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「助けてください! シカに地図を食べられた」 インド人作家によるユーモラスな日本滞在記

記事:白水社

アマゾンの「旅行本カテゴリー」で売れ行きランキング1位を獲得! パーラヴィ・アイヤール著『日本でわたしも考えた──インド人ジャーナリストが体感した禅とトイレと温泉と』(白水社刊)は、彼女の4年におよぶ東京暮らしをもとにつづられた、驚愕と新発見づくしの日本滞在記。気づきと才知に富んだ、日印比較文化論。
アマゾンの「旅行本カテゴリー」で売れ行きランキング1位を獲得! パーラヴィ・アイヤール著『日本でわたしも考えた──インド人ジャーナリストが体感した禅とトイレと温泉と』(白水社刊)は、彼女の4年におよぶ東京暮らしをもとにつづられた、驚愕と新発見づくしの日本滞在記。気づきと才知に富んだ、日印比較文化論。

【著者動画:Orienting — An Indian in Japan with Pallavi Aiyar】

日本語版への序文(『日本でわたしも考えた──インド人ジャーナリストが体感した禅とトイレと温泉と』P.7─9より)
日本語版への序文(『日本でわたしも考えた──インド人ジャーナリストが体感した禅とトイレと温泉と』P.7─9より)

 

 仏教は中国と日本の両方で社会の基盤となったが、インドはその発祥の地だ。そして、21世紀のいまでもインド、中国、日本は仏教を通じて互いを理解し合っている。わたしたちは行動や気質といった面では異なるが、互いの文明における信仰や信念に関わるものを直感的に理解できるのである。

 わたしが調べた限りでは、記録に残っているものとしては菩提僊那ぼだいせんな(ボーディセーナ)というマドゥライ出身の僧が最初に日本を訪れたインド人ということになる。彼が日本文化にもたらした巨大な影響は、中国で禅宗を確立したもう1人の南インド出身の僧、菩提達磨ぼだいだるま(ボーディダルマ)に比肩するだろう。

パーラヴィ・アイヤール Pallavi Aiyar(photo © Raiyani Muharramah)
パーラヴィ・アイヤール Pallavi Aiyar(photo © Raiyani Muharramah)

 菩提僊那は8世紀初めに生まれた。彼の生涯と旅は、多方面にわたる仏教の影響の展開と、それがアジアの諸地域を結びつけ文化的一体性をもたらしていった複雑な過程を自ら示すものだ。多くの南アジア出身の僧と同じく、菩提僊那は文殊菩薩(智慧を司る菩薩)が中国の五台山に住んでいると信じ、中国滞在中、彼は日本から来た遣唐使と出会い、仏教を篤く信仰していた聖武天皇(701─756)からの来日招請を伝えられ、それを受け入れることにした。菩提僊那は、ほかの高僧とともにカンボジアとチャンパ(現在のヴェトナム中部および南部)を経由して日本に赴き、彼らの教えは日本仏教の基盤の多くや宮廷文化をかたち作っていった。

 菩提僊那とともに船に乗っていた者の1人に、玄昉げんぼうという僧がいた。彼はのちに奈良の聖武天皇のもとで政治に関わることになる学問僧で、唐で18年過ごした後に仏典5000巻を携えて帰国の途についていた。吉備真備きびのまきびも乗船していた。彼は、今日の日本語でも使われている片仮名の開発に関わったという説がある。片仮名におけるサンスクリットの影響は、吉備真備が菩提僊那と航海をともにし、その際に知識を得たことに理由を求める指摘もある。また彼が日本にもたらしたものには、中国の刺繡に加えて古箏こそうがあり、これが「琴」として日本の宮廷音楽で用いられる基本的な楽器の1つになった。

 チャンパで菩提僊那に弟子入りした仏哲ぶってつ〔ブッダスティラ〕という僧がおり、渡航した僧侶たちのまとめ役をしていた。仏哲は、インド神話を題材にした楽舞──南アジアではありふれたリズムだが、当時の日本にはもたらされていなかった──を伝える役割も担った。こうした楽舞は林邑楽りんゆうがくの名で知られるようになり、日本の芸術体系に取り込まれていった。

 菩提僊那を乗せた船は736年に大阪の港〔難波津〕に着岸し、一行は奈良の都に向かった。仏教が唐王朝のもとで得られた教えに支えられ、それまで神道に傾倒していたエリート層を脇に追いやり、日本でしっかりと根を張るようになったのは奈良時代(710─784)〔平安京遷都までとする場合は794年まで〕のことだった。聖武天皇のもとで、仏教は公に認められることになった。奈良の寺院は広大な土地を蓄積し、絶大な政治的影響力を手にするようになった。

 菩提僊那の来日はこうした経緯の中で起きたことだった。それまで、日本における仏教の知識はすべて朝鮮か中国を経由してもたらされてきた。インド人の菩提僊那は直ちに畏敬の念をもって遇され、当時の重要な仏教教育・研究拠点だった大安寺に住むことになった。彼はサンスクリット語を教えるとともに、日本における華厳宗の確立でも役割を担った。菩提僊那はその後、760年に亡くなり、霊山寺に埋葬された。

東大寺の大仏殿(752年建立)
東大寺の大仏殿(752年建立)

 一部の仏教宗派とは異なり、華厳宗は現在でも存続している。総本山は奈良の東大寺で、ここはユネスコの世界遺産に指定されている。東大寺は前身の寺院が741年に創建され、752年には盧舎那仏の開眼供養会が行われた。この大仏は重さ250トン、高さ15メートルで、当時としては世界最大の銅像だった。開眼供養会は、深刻な飢饉が続き天然痘が広がる社会状況を転換させるべく、仏の加護を得たいと願った聖武太上天皇によって執り行われた。

