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宮武外骨『震災画報』 有史以来の大惨害にあった市井の人々と権力組織の実態の記録

記事:筑摩書房

宮武外骨『震災画報』(ちくま学芸文庫)書影
宮武外骨『震災画報』(ちくま学芸文庫)書影

電話線を渡る羅災者

 大震後の九月三日、吾妻橋を渡って本所押上へ往復した人の実験談による。

 当時はまだ仮板張もなかったので、電話線を踏んで渡ったのであるが、あたかも木曽の葛橋を渡るように左右へフラフラと動くので、老人や女は四ツ這いになって渡った。その橋下の水面を見ると、溺死した数百の屍体が上げ汐に押流されており、橋杭には筏のごとく屍体がひっかかっているので、イヤな気持であったという。

電話線を踏んで隅田川を渡る羅災者たち(『震災画報』より)
電話線を踏んで隅田川を渡る羅災者たち(『震災画報』より)

大儲けの日本銀行

 今度の震災で直接間接に損をした者は何百万人というほどであるが、その後暴利を博した地震成金は別として、震災その事のために儲けた筆頭は日本銀行である。それは大火のために焼失して跡形もなくなった兌換紙幣が、少くも三千万円以上であるから、それだけ日本銀行が儲けたわけである。

「此際」という語

 今回の震災後、バラック町、天幕(テント)村、自警団などいう新語も出来たが、最も濫用されているのは「社会奉仕」の語であろう。奉仕の字義を知らない自己奉仕の連中までがこれを濫用して、駄菓子屋の店頭や床屋の軒下にまで社会奉仕の貼紙が出ている。流行心理学の一材料であろう。

 これとは違うが、昨今最も広く一般に行われているのは、「此(この)際」という語である。その例、

此際の事ですから御辛抱下さい
何といっても此際にはダメでしょう
此際そんな事をしてはならぬ
平常ならともかく此際には遠慮すべしだ
此際だから我慢しておこう
何でも構わないよ此際じゃないか
此際の事だからそれでよかろう

 この「此際」という語中には、節制、寛容、素朴等の美徳を表して、奢侈、驕慢、虚偽、虚栄、放恣、浮華等を戒め、また一面には復活復興を期する希望をも含んでいる。此際の「此際」という語は実に多義多様の簡約語である。

尋ね人の貼り紙で埋め尽くされた上野の西郷隆盛像(『震災画報』より)
尋ね人の貼り紙で埋め尽くされた上野の西郷隆盛像(『震災画報』より)

人食鬼の広告

 新川柳に「この際に女の道も行きつまり」とか「白粉を塗ってこの際に処する奴」など云われた者が多くあったに乗じて、魔窟の主人が魔の手を延ばして盛んに誘惑した事実は、各方面で行われたらしいが、しかも公然「都新聞」に広告して募集するに至ったのは驚くべき事である。震災後の同紙上に十件、二十件のその広告が出ない日はなかった。五、六の例を左に摘記して人食鬼の実在を示しておく。

 ただしここに「芸妓」とあるのはいわゆる「大正芸妓」の売淫専門者で芸のない「者」であると知りたまえ。

芸妓 商売は非常に忙しい。今すぐにお出下さい。素人でも着物お金も貸し親切に御相談します。 四谷大木戸三楽横丁 亀新中
芸妓 商売は非常に忙がしい。至急入用です。避難者には特に便宜の御相談します。本人来談。 麻布網代町二十一 森川家
芸妓 になりたい二十歳より二十五歳まで。素人でよし。着物もお金も貸します。御本人おいで下さい。 牛込区若松町二番地 仟    松
芸妓 商売繫昌。お望の方、至急本人直接お出下さい。十六歳より二十三歳まで。看板借、分、丸抱新規。
 羅災者特に相談。 芝浦 山登家
芸妓 十五より二十五歳くらいまで。芸なき素人の方、住替いずれにてもぜひ一度御相談下さい。 牛込神楽町ビシャ門横丁 高本叶
芸妓 羅災者歓迎。本人直接御出下さい。看板借、分丸抱。羅災者は特に御便宜を計ります。 芝浦本芝二 初亀 江戸家

 このほか、駒込神明町、四谷新宿、小石川白山、日本橋芳町、下谷中根岸等の人食鬼もまた募集の広告を出していた。

 そして買収された婦女は、芸を売るのでなく、肉を売るのであるが、盛り場では一夜に二十人、三十人の客を取らせている。その玉代は一円以上三円五円で、手取りの収入は少くも一夜に十円以上になるのであるという。

 大震災の騒動ですさんだ心を、肉慾の満足で緩和させようとする者が多いので、いずれの魔窟も大繁昌を極めているのであるが、現社会制度の根本を解せずして、単に公娼廃止の運動をする連中は、かように私娼が跋扈するのを何と視るのであろうか。

