元首相銃撃・山上徹也容疑者は、死刑にできるのか?
記事:作品社
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ほんらい日本人は争いを好まない、穏健な精神文化をもっている。動乱の現代世界の中にあって政権を揺るがすようなデモは起きず、熾烈な権力闘争や徹底的な論争も起きない。
そのいっぽうで犯罪者に対しては、とくにSNSで苛烈な攻撃が行なわれる。匿名性のネット炎上が、しばしば他者を排撃しては死に追いやることすらある。しばしばそれらは、自己責任論として個人を追いつめる。日本社会のウラの顔は、どうやら穏健ではないようだ。死刑制度の温存の理由は、そこにあるのかもしれない。一体いつから、そんな精神文化が生まれたのだろう。犯罪学の第一人者の疑問は、歴史へと分け入ってゆく。
飛鳥・奈良と皇族内の争闘、豪族同士の権力争いをへて、平安時代はじつに穏健な時代だった。400年近くもの間、死刑が行なわれなかったのである。冤罪をふせぐため、あるいは人を殺さないのが徳のある天子の証しだった、貴族たちが死穢を嫌ったからと、諸説ある。しかしそこには、奈良いらいの朝廷・貴族の仏教への帰依があきらかだ。奈良朝は東大寺盧舎那仏・国分寺・国分尼寺を建立し、平安貴族たちは密教仏寺をつくり、天皇は退位して仏門に入り法皇となった。
しかるに、厳格な律令に戒められた奈良王朝とはちがって、平安の帝たちは法皇となって院政を執るにあたり、屈強な私兵を雇うのだ。武士の発生である。朝廷と貴族は殺戮という死穢を、この武士たちに押しつけたのだ。本朝における死刑の復活は、武士の台頭と軌を一にしていたことがわかる。
武士の世になって、追討という公的な処刑、切腹という自裁死が誕生し、死刑は日本社会に復活した。江戸時代になると武士道が美化され、称賛されるようになる。『葉隠』の「武士道とは死することとみつけたり」に、それは象徴された。
だが武士の世の中も、現代で考えるような武士道とは似ても似つかぬ、打算的な世界だったようだ。菊田幸一が本書で取り上げるのは、絶体絶命の危機にさいして、言葉たくみに相手の寝返りを誘う鎌倉武士。そして隙をみて寝首を掻く武士、手柄を横取りするあきれた武士たちである。
戦国時代にいたって奨励された武士道も、忠義の死や自裁死を「世にも稀なこと」「珍しく天晴なこと」と称賛している。つまり戦乱の時代には、日和見や打算に走る武士が多数を占めていたのだ。
江戸時代をつうじて確立された武士道は、儒教的な忠義と自裁の思想である。しかし切腹は、人口の5%にすぎない武士の特権だった。近藤勇のような農民出身者は切腹を望んでも容れられず、かれの最期は庶民の刑罰である討ち首だった。
その武士の特権が、明治政府の富国強兵政策のなかで庶民のものになっていく。農民兵を一人前の兵隊にするには、暴力的な規律とともに精神的な規範が必要となったのだ。それが大和魂であり、武士道である。やがて武士道は軍隊のみならず、国民の精神生活をも律するものとなる。ベストセラーになった『武士道』(新渡戸稲造)が、そのバイブルだったと菊田幸一は指摘する。
しかしその新渡戸稲造は、じつはアメリカ在住のクエーカー教徒なのである。つまり戦前日本の精神主義をつくり出したのは、クリスチャンだったことになる。アメリカ産の武士道を必要とした明治精神の空白は、それでは何だったのだろうか。本書が解き明かした謎のキーワードこそ、仏教の殺生戒である。因果応報の真意も、現代人は誤解しているという。
そして廃仏毀釈による仏教的死生観の喪失こそが、わが国における死刑制度の存続ではないかと問いかける。こうして日本人の精神の遍歴、明治いらい失われた信仰心こそが、死刑をもとめる思想であることが判明するのだ。これは思想史上の、きわめて根源的な発見ではないか。
さて、この紹介文のタイトルに掲げた「銃撃犯は死刑にできるのか?」である。日本国憲法は残虐な刑を禁じている(憲法36条)が、31条の「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」によって、刑法の死刑条文が有効とされる。
そして死刑は量刑であるから、その計画性(悪質性)や政治性(国事犯)が問われることになる。一国の元総理、自民党政権に大きな影響力を持っていた元首相を殺害したのだから、内乱罪などの有罪極刑(有罪即死刑)が適用される可能性がないではなかった。
しかしその後、犯行動機が旧統一教会への怨恨であることが明らかになった。結論からいえば、求刑は死刑でも無期懲役が相当であろう。殺人罪による量刑は、二人以上殺した場合に死刑(永山則夫規準)である。この規準の妥当性をめぐって、新たな論争が巻き起こるのは必至であろう。そのサブテキストこそ、本書にほかならない。
著者は法曹界と法学界の誰もがみとめる、刑事政策・犯罪学の当代第一人者である。死刑廃止論者としても、その理論(新社会防衛論)は卓抜している。これまでに著者があらわしてきた死刑廃止論のエッセンスをわかりやすく、本書は丁寧に統計データを配しながら案内してくれる。
最後に編集者としてあらかじめ答えておこう。あなたは自分の家族が殺されても死刑廃止ですか? という問いに。編集子も著者も、この質問のいうとおり犯人を殺したい感情に駆られるであろう。しかし、感情に駆られて戦争に賛成するのではないように、国家による殺人を拒否したい。犯人が著者の提起する仮出所のない終身刑において、悔恨と償いの日々をまっとうすることこそ、被害者遺族の癒しになるのだと。著者は犯罪被害者の立場から、死刑廃止論を確立してきた研究者でもあるのだ。