくシリアスな「批評天下一武道会」の参加者みたいな人たちがいる。なんでこんなに苦しそうになって戦っているんだろうと思います。丁寧に読んで批評することは楽しいと大きく打ち出しているのが、かなり重要なことだと思いました。

北村:私が私が博論を書いていた時に、なんでみんながこんなに批評は実存的にシリアスなビジネスだと思っているのかを問うている研究がありました。フランスの社会学理論や哲学理論、たとえばブルデュー、バルト、フーコーなどの読み方が英米に導入された時に、あまりにも真面目に捉えすぎて、元のテクストにあった楽しさや遊戯性が捨象されていると議論されていました。アングロ・サクソンフィルターで、フランス語の微妙なニュアンスの楽しさが捨象されていると。だから批評理論がやたらとクソ真面目に見えるのは、そのせいじゃないかと思っています。

 日本ではバルトやフーコーは英語を経由しないで翻訳されています。英語圏の研究を経由せずに、読んで考えることができる。実は批評理論のバッグボーンのフレンチセオリーも、実は楽しいことを排除していないんじゃないかなと。そうした視点で批評理論に当たるのもありかなと思っています。

  作品の中の解釈が確定することは望めないので、その中で楽しく遊ぶことが大事かなと思いました。そこがコミュニティやコミュニケーションの話につながります。博論を書いた当時から「読んで楽しい」「見て楽しい」みたいな感情が、芸術が反映するためにすごく重要なことだと思っていました。『批評の教室』でも「批評は楽しいよ」とずっと言いたいなと思いながら書いたんです。

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