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「ゴシック・カルチャー」論じる新世代の暗黒批評家・後藤護さんインタビュー

文:篠原諄也 写真:北原千恵美

苦しむ知性、滅びの美学

――「暗黒批評」とは何でしょう?

 暗黒批評……僕のやってることですよ(笑)。ただのキャッチフレーズなんですよね。もともとゴシック・ロマンスやフィルム・ノワールが凄い好きでした。それを日本語にすると、暗黒小説や暗黒映画になるらしいと。ああ暗黒舞踏もあるなとか気づき始める。暗黒というのは、結構何にでもつくんだなと思っていたところ、とうとう哲学の人まで「暗黒啓蒙」(ニック・ランド)とか「ダークエコロジー」(ティモシー・モートン)と言い出したぞ!と。これはもう批評全体が暗黒化せねばなるまい!と思って名づけました。どっちかというとニック・ランドよりも早かったですね。ニック・ランドは僕のパクリです、とか言ってみたり(笑)。

――メインストリームのスタンダードな批評に対するアンチのようなものでしょうか?

 まさにそうですね。固有名詞で言うと、種村季弘や高山宏のような、博覧強記で圧倒する批評ですよね。上から来るやつ。「どうだ!俺の動きについてこれるか!」って、あの感じ。それが今ないから、僕のやってる批評誌「機関精神史」の仲間たちと復活させたい。一部例外を除いて今の日本の批評シーンって、やっぱり日本語圏で流通しているものだけでゲームをしている感じがします。狭すぎてガラパゴスに見えちゃう。

 あえて暗黒批評に意味をもたせるならば、外国語との葛藤も持った知性、つまりもう苦しむ知性ですよね。苦しみの刻印でもある。一種の自分にかけた呪いです。批評っていうのは、そんなに楽しいだけじゃないよと。ヤクザのすることなんだから、趣味でやるんじゃないよと。「芸能」というか「見世物」にも近い、滅びの美学です。

――本書ではゴシック・ロマンスやフィルム・ノワールの他にも、ゴスロック、ゴスファッションなど、幅広い領域が論じられています。正直、固有名詞を追うだけで難しく、相当読み応えがありました。

 タイトルに「入門」とありますが、正直凄い嫌だったんですね。なので逆手にとって「入門」に厳しい通過儀礼の意味をもたせ、場合によっては「破門」もあるよということにしました。全ての色を混ぜたら黒になるように、すべての領域を混ぜ合わせると批評もまた黒になる。その意味でも暗黒批評です。

 一回さくっと読んで捨てる本だったら書く意味もないと思って。ある程度ゴリゴリしているものを書きたいんです。僕が今まで読んできた本の傾向を辿ると、ゴリゴリした本のほうが覚えてるんですよ。例えば、平岡正明を読んでいると「なんて下手くそな文章なんだ! 同じこと3回いってんぞ!」と思う。でもそれが変なドライブ感になって、引っかかったりするんですよ。今、みんな直線的な文章を書きたがるじゃないですか。始まりと終わりがきちんとしたスマートな文章。僕も書いたものを結構直されるんですよ。「ここは蛇足」とか言われてね。「いやいや、バーバラ・スタフォードの『ボディ・クリティシズム』読んだ身からすれば、蛇足こそが人生だよ!」と言いたい。今流行の加速主義に対抗できるのは、この蛇足主義でしょうね。

日本でこれまで語られなかった視点とは

――冒頭の「暗黒批評宣言」では「『ゴシック的』なものがいかに時代を貫通し、多様なジャンルに寄生していったかを精神史の観点から(…)見ていくことがより必要だ」とありました。「ゴシック的な」ものの定義とは?

 3つのキーモチーフがあります。1つが明暗対比(キアロスクーロ)。悪と善、闇と光など二項対立がはっきりしていて、中間層がない極端な世界。もう1つがアッサンブラージュ、つまり混ぜ合わせの原理です。映画「ロッキー・ホラー・ショー」に出てくるような網タイツや安っぽい光線銃など、悪趣味なものの寄せ集め。3つ目はピクチャレスク。人間は見るからに汚らわしい俗悪なものでも、ある種フレーミングしてしまえば、美として看取できてしまうということ。そういう反美学的な美学がゴシックだよ、と。これらを三種の神器にしてしまえば、多分一本線を引けるだろうと考えました。これは精神史という方法論で、ある精神の運動があったならば、それは垂直的に歴史化できるということです。「ゴシック的精神」というものを仮定してみて、その変遷を辿っていくんです。