 わたしが家族と一緒に奈良を訪ねたのは、開眼供養会から1266年後、つまり2018年4月のことだった。桜の見ごろは終わってしまったばかりだったが、山沿いではまだ花をつけている場所がところどころで見られた。奈良の街はコンパクトで、京都ほど観光客だらけというわけではなかった──野生のシカが公園や寺社をゆっくりと歩けるほどに、わたしたちのガイドがくれた名刺の裏には、役に立つ日本語の表現がいくつか掲載されていた。「おはようございます」や「ホテルまでお願いします」に続いて記されていたのは、「助けてください! シカに地図を食べられた」だった。旅行会社の一風変わったユーモアにわたしはくすりとしたが、その翌日にはシカが観光客の地図を口で取り、むしゃむしゃと食べる様子を実際に目の当たりにしたのだった。

奈良で役に立つ日本語の表現(英語表現を翻訳したローマ字表記)
奈良で役に立つ日本語の表現(英語表現を翻訳したローマ字表記)

 地図を食べてしまうシカはたしかにチャーミングではあるが、奈良の最大の見どころというわけではない。その栄誉はやはり東大寺の大仏が手にしており、大勢の人びとが参拝に訪れている。大仏は巨大な木製の堂に鎮座しており、京都から日帰りで来て自撮り写真に興じる観光客でいっぱいだった。観光客の多くは口を開けて仏像を見つめたのち、大仏殿を支える柱に開けられた穴に向かう。この穴は大仏の鼻の穴と同じ大きさで、ここをくぐった者は来世で悟りを開くことができると信じられている。この穴は子どもしかくぐれないほどの大きさなのだが、それでも大人の中国人観光客はひるまず挑戦していた──当然ながらお尻のところでつっかえてしまい、引っ張ってもらう羽目になったのだが。

地図を食べるシカ、ソフトクリームを食べるヒト。
地図を食べるシカ、ソフトクリームを食べるヒト。

 夫や子どもたちは寺の庭を散策してもらうことにして、わたしは東大寺別当の居住エリアに向かった。第218代別当と華厳宗管長を務めた森本公誠こうせいと面会するアポイントメントを取っていたのだ。居住区は寺院の敷地と隣接する場所にあった。低層の家屋群が屋根付きの通路でつながっており、そこから伝統的な様式の庭園を見渡すことができた。応接間に通されると、森本長老(敬意を込めて彼はこう呼ばれている)が両手でお茶を持ってわたしを待ってくれていた。外では遅咲きの枝垂れ桜が見えていた。

奈良公園のシカ
奈良公園のシカ

 森本は驚くほど快活で、ハーフリムの眼鏡をかけ、生き生きとした目をせわしなく動かしながら菩提僊那について古い友人のように語っていた。彼は、聖武天皇が奈良の高僧のなかから大仏開眼供養会の導師を選ぶ際、インド出身の菩提僊那に決めた経緯を説明してくれた。ペルシャ、朝鮮、ヴェトナム、中国、中央アジアからの使節を含む大規模で国際的な参列者の前で、菩提僊那は大仏の眼に瞳を描き入れることで魂を吹き込んだ。「インドだと、魂を物体に吹き込むということがおわかりいただけるのではないでしょうか?」と森本長老が尋ねてきた。「この概念を欧米人に説明するのは非常に難しいのです」

 そのとおりだった。わたしには彼が言っていることを理解することができた。日本文化には、インド人が本能的に理解できる部分が多くある。中国とは異なり、日本では共産革命は起こらず、そのため過去から切り離されることもなかった。宗教行事があちこちで行われ、寺社が今日でも存在していることは、インドとの共通項なのだ。

 実は、日本仏教にはバラモン教ないしヒンドゥー教の神々の一部が守護尊や菩薩として取り込まれており、日本語では「天」と呼ばれている。たとえば、ヒンドゥー教のシヴァ神は「大自在天」となって観音菩薩と、ブラフマー神は「梵天」として文殊菩薩と、それぞれ何らかの関連がある。インドラ神(帝釈天)やヴァルナ神(雷神)は、寺院の門を守る役目を与えられている。ほかに日本仏教に取り入れられた神々としては、ヤマ(閻魔天)やガルーダ(迦楼羅かるら)、ラクシュミー(吉祥天)がいる。サラスワティー(弁財天)はとくに人気があり、これを本尊とする寺院は日本各地に何百山もある。

 だが、インドから中国を経て日本に至る長い伝播の中で、こうした神々は外見的にも哲学的意味合いの点でも変貌を遂げた。普通の日本人にとっては、自分たちが寺院で常日頃崇拝する対象にヒンドゥー教のルーツがあることは、あまり伝わってこなかった。ガネーシャについて言えば、ゾウの頭をした像が公開されることはめったにないため、文字どおり目にすることができない。ガネーシャは非常に強い力を持つため凝視することは危険と考えられており、像は秘仏扱いになっているのだ。

 

【パーラヴィ・アイヤール著『日本でわたしも考えた──インド人ジャーナリストが体感した禅とトイレと温泉と』所収「第8章 僧侶、映画スター、革命家、そしてゾウ」より】

 

【著者インタビュー動画:Japan is in between Europe & Asia. It has a slight identity problem】

『日本でわたしも考えた──インド人ジャーナリストが体感した禅とトイレと温泉と』目次
『日本でわたしも考えた──インド人ジャーナリストが体感した禅とトイレと温泉と』目次

 

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