「正義感」に目覚めた人びとの祈り ピュリツァー賞作家がとらえた中国の「信仰の現場」
記事:白水社
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老倪はわたしに、偉大な香会[寺院参拝者に無料で茶を出す茶棚の運営会]は政府から独立しているものだと何度も言った。これは真実であり、この1年で見てきたほとんどの人の精神生活も同じである。それでも政府はその人たちの生活において抗しがたい役割を果たし、彼らを封じ込め、取り込もうとしていた。
中国が強権国家になる可能性は低いと思われた時期もあった。毛沢東の死後、1970年代後半に力を握った穏健派は、統制を弱めることで国民からの信頼を回復しようとした。経済発展を推進し、人びとにも共産党支配を脅かさない限り好きなようにさせるのがねらいだった。
この時期──改革期──は2010年ごろまで断続的に続いた。その間、観測筋はこの緩和がいつまでも続いて、より自由な社会の創出につながると考えた。または少なくともそう期待した。これは世界全体でも楽観的な時期で、主として冷戦後、社会が自由と民主主義に向かって突き進んでいるように見えていた。中国は1989年の天安門事件で打撃を受けたものの、経済改革とテクノロジーが社会の開放をもたらすはずだった。そして実際、この時期には概して社会はより自由になっていった。その動きの一部は政府の主導によるものだった。政府はソ連崩壊を受け、改革と開放でいっそうの繁栄をつくり出し、そうすることで抵抗勢力を弱めれば実際には統制を強めることができると判断したのである。
しかしその後、政府は方針を変えた。これ以上の自由化は自分たちの支配を脅かすと考えたからだろうか。政策が変わった。穏健派の批判者が投獄され、インターネットも政府の管理下に入り、社会運動は政府に従わなければ抑圧すると言い渡された。停滞の時期が根を下ろしている。
【著者動画:Souls of China Trailer (with subtitles)】
しかし宗教と信仰の分野では、政府は諸団体を制圧するよりは取り込もうとする努力を強めてきた。また、2000年以上も中国を治めた伝統的な政教一致体制の用語や一部の理念をうまく活用してもいる。このような傾向はおそらく続くだろう。そして政府は──何世紀も前の諸政府と同様──国民の道徳のあり方を導き、支配しようとするだろう。
勝者は中国の「伝統的」宗教、つまり道教、仏教、そして民俗宗教になりそうである。これらのほうが制御しやすいと判断した政府は、それらが政府の政策に従うようにしながらも、より大きな活動の余地を与えるだろう。この点については妙峰山の香会や山西省の道士の例が示唆に富む。どちらも課題に直面しているものの、全体として政府は彼らの活動を支援している。
これは、中国が国家主義的な国教会があり指導者が礼拝に通うロシアのようになるとか、共産党がナショナリズムと宗教を組み合わせた政策を提唱するインド人民党(BJP)の中国版に変わっていくという意味ではない。共産党は権力を保持したいが、その統制は、宗教の露骨な手段化に頼らなければならないほど弱まってはいない。しかし過去の王朝と同様、共産党は国の道徳や信仰の価値基準の決定者という立場を強化するための方法として、容認可能な信仰の形を推進し続けるだろう。
政府からの支援の拡大は、本書で注目した2つの傾向と矛盾する。1つは外国との関係が増えていることである。政府は宗教の外国との接触を、ソフトパワーを推進する方法の1つとしてある程度までは歓迎する。一例として、中国は仏教信仰の復活に助けられて世界最大の仏教国の1つになり、無錫市は世界仏教フォーラムの常設拠点になった。中国は道教の国際会議や会合も後援している。しかし全体としては、共産党は外国との関係を警戒する。これはローマ教皇庁との関係を持つカトリック教会のほか、ダライ・ラマが率いる亡命指導部のもとにあるチベット仏教、世界規模のウンマを持つイスラム教、そして国際的な積極的行動主義をとるプロテスタント教会について言えることである。これらの集団が拡大するにつれて、信者と支配者とのあいだで緊張が高まっていくだろう。習近平の前任者たちは、今では非常に緩く見えるやり方で宗教政策を行っていた。政府の今後の課題は、同じようにバランスを取って信者を遠ざけずに宗教を管理していくことになる。
こうした傾向は、秋雨教会のような教会でとくに顕著である。中国の主要な宗教のなかでプロテスタントだけが中国人の大多数のあいだで急速に成長しており、外国とも相当なつながりを持っている。このため政府は散発的に統制を試みてきた。肝心な問題は、政府がプロテスタント教会が成長し続けるのを認めるか、または──過剰な自信と新たに手に入れた富に影響されて──全面的に支配しようとするかである。