――「読む/見る」「殺る」「聴く」など様々な観点で「ゴシック的」なものを論じていますね。

 僕としては一番思い入れがあるのは、第五章「『鄙びる』ゴシック」です。スラッシャー映画やフォーク/カントリー音楽に絡めつつ、アメリカにおける田吾作とゴシックの関係について論じました。高貴な暗黒美学であるゴシック・カルチャーを論じるうえで、山形県の田吾作の倅でしかない僕がどうすればいいかを悩む中で生まれた、我ながらエポック・メイキングな章だと思ってます。一目置く友人たちは皆、この章をほめてくれますね。

――アメリカで有名だというグラント・ウッドの美術作品「アメリカン・ゴシック」についても論じられていました。ゴシック論というとヨーロッパの芸術が論じられることが多い中、アメリカについても多く論じているのが本書の特徴だそうですね。

 スキンヘッドの農夫がピッチフォークを持って、片方に面長のおばちゃんがいます。この絵のアメリカでの受容の変遷を辿ったスティーヴン・ビエル『アメリカン・ゴシック―アメリカで最も有名な絵画の生涯』を読んで衝撃を受けたんです。絵画の受容のされ方が、アメリカのナショナリズムの変遷とほぼ重なっていく。大恐慌や第二次大戦の余波を受けて、「ゴシック」の部分から「アメリカン」の部分に比重が移っていくわけですね。

 こうしたゴシックの政治学は、意外と今まで日本人は語ってこなかったよなと思ったんです。美学としてばかり論じられてきたところがあったので、政治学的に読んでみました。僕の出自にも重なるしで、「田吾作」という概念は発見でしたね。

「極道ならぬゴス道」へ

――本書では高山宏さんの論考「目の中の劇場―ゴシック的視覚の観念史」(『目の中の劇場―アリス狩り』)が「本邦ゴシック論の最高傑作」だとされていました。後藤さんは地元の山形大学の理工系の学科を中退し、明治大学に入学し上京したそうで、そこで高山宏さんに出会ったことが大きかったとのことですね。

 人生最大の衝撃ですね。当時大学の友達から「凄いオヤジさんがいる」と聞いて。アロハシャツでロン毛で、何言ってるか分からない黒眼鏡の人がいるとのことで、それは面白そうだと授業を受けてみたんですよ。見に行った結果、本当に何を言ってるか分からない(笑)。難解すぎるし、日本語じゃない文字やら謎の曲線が黒板をうねうねと埋め尽くしていて解読できない。なんで文学の話をしていたのに、急にリンネの博物学の話になったのか、全然分からない。その時はなんとなく凄い人だとは思ったけれど、ついていこうとまでは思わなかったんですよ。

 学部時代はスティーブン・キングの翻訳などをやっている風間賢二先生の卒論ゼミに入りました。授業のテーマがフリークス(畸形)で、アメリカの興行師P・T・バーナムなどについてビジュアル満点で面白おかしく話していて、俺もこういうスタイルでやりたいなと思って。大学院で高山さんを師事するようになったのは、風間さんにいろいろ教わって、高山さんのやらんとしていることのスケールのでかさがようやく分かったからですね。

――それで大学院で高山宏さんに師事することになったんですね。教わってみてどうでしたか?

 僕の極道ならぬゴス道の始まりでした。高山さんは職人さんと一緒ですね。あえて分かりやすくは教えてくれないタイプで、俺の技を盗めみたいな。幸か不幸か他の学生がおらず一対一で受けたから、高山さんの動向を間近で観察してたんですよ。部屋に入ってくる時の顔の角度とか、着ている服装とか。授業聞けよって話ですね(笑)。そこからいろいろ真似していたんです。ああ、冬でも首元は涼しくするのか、これが「伊達の薄着」かとか。

 高山さんの教え子は意外にも真面目な人が多くて、高山さんの学問をちゃんと吸収して勉強したいというタイプが多かった。でも僕が一番大切だと思っていた「高山イズム」がそういう方々にはゼロなんですよ。申し訳ないけど、地味すぎ。「物真似からやれよ」って思うんですけどね。それこそパティ・スミスは大好きなボブ・ディランのタクシーの止め方まで物真似できるようになって、初めて自分らしさが出たと言ってますね。

