この5月に物故した、現代日本を代表する文芸評論家、加藤典洋の著作から3冊を選んだ。
まず『敗戦後論』。戦後の日本は、戦後の憲法や天皇制の処理において生じた「ねじれ」を無自覚のまま放置してきた、という主張は、分かりやすい発問とはいえない。だが、いま政治の問題は、護憲か改憲か、謝罪か謝罪不要か、天皇肯定か否定かといった焦点をもつ。その起点にあるのが加藤のいう「敗戦後」の問題である。
若者にはやや遠い問題のようにも見える。しかしこの本はむしろ、現代の若者に、自分が属する日本社会というものをどう考えるかについての重要な手がかりを与える。日本は侵略戦争をした結果負けた。現在の若者にとって、この戦争の責任を引き受けるべきなのか、そう考えなくてもよいのかが、一つのやっかいな問題なのである。
戦後の日本は、戦争は間違っており二度と「誤らない」思想を作るべきという考えと、いやそこには「正しさ」があったという考えとの間で、分裂してきた。だがべつの道もある。われわれは「誤る」という可能性をつねにもっている。そういうとき、ふつうの人間が生活の中で育てている“まっとうさ”の感度から、この誤りを立て直すような考え方がある。優れた戦後の文学にはそういう感度があり、その声を聞いてほしい、そう著者は言っている。この本を読むことは、若者に、自らが属する社会へのモラルというものを再考させるだろう。
作家の像に迫る
つぎに、加藤の批評論として、『世界をわからないものに育てること』。1980年代を通して、日本の文学界をポストモダン思想由来のテクスト論批評が席巻した。その看板は、作品(テクスト)の背後に作家の意を読むな、テクストのみを分析し解釈の多様性にかけよ、というものだ。しかし、加藤典洋の批評はこれに対する自覚的な対抗としてある。講演録「『理論』と『授業』」は、彼の批評論の全体像を鮮やかに伝える。
加藤によれば、読み手を、作家の秘(ひそ)かな動機や深い試みに近づくことへと強くさそう力、これがむしろ優れた作品に通有するものだ。この「作家の像」は真実である必要はなく、読者にのみ現れる“想像された”作家の「原像」である。加藤はこの批評理論を実行している。
話題を呼んだ百田尚樹の『永遠の0』についての言及もあるが、スターリン時代を生きた作家ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』の批評がとくに面白い。
格闘者への友情
時代的に前後するが、90年代以降の新しい文学世代を論じた本格的現代小説論『小説の未来』。両村上(春樹・龍)からはじまり、川上弘美、阿部和重、町田康、吉本ばななといった作家たちの足跡をたどる。加藤によれば、現代作家たちに共通するのは、時代の新しい現実性に迫ることの困難との苦闘であり、それはテクスト論批評ではアクセスできないものだ。
印象深いのは、これは現代作家の格闘に対する友情のつもりだという言葉だ。加藤は、明敏な探偵のように、さまざまな手がかりを駆使して作家の秘かな動機や企てに肉薄する。たとえば、町田康には「喪失されたものの喪失」についての、吉本ばななには、「超越的なものと日常的なもの」をめぐる屈折した企てがある、と。
この本は、批評というものが、「文学のほんとう」とは何かを新しい世代に伝える、稀有(けう)なリレーだということをよく教える。加藤がいなければ、この時代の文学の感度は、もっと貧しいものになっていたかもしれない。=朝日新聞2019年7月27日掲載