わたしは支配しようとはしないのではないかと思う。そうしたい衝動に突き動かされることはある──2014年から16年にかけて浙江省で行われた、未登録教会の十字架を撤去する運動が1つの例である。しかし政府は、宗教生活の規制について16年に開いた大がかりな会議で──これはそれまでの15年間でもっとも重要な会議だった──この運動を広めなかった。政府は宗教に「中国化」する、つまりもっと中国的になるように指示したが、それも非常に漠然とした、どっちつかずの指示の仕方だった。今後も政府はフェイントと攻撃を繰り返し、この新時代に宗教をどう扱うべきかについて政府高官のあいだでも議論が拡大するだろう。しかし長期的には、政府は全面支配を達成しようとはしないと思う。文化大革命など最近の歴史が、抑圧が実は真の信仰を促進しうることを政府高官に示しているのも作用するだろう。
このような外国との関係は政府にとって明らかに悩みの種だが、国家権力に対して宗教が突きつける本当の難題は、宗教がその創出を助けているもっととらえがたいもの、つまり国民のあいだでふたたび目覚めた道徳心から来ている。本書の登場人物たちの願望を1語で表すことができるとすれば、それは「天」である。中国語の天の概念は、孔子から倪家までの中国人の、秩序だった社会についての考えの中心にある。それは正義感と尊敬の念をともない、どの1つの政府よりも高位にある。キリスト教徒はよく、神から授けられた権利という考え方はキリスト教にしかないと言うが、それは間違っている。どの信仰にも現世の権力に勝る理念がある。儒教徒にとってそれは孔子の教えで、仏教徒にとっては経典に書かれた理想、道教徒にとっては自然、つまり道の理念、そして普通の人にとっては正義感──天から授かった権利と正義に関する信念である。
これは過去数十年間には見られなかったことである。共産党支配下の中国には常に反体制派がいた。そのなかにはノーベル平和賞受賞者の劉暁波のように人に刺激を与える人物もいる。しかし往々にしてこれらの活動家や彼らが行う普遍的権利の追求は一般の人たちを置き去りにした。多くの人が、活動家たちはいいことをしようとしているが実際的ではないと理解していたのである。大多数の人が政治変革を求めるのは、主にもっと狭い目標がある場合だった。農民が不当な課税に抗議するとか、都会の住民が自宅の取り壊しに反対するなどである。動機は個人的で、包括的なイデオロギーや体制を変えたいというあこがれと関係があることはまれだった。
精神面の変化を求める最近の動きはこれよりも深く、より切実である。宗教や信仰の運動にも利己的な目的はあるが、そのような運動は現状に対する体系的な批評にもなる。信仰が政治からの逃避になりうるのは事実である。ほとんどの人は信頼できないが、少なくともわたしの教会、わたしのお寺、わたしの香会はいい人でいっぱいだ、という具合に。信心にかこつけて混沌とした社会から逃げることはある。
しかしこうして内面に注目しても答えの一部しか出てこない。信仰は社会的行為を促進することもある。人権擁護弁護士によるすぐれた維権運動の参加者の非常に多くがクリスチャンだったことや、その他の活動家も仏教や道教に触発されてきたことは偶然ではない。体制の支えであると表現されることの多い儒教でさえ、この動きの一部である。儒教の古典で孔子は、自分の心を秩序立てて初めて変化が起きると助言する。しかし南老師が教えたとおり、それは始まりでしかない。変化は外向きに、自分の家族へ、共同体へ、そして国へと流れていく。
1980年代と90年代には、リチャード・マドセンが著書『民主主義の法(Democracy’s Dharma)』で明らかにしたとおり、台湾では仏教や道教の慈善団体が同国を民主主義国家にするのを助けた。本土で短期的に同じことが起きる可能性は低い。政府は、信仰との関係にかかわらず非政府団体の設立や組織を容認しないと明言している。維権運動が粉砕されたも同然で、ほかの宗教も災害救済などの奉仕活動しか認められず、社会の改革を試みるなどより広い目標達成に向けた活動ができずにいるのは、これが理由である。
【動画:China and the American Dream Revisited, Dr. Richard Madsen】
しかしより広い歴史的観点に立てば、これらの運動はより広範な変革の基礎を築くのを助けている。宗教は道徳律、正義、公正、良識など、どんな政府の政策よりも高位にある普遍的な志向の準拠枠を提供する。
こうしたなかから、一般に中国として知られている、過度に営利主義的で脆弱な超大国以上の中国が到来しつつある。その中国は、わたしたちみんなに影響する、経済を大半の決定の根拠としてきた社会に連帯と価値基準を回復させるにはどうしたらいいかという世界規模の会話にも参加している。この数十年間で中国の伝統があまりに激しく攻撃され、その後あまりに露骨な形の資本主義に取って代わられたために、もしかしたら中国こそが、価値基準を探し求める世界的な動きの最前線にいる可能性もある。
これらは普遍的な志向であり、世界のほかの人たちと同様、中国の人びとも、こうした願望が特定の政府や法律以上の何かに支えられていると感じている。彼らは、2500年前の古典『書経』にあるとおり、天に支えられているのである。
天はわが民の見るとおりに見る
天はわが民の聞くとおりに聞く
【イアン・ジョンソン『信仰の現代中国 心のよりどころを求める人びとの暮らし』(白水社)所収「あとがき──天を求めて」より】