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そもそも「障害者」とはだれのこと? 「障害」とはなんのこと? 「わからない」からはじめよう

記事:平凡社

「歩ける人」と「歩けない人」がいて、「歩ける人は健常者」で「歩けない人は障害者」なの?
「歩ける人」と「歩けない人」がいて、「歩ける人は健常者」で「歩けない人は障害者」なの?

「できる」と「できない」の違いはなにか?

2022年7月14日発売、平凡社『中学生の質問箱 障害者ってだれのこと?』(荒井裕樹著)
2022年7月14日発売、平凡社『中学生の質問箱 障害者ってだれのこと?』(荒井裕樹著)

 私は大学で教員をしていますが、ときどき学生たちに「障害とはなにか」とか、「障害者とはだれのことか」といった質問をします。すると「なにかができないこと」とか、「なにかができない人」というふうにイメージする人が多いようです。

 でも、「できる」と「できない」の違いって、はっきりしているようで、じつは意外にあいまいだし、複雑なんですよね。たとえば、「歩ける人」と「歩けない人」がいて、「歩ける人は健常者」で「歩けない人は障害者」だと考える人もいます。

――そうじゃないの?

 「歩ける」と「歩けない」は、はっきりくっきり分けられるかというと、そんなこともないんです。

 「歩ける」というのはどういう状態で、「歩けない」とはどういう状態か、少し分解して考えてみましょう。「歩く」という単純な動作にも、じつはいろいろな要素がかかわっているし、さまざまな視点から考えることができます。ここでは次の3点から考えてみましょう。

 1つ目は身体という点です。「歩く」という行為を辞書的に説明すると、2本の足を交互に前に出すことによって、からだ全体を前方へと移動させること、になるでしょうか。

 私たちは一人ひとり身体の状態が違います。「歩く」ことになんの不都合もない人もいれば、「歩く」ことがとてもむずかしい人もいます。だから身体という点で見ても、「歩く」ことの難易度は人それぞれ違います。

 2つ目は社会という点です。私たちが歩くとき、なにもない場所を、なんの目的もなく、ただ純粋に「歩く」というシチュエーションはあまり考えられません。特定の場所を、特定の目的で歩くわけです。

 たとえば、私は最近まで仕事に行くために朝8時の渋谷駅を歩く必要がありました。朝8時の渋谷駅はものすごく人が多いです。JRも私鉄も地下鉄もたくさん乗り入れていて、建物もとても複雑になっています。しかもみんな急いでいるので早足です。

 あちこちから人が歩いてくる中を、いろいろな案内掲示を確認しながら、ぶつからないようにスムーズに歩くというのは、けっこうたいへんな作業です。私はなんとかここを「歩く」ことができましたが、みんながみんな、あの過酷な場所を歩けるというわけではありません。

――人が多いだけでも目がまわってしまうよ。

 そうですね。それからミッションのようなものが課せられることもありますよね。どこそこまでに〇時△分までに着かなければならない、とか。そうすると「歩く」という動作の難易度は、場所や時間や目的といった要素によっても変わってきますよね。

 3つ目は文化という点です。これは社会と重なる部分も多いので説明がむずかしいのですが、簡単に言うと「男らしい歩き方」とか「女らしい歩き方」とか「偉そうな歩き方」とか、そういった問題だと思ってください。

 たとえば、身体という点では不都合なく歩ける人がいて、その人はそれなりに社会的なミッションもクリアできるとします。では、その人は「歩く」という動作になんの悩みもないかというと、そうとも限りません。

 もしかしたら、親や先生から「もっと女の子らしく歩きなさい」と口うるさく言われたり、クラスメイトから「お前の歩き方、なんか偉そうだな」なんてからかわれたりして、「歩く」ことに悩みをもっているかもしれない。それから、服装によっても「歩く」ことの難易度は変わってきますよね。和服だと、そもそも速く歩けません。「歩く」という動作には、こういった難易度もかかわってきますよね。

 今あげた3点は、それぞれ別々に存在しているわけではなく、複雑に絡みあっているのですが、話がややこしくなってしまうので、ここでは身体と社会という点について考えてみましょう。

 仮にCさんがいたとします。Cさんは身体の一部が自由に動きません。でも、まったく歩けないというわけでもありません。速く歩いたり、長い距離を歩いたりするのはむずかしいけど、杖をついたり、ゆっくり歩いたりすれば、それなりに一人で歩くことができます。

 では、Cさんは「歩ける」と言いきってしまってよいのでしょうか。

――うーん……どうなんだろう。身体的には歩けないわけじゃないから、「歩ける」と言えるのかなぁ。

 そうですよね。たしかにCさんはある程度は歩けます。でも、ここに社会という要素が加わると、どうなるか。

 Cさんが夕食の材料を買うためにスーパーに行くとします。買い物に行くというのはごく日常的な行動ですよね。でも、こんな日常的な行動でも、雨が降ったり、風が吹いたりすると、Cさんにとって「歩く」ことの難易度はあがってしまう。

 またCさんは、交通量が少なくて慣れた道であれば、それなりの距離を歩くことができるとします。でも、そんな慣れた道でも、近所の学校の登下校時とか、出勤や帰宅の時間帯には、「歩く」ことの難易度があがります。人が多ければ、それなりに予測できないことも起きるでしょうし、自転車や自動車が不意に横を通り過ぎたり、といったことがあるからです。

 すると、身体という点だけで見たらそれなりに歩くことができるCさんも、状況しだいでは歩くことがむずかしかったり、不可能になったりするわけです。もちろん、自分自身の体調が悪くても歩けません。

――荷物があるかもしれないしね。

 そうそう。なにか大きな荷物をもっていたり、重いものを買ったりしたら、それだけでも難易度があがってしまうでしょうね。

(略)

 単純に「歩く」ということだけを考えても、「歩ける人」の否定形が「歩けない人」で「歩けない人」の否定形が「歩ける人」みたいに、はっきりくっきりしてるわけではないのです。

 「できる」と「できない」ってコインの表裏のようにはなっていない。むしろ、「できる」という極と、「できない」という極が両端にあって、その間にいろいろなグラデーション(濃淡)の「できる/できない」が混じっているようなイメージで考えるほうがよいでしょう。条件がよければできるとか、体調がよければできるとか、ものすごくがんばればできるとか、どうやったってできないとか、いろんな濃淡があるのです。

 だから、単純に「できない人が障害者」で「できる人が健常者」というわけでもないし、そもそも、なにかが「できる」とか「できない」とかって、簡単には切り分けられないのだ、という視点をもつことが大事です。

(『障害者ってだれのこと? 「わからない」からはじめよう』第1部第2章より抜粋)

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