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基地のある風景――小泉悠さん・評『世界の基地問題と沖縄』

記事:明石書店

千葉県松戸市六実(むつみ)
千葉県松戸市六実(むつみ)

 のっけから私事で恐縮であるが、評者は千葉県松戸市のはずれにある六実(むつみ)地区で生まれた。海上自衛隊下総航空基地と陸上自衛隊松戸駐屯地のちょうど真ん中に位置し、頭上にはいつもP-3C哨戒機やAH-1S対戦車ヘリコプターが飛んでいるという土地である。さらに南東部には陸上自衛隊習志野駐屯地があり、晴れた日には空挺団のパラシュートが輸送機からパラパラと蒔かれていく様子が小学校の窓からよく見えた。

 こうした環境で育った筆者にとって、基地というのはごく普通に存在するもの――日常と非日常で言えば「日常側」の風景であって、そこに何か特別なものを感じたことはあまりない。おそらく多くの六実住人たちにとってもこれは同じであったのだろう。基地が何らかの政治的問題として扱われることはまずなかったし、その存在が意識されること自体があまりなかったように思われる。

 しかし、今にして思うと、これはなかなか珍しい関係性であったのかもしれない。実際、『世界の基地問題と沖縄』を読むと、基地の存在は多くの時代と地域で、接受国政府や地元社会と少なからぬ緊張関係を引き起こしてきたことがわかる。第1章で扱われている沖縄を例に取ると、米軍人による殺人(1957年のジラード事件)、性的暴行(1995年の少女暴行事件)、重大事故(2004年の沖縄国際大学ヘリ墜落事故)といった問題が持ち上がっており、しかもそれは氷山のごく一角にすぎない。一方、第6章で扱われているサウジアラビアの場合、米国と接受国政府は基地と地元社会の接触を最低限度に留め、摩擦を起こさないように配慮したが、それでも外国軍の巨大な基地が自国に置かれていることや、米軍人の生活様式(例えば男女が一緒に勤務すること)そのものへの反発は避けられなかった。

川名晋史編『世界の基地問題と沖縄』(明石書店)
川名晋史編『世界の基地問題と沖縄』(明石書店)

 また、本書では扱われていないが、評者が専門とするロシアも海外に多くの基地を持つ国であり、駐留軍人の犯罪、駐留経費負担問題、環境汚染など、米軍基地とよく似た問題をいくつも引き起こしてきた。特に2015年、ギュムリの在アルメニア・ロシア軍基地から脱走したロシア兵が一般家庭に押し入り、一家7人を皆殺しにした事件は、接受国であるアルメニア社会の猛烈な反発に繋がった。

 では、六実の基地は何故ああも影が薄いのか。この点について考えてみることで、『世界の基地問題と沖縄』が問おうとしているものを浮かび上がらせてみよう、というのが評者の目論見である。

 まず指摘したいのは、六実周辺の基地が自国のもの――つまり、同じ日本人である自衛隊員が暮らし、任務にあたる自衛隊施設だということである。基地の存在に非日常感を覚えないのはこのためであろう。制服を脱いだ自衛隊員たちは周辺の住民と区別がつかない普通の人々であり(とはいえガタイのよさは明らかであるが)、それゆえに異質な存在が身近に居るという感覚を引き起こすことがない。沖縄県民が抱く外国軍への強い反発感情も、あるいは横田や横浜でしばしば見られる外国文化への憧れも、自衛隊基地はもたらさないのである。

 実は下総基地は戦後、米軍基地だった時代があり(当時の名称は米軍白井基地)、評者の祖父もそこで軍属として勤務していた。近所の老人たちは「あの頃は米兵が暴れたんだ」「真っ白な米軍さんのハウスがあったんだ」などと語るが、1959年の米軍撤退以降、基地はこうした注目を集める存在ではなくなっている。さらに1982年には厚木基地の米海軍艦載機が移転するという報道があり、移転先に下総基地が含まれていたことから、千葉県内の公共施設には「米艦載機移転反対」という看板がそこここに建てられた。評者の生家の近所にある六実市民センターもその一つである。つまり、外国の軍隊が自分達の生活空間に駐留するということは、自国の軍隊が駐留するのとは全く違う事態として受け止められがちであって、これが「問題としての基地」につながるのではないだろうか。

六実市民センター。保健所や団地に近接した場所にある。
六実市民センター。保健所や団地に近接した場所にある。

 また、六実周辺の基地は、帝国陸海軍との関わりをあまり強く意識させない。例えば佐世保、鹿屋、呉、横須賀、厚木などは帝国海軍によって整備され、第二次世界大戦の歴史においても必ず登場する。地元もこの点を一種の観光資源として活用しており、「基地の街」であることをむしろ前面に出そうとしているように見える。

 しかし、下総基地はもともとゴルフ場として整備されたものを帝国陸軍が接収して建設した飛行場という出自を持ち、実際に使用されたのは大戦末期のごくわずかな期間に過ぎなかった。松戸駐屯地の方は陸軍航空隊の主要飛行場の一つであり、第二次世界大戦末期の首都防空戦を担う飛行53戦隊が根城としたが、今では滑走路はなくなっており、戦争の最前線であったことを窺わせるものはほとんどない。戦後、自衛隊が「戦わない軍隊」であり続けたこと、下総基地に置かれたのが実戦部隊ではなく訓練部隊(教育航空集団)であったことなども、戦争との関わりを意識させない要因となったように思われる。逆に言えば、沖縄や世界各国の米軍基地は自分達の生活空間と戦争をつなぐ存在であるがゆえに大きな関心を集めてきた、と言えるだろう。

下総基地。フェンス際でかぼちゃが売られていた。
下総基地。フェンス際でかぼちゃが売られていた。

 とはいえ、基地はやはり軍事施設である。2001年に米国同時多発テロが発生すると、しばらくしてから下総基地の周りには土嚢を積んだ機銃座が築かれた。さらにそのしばらく後、自衛隊のイラク派遣が決定されると、下総基地には中東の空に合わせた真っ青な迷彩塗装のC-130輸送機がしばしば降りるようになった。日本の植生に合わせた緑色の塗装と全く異なる「青いC-130」は、自分の暮らす街と遠い戦場を一直線に繋ぐものであるように当時の評者には見えた。

 それでも多くの六実住民たちの基地に対する意識が大きく変化したようには見えず、これは平素の関心の低さと相関しているように思われる。つまり、基地がどのように扱われるかは多分に社会的要因に依存するということだ。基地を軍事的にだけでなく社会的にも検討の俎上に載せねばならない、という本書の問題意識に大きく頷かされた所以である。

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