「ゴシック」を脱構築するもの

――本書は269ページありますが、5ヶ月間で書き上げたそうですね。でもまだ書き足りないとのことですが。

 今回、時間不足・準備不足で書けなかったことが多すぎる。帯に「暗黒美学の全貌」とあるんですけど、僕としては「三分の一貌」くらいです。僕の認識としては、合計3冊くらい書くと、ある程度ちゃんとしたゴシック論としてまとまるだろうと思います。とくにゴスロックに関しては4ADレーベルを落としてしまったのは痛い。好きすぎて書けなかったんです(笑)。コクトー・ツインズにはじまる「エーテル・ウェーブ」というゴスのサブジャンルがあるんですが、その霊妙なる暗黒四大の音楽をルドルフ・シュタイナーの人智学、薔薇十字団の思想、四元素=精霊の対応などにからめるような怪しげな論考を書きたいですね。マーティン・アストンという車の名前みたいな人が『Facing the Other Way: The Story of 4-A-D』というレーベルの歴史をまとめた600ページ超えのとんでもない本を出してるので、これがネタ本で決まりだな。

――次はどんなテーマに関心がありますか?

 アフロ・カルチャーに関心があります。この本で書けなかったことのひとつが「企むゴシック」というタイトルのメタフィクション論でした。アメリカの60年代のカウンターカルチャーのカリスマ的な思想家のセオドア・ローザックという人がいて、『フリッカー、あるいは映画の魔』というメタフィクションを書いているんですよ。

 ドイツから亡命した幻の映画監督マックス・キャッスルの作品をアメリカのシネフィルが見ていると、どうも変な気分がしてくると。フリッカーは光の明滅という意味なんですけど、よく見ると画面に裸の女が一瞬見えたりして、どうも洗脳しているようだと分かってくる。もっと辿っていくと、この光の明滅はある思想を表しているらしい。「マルタの鷹」という有名な映画があるんですが、それが中世のマルタ十字軍と関わりがあるとかヤバい話になっていく。そのマルタ十字軍が逃げたマルタ島に、元祖映画といえる原始的な機械があったんだ、とますますヤバくなる。そこで繰り返された光の明滅は、もっと辿ると古代のマニ教から連なる光と闇の相克だ!という陰謀論になっていく小説で「これぞ精神史!」と思いました。 ただ、めちゃくちゃ面白いんだけども、やっぱり善と悪、光と闇という明暗対比(キアロスクーロ)で、基本的にピューリタン的な思想回路なので、ちょっと限界があるなと思っちゃって。

――ゴシックの限界を感じるんですね。

 ネオ・フードゥイズムの代表格と言われる黒人作家イシュメール・リードに、『マンボ・ジャンボ』という小説があります。それはまさに古代のマニ教から連なる光と闇の相剋、二項対立的に考えていく西洋的なあり方に対して、黒人探偵が「ポップ多神教だ」だと言いながら闘う話なんですよ。多神教VSゴシックですよね。ちなみにカンパニー社からこの人のデビュー作『フリーランス・ポールベアラーズ』を翻訳刊行という話になっています。

 つまり、ゴシックを脱構築するものとして、アフロ・カルチャーはあるなと。だからその意味で、僕は次にアフロにいきたいんですよ。僕のデビュー作はその土台になったと思います。西洋的・ピューリタン的な思考回路が歴然とある。「おらんとこ入ったら殺すだ。おらの畑のイモは渡さない!」っていう、ドナルド・トランプ支持派の田吾作マインドですね。でもそのマインドをね、ちょっと「まあまあ」「ヘイマン!」ってやるのが黒人音楽のラッパーだと思うんですよ。

 ちなみに僕がデビュー作を出したわずか8日前に、レイラ・テイラーというアフリカ系アメリカ人の女性が『Darkly: Black History and America's Gothic Soul』という、アフロの「黒」とゴシックの「黒」を重ね合わせるような本を出しています。彼女もこれがデビュー作みたいです。ドラ・アペルやマーク・ビネリに代表されるデトロイト廃墟論、思弁的実在論周辺のマーク・フィッシャーとか、参考文献の重なりにも驚かされました。「アフロ・ゴシック」なんてのも、次はいいかもですね。