軽視された地震学

 帝国大学の理学部に地震学の講座があっても、聴講生はわずかに一、二人しかいなかったと聞く。また今村博士が往年『地震学』の著を公刊せしめたが、ほとんど顧みる者はなかったそうである。これはなぜであるかというに電気学や化学などの専攻者は売れ口がよくて生活の安定を得るが、地震学などは研究したとて、測候所員のほか、何にもなれないとて、これを学ぶ者がなかったからである。

 それが大震一過後は、聴講希望者が増加するので講座を拡張するという事になり、御大今村博士は引っぱり凧同様の景気である。また一般人もにわかに目覚めて、地震学の研究とか地震書の渉猟とかで、従来手にもしなかった古本をあさるので、以前には三十銭か五十銭であった物が、昨今は三円五円の高価になっている。地震学の古本などは十円でも売る人はない。安政見聞の誌録などは三冊一円くらいであったのが、震後漸次騰貴して、暴利屋の書肆では二十円の正札を附けているほどの勢いである。

 当面に即する人間のあさましさはここにも表れている。しかしこの熱も漸次冷却し、今後五、六十年過ぎればまた忘れられる事になって、地震学の知識概略を通俗的に記述する雑学者が出る時代が再来するであろう。

1923年、関東大震災直後の東京・有楽町付近。住民らは家財道具を道路に持ち出していた。左では家屋が倒壊し、右後方の一色活版所ビルからは煙が上がっている(朝日新聞社)
1923年、関東大震災直後の東京・有楽町付近。住民らは家財道具を道路に持ち出していた。左では家屋が倒壊し、右後方の一色活版所ビルからは煙が上がっている(朝日新聞社)

官僚軍閥の大失態

 政府が各地方に青年団や在郷軍人会を組織せしめて、郡区長、府県知事、古手将校などを幹事や会長にしていたのは近年思想の悪化で社会主義にかぶれる者が多いのを危惧して、その万一の時に備えしめんためであったが、突発の大地震に際し、鮮人襲来の警報を伝えて、自警自戒の訓令を発したので出来上がったのが、各地の自警団であった。(中略)

上杉氏(編集部注:法学博士上杉慎吉)曰く「九月二日から三日にわたり、鮮人襲来放火暴行の謡言が伝播し、人心が極度の不安に陥り、関東全体を挙げて動乱の情況を呈するに至ったのは、主として警察官憲が自働車ポスター、口達等の宣伝に由ったのは疑いなき事実である、しかるにその後官憲は虚報であったと打消している。しからば警察官憲が無根の流言を伝播して民心を騒がせ惨禍を大ならしめた責を負わねばなるまい。
 また当時警察官憲は人民に向って、不逞鮮人の検挙に助力すべく勧誘し、武器の携帯を許し、手に余らば殺しても差支なしと信ぜしめたのである。しかるにその後自警団員の暴行を検挙するは当然としても、ここに至らしめた官憲の責任はいかん」云々(十月十四日「国民新聞」による)

 関東自警同盟本部の決議文「我等は当局に対して左の事項を糾す。一、流言の出所に付き当局がその責を負わず、これを民衆に転嫁せんとする理由いかん。二、当局が目のあたり自警団の暴行を放任し、後日に至りその罪を問わんとする理由いかん。三、自警団の罪悪のみ独りこれを天下にあばき、幾多警官の暴行はこれを秘せんとする理由いかん。
 このほか自警団員の罪を免せ云々(十月二十三日二三新聞)。

 かくのごとく、自警団員すなわち青年、在郷軍人らを誤らしめておきながら、その罪のみを問わねばならぬ事になったのは、とにもかくにも官僚軍閥の大失態であったと断言する。

著者外骨の一身

 大震当日の午前、編輯部の楼上へ印刷所の主人を呼寄せて、中田博士の著書『文学と私法』の挿画の印刷が悪いにつき改刷せよと厳談中、ミリミリと来て、隣の間にあった六尺の洋装本棚が襖二枚とともに客室へ倒れたのにびっくりして屋外へ逃出し、その後余震が頻来するので、近傍の人々とともに谷中墓地の一隅で野宿し、明二日は前日来るはずの米屋が全焼で米を持って来ず、近所で奪合うようにして買入れた玄米を梅干壺に入れ摺木で半白にする事を担任し、夕刻からは桜木町会の招集に応じて夜警隊の配置監督役になり、不眠不休で五日間続け、七日八日はくたびれで安眠、九日から本書の発行準備に着手し、十二日から挿画、十六日から編輯、この間毎日数回の余震、戦々兢々と強迫観念に追われつつ、原稿締切となったのが、十八日の午後三時であった。

「玄米を梅干壺に入れ摺木で半白にする事を担任」する外骨(『震災画報』より)
「玄米を梅干壺に入れ摺木で半白にする事を担任」する外骨(『震災画報』より)

 次回からはもう少しよいものを作り上げたいと思うている、思うばかりかもしれない。

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